第39話 墨俣一夜城
墨俣での突貫工事開始から、七日目の朝が訪れようとしていた。
川霧が立ち込める中、俺は、完成したばかりの櫓の最上階で、震える膝を抱えて座り込んでいた。
「……できた。できちまった」
俺は眼下に広がる光景を見下ろした。
一週間前までただの湿地帯だった中洲に、今はハリボテだが立派な城郭がそびえ立っている。
川に面した側には、泥を塗り固めた防壁。
内側には、兵舎と倉庫。
そして中央には、俺が今いる二層の櫓。
見た目は完璧だ。
泥と水で壁をコーティングしたおかげで、遠目には石垣や土壁のように重厚に見える。
ただ、俺たちのプレハブ工法は、早く組むことに特化しているため、耐久性は二の次だ。強風が吹けばギシギシと鳴るし、壁を強く蹴れば穴が開くかもしれない。
「おい茂助!」
木下藤吉郎が階段を駆け上がってきた。彼もまた、不眠不休の作業で目が窪んでいるが、その表情は狂気じみた達成感に満ちている。
「見ろ! 霧が晴れていく! 対岸の奴らの度肝を抜いてやるぞ!」
だが、藤吉郎が指差した先。
川の対岸から、地鳴りのような音が近づいてきていた。
ズズズズズ……。
霧の向こうから姿を現したのは、斎藤龍興率いる美濃の主力軍だった。
その数、およそ一万。
先日の夜襲は先遣隊に過ぎなかった。今度こそ、本気でこの城をすり潰しに来たのだ。
「ひぃっ! なんだあの大軍!?」
俺は手摺りにしがみついた。
無理だ。これは無理だ。勝てるわけがない。
この城は見た目重視なんだ。本格的な攻城戦なんて想定していない。
「構えろ! 弓隊、鉄砲隊、隙間から狙え!」
藤吉郎が号令をかける。
木下組の三太夫や但馬たちも、壁の狭間に張り付いた。
俺は……俺は、一番目立つ櫓の上で、仁王立ちさせられた。
「茂助、お前はそこに立ってろ! 『鬼』が睨んでるだけで、敵はビビる!」
「いや、的になるだけですって!」
俺の抗議は無視された。俺は恐怖で硬直し、結果として微動だにしない不動の巨像として、敵軍を見下ろすことになった。
***
一方、対岸に展開した斎藤軍も、墨俣の姿を見て動揺していた。
「な、なんだあれは……!?」
「城だ……。いつの間に!?」
「三日前までは、ただの柵だったはずだぞ!?」
彼らの目には、信じられない光景が映っていたはずだ。
霧の中から忽然と姿を現した、巨大な要塞。
川岸には逆茂木がびっしりと植えられ、壁には無数の狭間が開いている。そして、櫓の上には、巨大な男が腕を組んで見下ろしている。
「妖術か……?」
「鬼のような男が見下ろしてきているぞ……」
「一夜にして城が湧いたとでも言うのか……」
「一夜城」。
その伝説が、敵兵の口から漏れ始めた。
常識では考えられないスピードでの築城は、彼らに未知の恐怖を植え付けたのだ。
「怯むな! 所詮は急ごしらえの城だ! 押し潰せ!」
敵将が叫び、太鼓が打ち鳴らされた。
斎藤軍の前衛が、川を渡り始める。
「来たぞ! 撃てぇぇぇ!」
藤吉郎が叫ぶ。
ババン! ヒュンヒュン!
こちらの鉄砲と弓が火を噴く。
だが、多勢に無勢だ。敵は被害を顧みずに前進してくる。
「くそっ、壁に取り付かれるぞ!」
「押し返せ! 壁を壊されるな!」
三太夫たちが槍を突き出して応戦する。
俺は櫓の上で、生きた心地がしなかった。
揺れる。
敵が壁に体当たりするたびに、この急造の城がミシミシと悲鳴を上げている。
「崩れる! これ絶対崩れる!」
俺は心の中で絶叫した。
(……終わった。俺は瓦礫の下敷きになって死ぬんだ)
俺が諦めかけた、その時だった。
ブオオオオオオオオオ――ッ!!!
背後から、腹の底に響くような法螺貝の音が聞こえた。
一つではない。
十、二十、多くの法螺貝が、一斉に吹き鳴らされたのだ。
「……え?」
俺は振り返った。
墨俣の背後、尾張側の方角。
朝日に照らされて、土煙が上がっている。
その土煙の中から、無数の旗指物が現れた。
黒地に、永楽通宝の旗。
そして、織田木瓜の紋。
「……お館様だ!」
藤吉郎が、涙声で叫んだ。
「援軍だ! 織田軍本隊のお出ましだァァァ!!」
地響きと共に現れたのは、織田信長率いる主力軍だった。
柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛……そうそうたる武将たちが、完全武装で並んでいる。
先頭には、先日助けてくれた池田恒興と、前田犬千代の姿もあった。
「また会ったな藤吉郎、茂助! 待ちくたびれたわ!」
犬千代の大声が聞こえる。
信長の本隊は、悠然と墨俣城の背後に布陣した。
「……見事だ」
信長の声が、戦場によく通る。
「七日の約束、違わず果たしたな。……これぞ、我が織田家の威信を示す『一夜城』なり!」
信長が采配を振ると、一万の軍勢が一斉に鬨の声を上げた。
エイ! エイ! オーッ!!
その声は、川を越え、対岸の山々まで轟いた。
***
戦況は、一変した。
川を渡りかけていた斎藤軍は、完全に足を止めた。
目の前には、突然にして出現した不気味な要塞。
そしてその後ろには、無傷の織田軍本隊。
「……退け! 退却だ!」
敵将の悲痛な叫びが聞こえた。
斎藤軍は、潮が引くように撤退を開始した。
戦う前から、勝負は決まっていたのだ。
城があるという事実と、援軍が間に合ったという事実。この二つが揃った時点で、攻め手には勝ち目がなかった。
「……逃げた。あいつら、帰ってったぞ」
俺は櫓の上で、へなへなと座り込んだ。
助かった。
壁が崩れる前に、援軍が来てくれた。
「勝ったァァァ!!」
「墨俣城、万歳!」
城内は歓喜の渦に包まれた。
藤吉郎が俺の元へ駆け上がってきて、抱きついてきた。
「茂助! やったぞ! 俺たちの勝ちだ!」
「……はい。マジで死ぬかと思いました」
「見てみろ! お館様がこっちを見て笑っておられるぞ!」
下を見ると、信長が城を見上げ、満足げに頷いていた。
俺はその視線に、背筋が寒くなった。
褒められるのはいい。だが、何故かその視線が怖かった。
***
その日の午後。
信長が城内に入城し、簡単な祝勝会が開かれた。
城といっても、中はまだ継ぎ接ぎだらけの小屋だ。床板も隙間だらけだ。
だが、信長は上機嫌だった。
「藤吉郎。そして茂助。……よくぞやり遂げた」
信長は、俺たちが作った一夜城の柱をペシペシと叩いた。
「近くで見れば、継ぎ接ぎだらけよのぉ。……だが、敵の目を欺き、拠点を確保するには十分だ。この虚仮威しこそが、兵法の極意」
見抜かれていた。
さすが魔王。俺の手抜き工事などお見通しだ。
「褒美だ、藤吉郎。貴様をこの城の城代に任じ、加増も行う。……そして茂助」
ギクリとした。
「貴様もだ。藤吉郎を補佐し、この城を死守せよ。……美濃を落とすその日まで、ここを一歩も退くな」
……はい?
今、なんて?
「ここを拠点に、美濃への調略を進めよ。……期待しておるぞ」
信長はそれだけ言うと、さっさと清洲へ帰っていった。残されたのは、俺と藤吉郎。そして、まだ未完成の城。
「……嘘だろ」
俺は呟いた。
帰れない。
清洲の長屋にすら帰れない。
今日からここが、俺の家だ。敵地ど真ん中の、隙間風が吹くプレハブ小屋が。
「やるぞ茂助! ここからが本当の戦いだ!」
藤吉郎が目を輝かせている。
俺は、遠くに見える美濃の山を眺めながら、深い深いため息をついた。
墨俣一夜城。
その伝説の裏側には、帰りたくても帰れない俺の絶望があった。




