第41話 コミュ障と天才軍師、沈黙の三日間
墨俣一夜城の完成により、織田軍の橋頭堡は確立された。これから美濃の攻略はどんどん進んでいくだろう。
だが、俺には築城よりも胃の痛いミッションが課せられていた。
「おい茂助! 今日も行ってこい!」
朝一番、藤吉郎が俺の背中をバシッと叩いた。
「相手はあの竹中半兵衛だ。……何としても口説き落として、俺の元へ連れてくるんだ!」
俺はげっそりとした顔で頷いた。任務は半兵衛のスカウト。
俺はこの六年間で、部下を使ったり、身内武将と話したりすることには慣れた。だが、「営業」となると話は別だ。相手は、あの諸葛孔明レベルの天才軍師と聞いた。俺みたいな凡人が何を話せばいいんだ。ハードルが高すぎる。
俺は重い足取りで城を出て、長良川の河川敷へと向かった。
***
【一日目】
川辺の柳の下。竹中半兵衛は、今日も静かに糸を垂れていた。
その周囲には、人を寄せ付けない静謐な空気が漂っている。まるで結界だ。あの中に入って、いきなり「就職しませんか」なんて言えるわけがない。
(……どう切り出せばいいんだ。雑談か? 雑談から入ればいいのか?)
俺は草むらの陰で十分ほど躊躇った末、意を決して近づいた。
半兵衛がチラリとこちらを見る。目が合った。
俺の頭の中が真っ白になる。意識しすぎて、普段通りの会話ができない。何か言わなきゃ。当たり障りのない話題だ。
「……あ、あのっ」
俺は裏返った声を出した。
「ほ、本日は、お日柄もよく……いい天気ですね!」
半兵衛が、怪訝そうな顔で空を見上げた。
空は、分厚い鈍色の雲に覆われていた。今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした曇天だ。
「……いい天気、ですか?」
「は、はい! いえ、すごく、その、雨が降りそうで……風流というか、趣があるというか……」
何言ってるんだ俺は。曇りのち雨だぞ。
半兵衛は、不思議そうに俺を見た後、ふっと口元を緩めた。
「……そうですね。一雨来そうな気配。……嵐の前の静けさとも取れる。悪くない」
半兵衛はそれだけ言うと、また水面に視線を戻した。
会話終了。俺はそれ以上何も言えず、半兵衛の隣にドカッと座り込み、持ってきた釣り竿(糸を垂らすだけ)を握りしめて地蔵のように固まった。
三時間後。俺は一言も発せず、逃げるように城へ帰った。
***
城に戻ると、藤吉郎が待ち構えていた。
「どうだった茂助! 脈はありそうか!」
「……天気の話をしました」
「はあ? 天気だあ? そんな世間話をしてる場合か! もっとこう、織田家の将来性とか、俺の熱意とかを語れよ!」
「無理ですよ! あんな天才相手に、俺みたいなバカが駆け引きなんてできませんって!」
俺は泣き言を言った。だが、藤吉郎は鬼だった。
「明日も行け! 連れてくるまで帰ってくるな!」
***
【二日目】
俺はまた、川辺に来ていた。半兵衛は、昨日と同じ場所にいた。まるで風景の一部のように溶け込んでいる。
(今日こそは……今日こそは相手の興味を引くような話を……)
俺は心の中でリハーサルをした。『竹中様、最近の調子はどうですか?』いや、馴れ馴れしいか。『ご趣味は?』いや、釣りしてるの見れば分かるだろ。
考えれば考えるほどドツボにハマる。
俺は半兵衛の隣に座った。半兵衛が、無言で一礼してくる。その静けさに、俺の用意していたセリフは全て頭から吹き飛んだ。
緊張で口の中がパサパサになる。沈黙が痛い。何か喋らないと、間が持たない。
俺は、とっさに口をついて出た言葉を吐き出した。
「……あの、ご趣味はなんですか?」
半兵衛の手が止まった。
彼は、自分の手に持っている釣り竿を見つめ、次に水面を見つめ、最後に俺を見た。
「……釣り、ですが」
ごもっともです。釣りをしている人間に「趣味は何か」と聞く。これほどマヌケな質問があるだろうか。
俺は顔から火が出るほど恥ずかしかった。死にたい。川に飛び込んで魚の餌になりたい。
だが、半兵衛は怒らなかった。むしろ、深い思索に耽るような顔をした。
「……趣味、か。……私は、これを『趣味』と呼べるほど楽しんでいるのだろうか。……それとも、ただ無為に時間を殺しているだけなのか」
半兵衛がブツブツと哲学的なことを呟き始めた。
俺のバカな質問を、勝手に「自己の在り方を問う禅問答」として受け取ったらしい。
「……深い問いだ。茂助殿、貴殿は核心を突く」
突いてません。テンパっただけです。
俺は「はあ、まあ……」と曖昧に頷き、またしても沈黙の中に逃げ込んだ。二時間後、俺は胃痛を抱えて城へ逃げ帰った。
***
城に戻ると、藤吉郎がカンカンになっていた。
「てめえ! 二日も通って、まだ勧誘してねえのか!」
「だって、隙がないんですよ! 話しかけるなオーラが凄いんですよ!」
「言い訳するな! いいか、これが最後だ! 明日、必ず話をつけろ! ダメだったら、どうなるかわかってんだろうな!」
首チョンパか? それだけは困る。
***
【三日目】
俺は悲壮な決意で川辺に向かった。今日こそは言わなければならない。給料のために。
空は快晴。絶好の釣り日和だが、俺の心は土砂降りだ。
半兵衛は、いつもの場所にいた。俺が近づくと、彼は竿を置き、静かにこちらに向き直った。
「……茂助殿。三日連続ですね」
半兵衛の声は穏やかだった。
俺は、彼の隣に座り込んだ。心臓がバクバクしている。言うぞ。言うぞ。でも、断られたらどうしよう。「お前ごときが何様のつもりだ」って言われたら泣いちゃう。
一分経過。五分経過。十分経過。
言葉が出てこない。俺は膝を抱えて、モジモジしていた。チラリと半兵衛を見る。彼は何も言わず、ただ川面を見つめている。その沈黙が、俺をさらに追い詰める。
もういいや。どうなってもいい。早く楽になりたい。
俺は、絞り出すように言った。
「……あの、竹中さん」
「はい」
「……織田家に、ご興味はありませんか?」
言ってしまった。ド直球だ。何のひねりもない、下手くそな勧誘だ。
俺は怖くて下を向いた。怒られるか? 笑われるか?
だが、返ってきたのは、意外な反応だった。
「……ふっ」
半兵衛が、短く笑った。顔を上げると、彼は清々しい表情で俺を見ていた。
「……待ちくたびれましたよ、茂助殿」
え?
「貴殿が何者かの命を受け、私を探りに来ていることは察していました。……初日から、単刀直入に誘うこともできたはずだ」
半兵衛が立ち上がり、川の方を向いた。
「だが、貴殿はそうしなかった。……一日目は天気を語り、場の空気を整えた。二日目は私の内面を問い、心構えを正させた。……そして三日目、機が熟したのを見計らって、ようやく本題を切り出した」
半兵衛が、感極まったように振り返った。
「……『三顧の礼』。……太古の昔、劉玄徳が諸葛孔明を招く際に用いたという、最大の礼節。……まさか、この戦国の世に、それを実践する者がいようとは」
サンコノレイ?
聞いたことあるようなないような。
俺はただ、ビビって言い出せなくて、三日間通っちゃっただけなんですが。
「……買いかぶりかもしれませんが」
半兵衛は、真剣な眼差しで俺を見た。
「『今孔明』などと呼ばれる私に対し、故事に倣って三度足を運び、礼を尽くしてくださった。……その教養と、奥ゆかしさ。感服いたしました」
教養なんてないです。俺の最終学歴は高卒認定です。
「……分かりました。貴殿の顔を立て、一度、木下藤吉郎殿にお会いしましょう」
えっ。マジで?
「ほ、本当ですか!? 来てくれるんですか!?」
「ええ。……貴殿のような誠実な男を部下に持つ主君ならば、会う価値はあるでしょう」
誠実……。コミュ障でモジモジしていたのが、誠実さに変換されたらしい。天才の思考回路は分からない。
***
俺たちは連れ立って城へ戻った。
藤吉郎は、半兵衛の姿を見るなり、裸足で飛び出してきた。
「お、おおお! 竹中殿! よくぞ参られた!」
「……木下殿。家臣の茂助殿の礼節に免じて、参上いたしました」
半兵衛が静かに頭を下げる。
藤吉郎は俺を見て、親指を立てた。『よくやった! 後でボーナスやるぞ!』という顔だ。
俺は、どっと疲れが出て、部屋を出てへたり込んだ。
そこへ、部下の勘兵衛がやってきた。
「おお、茂助様! まさか本当に、あの竹中半兵衛殿を連れてこられるとは!」
勘兵衛が興奮して鼻息を荒くしている。
「若、この度の采配、お見事でした。まさか『三顧の礼』の故事を実践されるとは」
「……なあ、勘兵衛。そのサンコノレイって、何だ?」
俺が聞くと、勘兵衛はクイッと眼鏡を直す仕草をした。なお、眼鏡は掛けていない。
「三国志の英雄、劉備が、隠遁していた天才軍師・諸葛孔明を味方につけるため、三度も自ら足を運んで頭を下げたという故事でございます。……賢人を招くために最大限の礼を尽くすことの象徴です」
俺は口を開けた。
俺は礼なんて尽くしてない。ただ言えなくてモジモジしてたら三日経ってただけだ。
それが、天才軍師の心を動かす最大の礼節になった?
人生、何が幸いするか分からない。
「それにしても、茂助様」
勘兵衛が声を潜めて言った。
「よくぞ、あのような恐ろしい御仁を……」
「え? そんなに怖いの? なんか病弱そうだったけど」
「若はご存知ないかもしれませんが、あのお方はとんでもない天才なのです」
勘兵衛はあたりを見回し、さらに声を低くした。
「二年前のことでございます。竹中殿は、主君・斎藤龍興の放蕩を諫めるために、たった十六人の手勢で、難攻不落の稲葉山城を乗っ取ってしまったのです!」
「……はい?」
俺は耳を疑った。
稲葉山城って、あの山の上にある、何千人、何万人も籠もれる斎藤家の巨大要塞だろ?
それを、たった十六人で?
「しかもその後、『城が欲しくてやったわけではない』と言って、あっさり城を返して隠居してしまわれた……。まさに、常識の通じない怪物です!」
俺は絶句した。
あの大騒ぎになってた事件、あいつの仕業だったのか!?
そんな危険人物と、俺は三日間も二人きりで釣りをしていたのか?
もし機嫌を損ねていたら、俺も城ごと乗っ取られていたかもしれない。
「……知らぬが仏とはこのことか」
俺は背筋が凍る思いがした。
同時に、二度とあの人と釣りに行きたくないと心から思った。
こうして、天才軍師・竹中半兵衛は、俺の勘違い勧誘によって織田家との縁を持った。
彼がこれから、美濃攻略の切り札として活躍することになるのだが、それはまた別の話。
俺はただ、明日からあの気まずい釣り場に行かなくて済むことに、心底ホッとしていた。




