第40話 空飛ぶ帳簿、天才軍師は「ヒコウキ」の夢を見るか
墨俣一夜城が完成してから幾日が経過した。
城内には、敵襲とは別の、平和すぎて死にそうな退屈が充満していた。
敵の斎藤軍は、突如出現した城に恐れをなしたのか、あるいは様子見なのか、攻めてくる気配がない。
俺は、見張り櫓の最上階で、死んだ魚のような目をしながら、進む城の改築を眺めていた。
「……暇だ。あのアニメの続きどうなったかなー」
俺は寝転がって天井を見上げた。
仕事は午前中で飽きて辞めた。寝るのも飽きた。
俺は懐から、書き損じの紙を取り出した。計算ミスをした裏紙だ。
「……折るか」
俺は手慰みに、紙を折り始めた。
子供の頃、よくやったやつだ。長方形の紙を折り込み、先端を尖らせ、翼を広げ、重心を整える。
「へそ飛行機」、またの名を「イカ飛行機」。滞空時間が長く、風に乗るとよく飛ぶタイプだ。
「よし、完成」
俺は出来上がった白い紙飛行機を手に取り、櫓から外へ向けた。
「行け、俺の退屈を乗せて」
ヒュッ。
俺が軽く手首を返すと、紙飛行機は風を捉え、ふわりと舞い上がった。
予想以上に良い出来だったらしい。
紙飛行機は、上昇気流に乗ってグングンと高度を上げ、城壁を越え、堀を越え、城外へと滑空していった。
「あ、やべ。外まで行っちゃった」
俺は慌てて窓から身を乗り出した。帳簿の裏紙が城外に流出したとなれば、藤吉郎に怒られる。回収しなければ。
紙飛行機は、優雅な弧を描きながら、長良川の河川敷へと飛んでいく。
そして、柳の木の下で釣りをしていた、一人の男の足元に、静かに着陸した。
***
男は、音もなく舞い降りた白い物体に気づき、釣竿を置いてそれを拾い上げた。
「……なんだ、これは」
男は、手の中にある奇妙な物体をまじまじと観察した。
紙だ。だが、ただの紙屑ではない。
幾重にも折り重ねられ、先端は鋭く、左右に翼のようなものが広がっている。
そして何より、先ほど空から滑空してきたその軌道。石や矢のように放物線を描いて落ちるのではなく、鳥のように風を捉え、漂うように距離を伸ばした。
「……奇妙な形だ。だが、理に適っている。先端で風を切り、翼で風を受け……己の重さを、風の力で支えているのか?」
男の目が細められた。彼は紙飛行機の構造を指でなぞった。
「力で飛ばすのではない。風を利用し、流れに乗る……。これぞ『柔よく剛を制す』形か」
そこへ、俺がドタドタと城門を出て、河川敷へ降りる。
「あ、あの! すいません! それ、俺のです!」
俺が声をかけると、男がゆっくりと振り返った。
二十代半ばだろうか。色は白く、病人のように痩せている。着物は粗末だが、その目は底知れず深い。
「……貴殿が、これを?」
男が紙飛行機を掲げた。
「あ、はい。……手慰みに折って遊んでたら、風に乗って飛んでっちゃって」
俺はヘラヘラと笑いながら、紙飛行機を受け取ろうとした。
だが、男は渡さなかった。
「……遊んでいた、と」
「ええ。暇だったんで」
「……この形状。ただ紙を折っただけに見えるが、鳥の翼を模したような工夫がある。……貴殿は、これになんと名付けているのです?」
男が真剣な顔で聞いてくる。俺は首を傾げた。
「名前? えーっと……飛行機ですよ。紙ヒコウキ」
「……ヒコウキ?」
男が眉をひそめた。
「聞き慣れぬ言葉だ。……それは、いかなる術なのですか?」
「術? いやいや、飛行機ですよ。空を飛ぶ乗り物」
俺は身振り手振りで説明した。
「こう、鉄の塊がブーンって飛んで、人が乗って、遠くまで行くやつです」
「……鉄が、人が乗って、空を?」
男の目が、驚愕に見開かれた。
しまった。また変なことを言ってしまった。
「あ、しまった。この時代にはまだなかったな」
俺は頭をポリポリと掻いた。
「えーっと、じゃあ気球かな? デカい風船みたいなやつに人がぶら下がって……。あー、でもどうやって飛ぶんだっけ? 火を燃やすんだっけ? わかんね。俺、動画で見ただけだし、理科の成績『3』だったんで」
俺は一人で納得して、適当に切り上げた。どうせ説明しても通じないだろう。俺もよく分かってないし。
だが、男の脳内では、俺の馬鹿な独り言が、とんでもない化学反応を起こしていた。
(ヒコウキ……キキュウ……。聞いたこともない言葉だ。だが……)
男は戦慄していた。
鉄が空を飛ぶ? 人が空を行く?
それはつまり、天より地を見下ろし、戦場の全てを俯瞰するという概念か。
(鳥の視点を持つということか。……この男、ただの巨漢ではない。我々の想像も及ばぬ、空を制する兵法を知っているのか……?)
男は、俺の顔をまじまじと見た。
俺は、鼻をほじりそうになるのを我慢して、愛想笑いを浮かべていた。
「貴殿が、この城の主ですか?」
「いや、俺はただの補佐役だよ。城主は、今出かけてる」
「そうですか。……名は?」
「堀尾茂助」
俺が名乗ると、男は「ほう」と口元を緩めた。
「噂の『鬼の茂助』殿でしたか。……鬼というよりは、随分と家庭的というか、細やかな方ですね」
失礼な奴だ。
だが、不思議と嫌な感じはしない。
「あんたは?」
「私は……しがない釣人ですよ」
男は釣り竿を担ぎ直した。
「名を、竹中半兵衛と申します」
ハンベエ。
タケナカ、ハンベエ。
俺の動きが止まった。
脳の奥底にある、現代の記憶のデータベースが、埃を被ったファイル検索を始めた。
(……待てよ。なんか、聞いたことあるぞ?)
信長とか秀吉とか家康みたいなメジャー級じゃない。
でも、なんかこう、レアキャラ枠で見たような……。
(そうだ。確か、すげえ頭のいい軍師とか、そんなんじゃなかったか?)
俺の背中に、冷たい汗が流れた。
俺ごとき歴史音痴の一般人が名前を覚えているということは、コイツは歴史に名が残るぐらいの「ヤバい奴」ってことだ。
(……敵か? 味方か?)
そこが思い出せない。
織田家の武将だったか? それとも敵の親玉か?
もし敵だとしたら、こんな所に単身で乗り込んでくるなんて、とんでもない度胸だ。あるいは、俺たちを罠にハメるためのスパイか?
分からない。
だが、俺の生存本能が告げている。コイツを怒らせちゃいけない、と。
「……へ、へぇ。竹中さん、ですか」
俺は警戒レベルを最大に引き上げ、作り笑いを浮かべた。
「今は……どこの家に仕えてるんですか?」
「今はただの隠居の身です。……斎藤家には愛想が尽きましてね」
半兵衛は静かに微笑んだ。
斎藤家。つまり、敵国・美濃の人間だ。
だが、「愛想が尽きた」と言っている。フリーランスか?
「茂助殿。……この城、面白いですね」
半兵衛は、砦全体を見渡した。
「見た目は張りぼて。だが、その中身には、兵を無駄に死なせないための『知恵』が詰まっている。……力でねじ伏せるのではなく、工夫で生き延びようとする意志を感じます」
それは、俺の「死にたくない」「楽したい」というニート根性の産物だ。
だが、この男の目には、それが何か特別なものに見えているらしい。
「織田家も、捨てたものではありませんね。……あなたのような『戦嫌い』の顔をした武将がいるとは」
半兵衛は、俺の顔を見てクスクスと笑った。
バレてる。
俺の心を見抜かれている。
コイツ、やっぱりヤバい。俺の考えていることが全部透けて見えてる気がする。
半兵衛は紙飛行機を俺に返した。
「……矢は、放たれた瞬間から落ちる運命にある。だがこれは、風を味方につけ、落ちることを拒んでいる。……美しい。兵法もまた、かくありたいものです」
なんか良い話風にまとめられた。
俺は紙飛行機を受け取り、ホッとした。
「じゃあ、俺はこれで。……邪魔しました」
俺が立ち去ろうとすると、背後から声がかかった。
「……茂助殿」
俺は振り返った。
「いずれ、その『ヒコウキ』の話……詳しく聞かせていただきたい」
半兵衛は、薄く笑っていた。
その笑顔は、初めて見せる興味と好奇心に満ちていた。
俺は、曖昧に頷いて逃げ出した。
***
城に戻ると、藤吉郎が待ち構えていた。
「おい茂助! どこ行ってた!」
「いや、紙飛行機を飛ばしちゃって……」
「はあ? 仕事中に遊んでたのか! ……で、誰かと会ってたようだが?」
藤吉郎の目が光る。こいつ、見てたな。
「ええ。竹中半兵衛って名乗ってましたけど」
ガタッ!
藤吉郎が椅子から転げ落ちた。
「た、竹中半兵衛だとォ!?」
「え、やっぱり有名人なんですか?」
「当たり前だ! 『今孔明』と呼ばれる天才だぞ! 斎藤家を見限って隠居していると聞いていたが……まさかこんな所に!」
藤吉郎は興奮して俺の肩を揺さぶった。
「で、どうした! 連れてきたか!?」
「いえ。紙飛行機を見て『美しい』とか言って帰りました」
「紙飛行機……?」
藤吉郎が俺の手元の紙飛行機を見た。
「……こんな紙切れで、あの天才の興味を引いたのか?」
藤吉郎は困惑したが、ニヤリと笑った。
「脈ありだ。……茂助、明日から毎日その紙切れを持って釣り場に行け」
「はあ?」
「半兵衛を口説き落とすんだ! お前のその訳の分からないもんで、あいつの心を釣るんだよ!」
こうして、俺の接待生活が始まることになった。
天才軍師と、現代の遊びを知るニート。
紙飛行機が繋ぐ奇妙な縁が、やがて織田家の運命を左右することになるとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。




