幕間 六畳半の『透明人間』と、泥まみれの『居場所』
深夜。
青白いモニターの光が、六畳半の狭い空間を無機質に照らしている。
床にはいつ食べたかもわからないコンビニ弁当の空き箱が散乱し、飲みかけのペットボトルの底には濁った液体が沈殿していた。
俺は、カタカタと乾いた音を立ててキーボードを叩いている。
画面に映し出されているのは、歴史シミュレーションゲームの攻略スレだ。
『昔の奴らは効率が悪すぎる。俺なら三日で城を落とすね』
掲示板にそう書き込んだ瞬間、俺のちっぽけな全能感は満たされた。歴史のことを全く知らない俺が、顔も見えない誰かを見下し、歴史の偉人たちを無能と笑うことでしか、自分を保つことができなかったのだ。
——お前なんて、代わりはいくらでもいるんだ。
ふと、モニターの画面が歪み、あの時の光景がフラッシュバックする。
息が詰まるようなオフィスの空気。スーツ姿で、ひたすらペコペコと頭を下げている俺。
目の前では、ネクタイを緩めた上司が、青筋を立てて怒鳴り散らしていた。
『マニュアル通りにやれって言っただろ! なんで勝手な真似をした!』
『いえ……その方が、効率よく仕事が進むと思いまして……』
『言い訳するな! 結果的に取引先に迷惑がかかっただろうが! お前みたいな無能は、言われたことだけやっていればいいんだよ!』
怒声が耳鳴りのように響く。
良かれと思ってやったことだった。少しでも会社に貢献したくて、自分なりに考えて動いた結果のミスだった。
だが、その失敗は俺の存在意義そのものを否定する言葉となって返ってきた。
『代わりはいくらでもいる』。
その一言が、俺の心をポキリと折った。
どうせ自分は、誰の役にも立たない。歯車の一つにすらなれない不良品だ。
頑張って、期待して、結果を出そうとして、その度に怒られて否定されるくらいなら。
最初から何もしない方が、傷つかない。誰にも期待されず、誰の責任も負わなければ、これ以上心が削られることはないのだ。
そうして俺は社会から逃げ出し、六畳半の部屋に引きこもった。
誰とも関わらず、ただネットの海を漂うだけの存在。
俺は、この世界で完全に『透明人間』になったのだ。
「……おい!」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、オフィスの壁がドロドロと溶け落ち、現代の上司の顔が、見慣れた猿のような顔――木下藤吉郎の顔に切り替わっていた。
「おい茂助! てめえ何サボってやがる! 早く前へ出ろ!」
藤吉郎の怒号と共に、モニターの画面が弾け飛ぶ。
バシャァッ!
六畳半の部屋に、突如として大量の泥水が雪崩れ込んできた。
「うわあっ!?」
冷たい雨が打ち付ける。足元がぬかるみ、血と泥の臭いが鼻をつく。
桶狭間の凄まじい豪雨。美濃・森部での赤黒く染まった泥。そして、墨俣の激流。
戦国時代の過酷な記憶が、安全地帯だったはずの六畳半を容赦なく飲み込んでいく。
現代のブラック企業なんて目じゃない。少しでも気を抜けば、文字通り首が飛ぶ。上司――信長や藤吉郎の命令は絶対で、理不尽極まりない究極のブラック環境だ。
「嫌だ……痛いのは嫌だ! 俺は働きたくないんだ!」
泥水の中でもがきながら、俺は必死に逃げようとした。
責任から逃げたい。期待されたくない。誰の命も背負いたくない。
現代でそうしたように、ここでも透明人間になって、誰の記憶にも残らずひっそりと生きていきたかった。
だが――。
『若! さすがでさぁ! その背中、どこまでもついていきますぜ!』
背後から、血走った目をした三太夫が槍を振り回しながら追いかけてくる。
『茂助様! 無駄のない見事な御采配! この勘兵衛、感服いたしました!』
勘兵衛が帳簿を片手に並走してくる。
『おおお……! 吉晴殿! 我らが盾となりましょう!』
但馬が男泣きしながら俺の前に立ちはだかる。
「お前ら、ついてくんな! 俺はただ逃げたいだけだ!」
叫んでも、彼らは俺を絶対に離そうとしない。
そして、襟首をガシッと力強く掴み上げられる。
『お前しかいねえんだよ、茂助! 俺の背中はお前に任せたぞ!』
藤吉郎が、ニヤリと笑って俺を最前線へと放り投げる。
『茂助! 大儀であった! 次も期待しておるぞ!』
魔王・織田信長の恐ろしい声が天から降ってくる。
気づけば、俺の両肩には何人もの人の命が重くのしかかっていた。
重い。痛い。苦しい。逃げ出したい。
だが――この狂った戦国の世で、誰も俺を「代わりの利く存在」だなんて言わなかった。
「俺は……俺は……!」
***
ハッと息を呑んで、俺は目を覚ました。
「……はぁっ、はぁっ……」
荒い呼吸を整えながら、暗闇の中で瞬きを繰り返す。
天井の木目が、薄明かりの中にぼんやりと浮かび上がっている。
六畳半の部屋ではない。ここは岐阜の屋敷、俺の寝室だ。
背中の下には、少し硬い煎餅布団の感触。
「……夢、か」
全身にびっしょりと寝汗をかいていた。心臓が嫌なリズムで早鐘を打っている。
ふと、隣から「すぅ……はぁ……」という、規則正しくも少し力強い寝息が聞こえてきた。
首を巡らせると、今日、俺の妻になったばかりの桔梗が、すやすやと眠っていた。
「……」
俺は布団の中で、そっと自分の両手を顔の前にかざした。
現代にいた頃、マウスとキーボードしか触っていなかった、青白くて華奢な手。
それが今ではどうだ。
剣ダコと槍ダコでゴツゴツに硬くなり、節くれ立ち、泥と血の染み付いた、一回り以上も分厚い「武士の手」になっている。
「……傷つかないために、あんなに逃げ回ってたのにな」
ポツリと、誰に聞かせるわけでもない声が漏れた。
現代社会の摩擦から逃げ、六畳半の安全地帯に引きこもっていた小太郎。
それが今は、戦国時代という最大の摩擦の中で、泥まみれになって転げ回っている。
毎日が命がけで、上司の無茶振りに胃を痛め、部下の命を背負って震えている。
だが。
(透明人間だったあの頃より……ずっと『生きてる』って実感があるな)
俺は自嘲気味に笑い、大きなため息をついた。
隣で眠る新妻の寝顔を見つめる。
「すぅ……旦那様……明日は、太ももの裏を重点的に……」
寝言で恐ろしいことを呟いている桔梗に、俺はそっと布団を掛け直してやった。
祝言を挙げた初夜だというのに、甘いムードなど微塵もなく、「足腰の鍛錬こそが戦場での生存確率を上げますわ!」と笑顔で四股踏みを強要された。おかげで今の俺の下半身は乳酸が溜まってパンパンだ。明日も筋肉痛でまともに歩けないだろう。
だが、そんな理不尽極まりないスパルタ妻の寝顔を見ていると、不思議と胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。
実家で俺を偽物と拒絶した母上・いとの絶望の目。
それでも家を守るために、冷徹に俺を利用する父・泰晴。
裏事情など知らず、無邪気に俺を慕ってくれる弟の氏光。
そして、俺の逃げ腰を何かと勘違いして、どこまでもついてくる三太夫や勘兵衛、但馬たち。
「俺が逃げたら……こいつらが死ぬ。……それは、なんか嫌だな」
現代では、自分が逃げても社会は勝手に回っていた。俺一人がいなくなっても、誰も困らなかった。
でも、ここでは違う。
俺がサボれば、部下たちが飢える。
俺が逃げ出して陣形が崩れれば、こいつらが敵の槍に貫かれる。
俺が死ねば、この鬼妻が未亡人になってしまう。
それは、絶対に嫌だ。
「……責任重大じゃねえか、クソッ」
かつて、責任という言葉から全力で逃げ出したニートが、初めて自分から守るべき責任を受け入れた瞬間だった。
ふと、数日前に藤吉郎がボヤいていた言葉が脳裏をよぎる。
『近々、お館様が大号令をかけるぞ。ついに京へ上る時が来た』
上洛。
天下を巻き込む、途方もない大戦の始まりだ。
その言葉を思い出しただけで、俺の胃がキリキリと痛み始めた。
「天下人のお供で京都出張なんて、絶対ロクなことにならない……」
ブラック企業の全社を挙げた一大プロジェクトである。裏方である俺が最前線でこき使われ、泥水と血の海を泳がされるのは目に見えている。
痛いのは嫌だ。死ぬのはもっと嫌だ。できれば一生、後方で温かい飯を食って寝ていたい。
「……でも、まあ。死なない程度にサボりつつ、俺の『居場所』を守ってやるか」
暗い寝室の天井を見上げながら、俺は静かに腹を括った。
現代のヒキオタニート・堀尾小太郎は、この日、本当の意味で戦国を生きる当主「堀尾茂助吉晴」になったのだ。
明日から始まるであろうエンドレス・四股踏み地獄と、上洛という名の地獄の出張に向けて、俺は重い目をもう一度閉じた。
明日からは第三部・京都上洛編が始まります。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




