幕間 清洲同盟の裏側、胃を痛める若武者とサボり魔
永禄五年(1562年)、正月。
清洲城は、かつてないほどの異様な熱気と、ピリピリとした緊張感に包まれていた。
理由は一つ。
東の三河から、独立を果たしたばかりの若き大名・松平元康が、信長様と同盟を結ぶためにこの城へやってきているからだ。
俺は歴史音痴だからよく知らないが、とにかくその「松平」というトップが直々に乗り込んできているらしい。
「ああっ、もう駄目だ! 同盟は破談かもしれねえ!」
台所奉行の木下藤吉郎が、血走った目で厨房に駆け込んできた。
「どうしたんですか、藤吉郎様。えらい慌てようで」
俺、堀尾茂助が山積みのお膳を片付けながら尋ねると、藤吉郎は頭を抱えた。
「先ほど、お館様と松平殿の顔合わせがあったんだが……松平殿の顔色が悪すぎる! 完全にうちの殺気に呑まれちまって、今にも倒れそうだったんだ。見かねたお館様が『しばし休息を』と中座されたが……あんなヒヨッコじゃ、織田と同等に結ぶ対等な同盟なんて、夢のまた夢だ」
無理もない。
松平といえば、ほんの二年前の桶狭間まで俺たち織田軍と最前線で殺し合っていた相手だ。それ以前からも、三河と尾張は国境を巡って長年血みどろの争いをしてきた、いわば不倶戴天の敵同士らしい。
迎える織田家は「舐められてたまるか」と殺気立っている。そんなアウェーの極致に放り込まれたら、若い大名なんて縮み上がって当然だろう。
「バカ野郎ども、気を抜くな! 後半の会談に向けて、熱い茶と湯治の用意だ! 少しでも相手をくつろがせろ! 急げ!」
「はいはい、分かりましたよ……」
俺は適当に返答し、茶器を取りに行くふりをして台所の奥へ引っ込んだ。
冗談じゃない。ピリピリした殺気と、上司の怒号。そんなブラック職場にこれ以上いられるか。
俺はそのまま、こっそりと城の裏庭へ抜け出した。
冷たい正月の風が、火照った顔を冷やしてくれる。
俺は懐からマイ水筒(竹筒)を取り出した。中には、厨房の竈からくすねてきた、ただの「白湯」が入っている。
戦国時代では水をそのまま飲むとお腹を壊すことが多いので、俺はいつも一度沸騰させた白湯を持ち歩いていた。胃にも優しいし、ホッとするのだ。
「はぁ……。どいつもこいつもピリピリしやがって。偉い人が来ると、現場が一番苦労するんだよな……」
俺は裏庭の隅にある大きな石に腰掛け、竹筒の白湯をちびちびとすすった。
その時だった。
「……うッ、おえぇ……」
茂みの奥から、くぐもった声が聞こえた。
ビクッとして振り返ると、立派な着物を着た若い男が、木の幹に手をつき、青白い顔でえづいていた。
年齢は二十歳そこそこだろうか。まだあどけなさが残る顔立ちだが、身なりはあきらかに身分の高い武将のものだ。
だが、その顔色は土気色で、額には脂汗が浮かんでいる。
「だ、大丈夫ですか?」
俺は慌てて駆け寄った。
「……はッ!? お、おのれ、刺客か!?」
若い男は、ビクンと肩を震わせ、腰の刀に手をかけた。その目は、極限の恐怖と緊張で血走っている。まるで、罠にかかった小動物のような目だ。
「違います違います! ただの台所番ですって! 刺客が前掛け(エプロン)なんてしないでしょ」
俺が両手を上げて無害をアピールすると、男はふらりとよろけ、再び木に寄りかかった。
「す、すまぬ……。少し、胃の腑が痛んでな……。吐き気はあるのだが、何も出てこぬ……」
男は胃のあたりを抑え、苦しそうに顔を歪めた。
俺には、その症状に見覚えがあった。
現代社会で、ネット対戦のランクマッチで連敗した時や、親から「いつ働くの?」と詰め寄られた時に俺がよくなっていたやつだ。
「ああー……。それ、ストレス性の胃炎ですね。神経性の胃痛ですよ」
「すとれす……? なんの呪詛だそれは」
「呪いじゃなくて、気疲れです。緊張しすぎると、胃袋がギュッて縮んで痛くなるんです」
俺は竹筒の蓋を開け、湯気の立つ白湯を男に差し出した。
「ほら、これ飲んでください。ただのお湯ですけど、温かいものを胃に入れると、少し筋肉がほぐれて楽になりますよ」
「……湯、だと? 毒は入っておらぬか……?」
男は疑り深い目で俺と竹筒を交互に見る。
どれだけ人間不信なんだ、この人。
「入ってませんよ。ほら」
俺は自分で一口飲んでみせた。「あー、あったまる」と息を吐く。
それを見て、男は恐る恐る竹筒を受け取り、口をつけた。
「……あ」
コクン、と喉を鳴らした男の顔から、ふっと険しい緊張が抜けた。
「……温かい。それに、なんだかほっとする……」
「でしょ? 胃が痛い時に、冷たい水や酒をガブ飲みしちゃ駄目ですよ」
俺が隣の石に座るよう促すと、男は素直に腰を下ろした。
「それにしても、あんたも大変ですね。今日は大事な同盟の儀式だから、あっちの接待の席に出なきゃいけないんでしょ?」
俺が気楽に話しかけると、男は自嘲気味に笑った。
「……ああ。だが、恐ろしいのだ。この城の空気すべてが、私を押し潰そうとしているように感じる。……長年、憎み合い、血を流し合ってきたこの敵地のど真ん中で、私は笑って杯を交わさねばならぬ。……腹の内を探り合い、少しでも隙を見せれば呑み込まれる。……胃の腑が千切れる思いだ」
なるほど。この人も、松平の殿様についてきた武将か何かだろう。
上の因縁のせいで、こんなアウェーな敵地に連れてこられて、接待の席で愛想笑いをしなきゃいけないのだ。さっき藤吉郎が「松平の殿様が倒れそうだ」とボヤいていたから、こっちの陣営も相当ピリピリしているに違いない。
「分かりますよ、その気持ち。間に挟まれるポジションって一番辛いですよね」
俺は深く頷いた。
「偉い人たちが勝手に決めたことに振り回されて、現場が一番神経をすり減らすんです。周りは敵だらけみたいに見えるし、ちょっとでも失敗したら自分の首が飛ぶかもしれないし」
「……! そ、その通りだ! お主、よく分かっておるな!」
男が身を乗り出してきた。
ネットの愚痴スレで、ブラックバイトの店長への不満を書き込んで意気投合した時のノリだ。俺はバイトなんて三日でバックれたが、こういう底辺同士の連帯感には親しみがある。
「ええ、俺もいつも胃を痛めてますから。でもね、あんまり思い詰めちゃ駄目ですよ。背伸びして強がっても、疲れるだけです」
俺は竹筒を受け取り、蓋を閉めた。
「『自分がやらなきゃ』って肩肘張ってると、いつか心が折れちゃいます。プライドなんて気にしてたら胃に穴が空きますよ。……ヤバいと思ったら、今日みたいにこっそり抜け出してサボればいい。無様でも、格好悪くても、とにかく『生きて家に帰る』のが一番の勝ち組ですから。俺の目標なんて『働かずに暮らす』ですからね」
俺は気楽に笑った。
どうせ物事なんて、なるようにしかならない。一人で気負ったところで、世界が変わるわけじゃないのだ。
男は、ぽかんと口を開けて俺の顔を見上げていた。
俺の巨体と、泥臭い風貌。そのギャップのある極度のニート理論。
だが。
男は、俺の言葉を呪文のように反芻していた。
「……無様でも……生きて家に帰る……」
やがて、男はスッと立ち上がった。
その顔色から、先ほどの青白さは消え失せていた。迷いも、恐怖も消え、代わりに深く、重たい光が瞳に宿っている。
「……不思議な男だ、お主は」
男は、まるで何かに憑き物が落ちたような、清々しい顔をしていた。
「死地にあって『気負うな』『無様でよいから生きて帰れ』と説くか。……そうだ。尾張の威光に気圧され、己を大きく見せようとするから足元が揺らぐのだ。泥をすすってでも、この同盟を結び、三河の地へ帰る。それこそが私の唯一の役目であった」
何を一人で納得しているのか分からないが、男は俺に向かって深々と頭を下げた。
「礼を言う。温かい湯、身に染みた」
「いえいえ。無理しないで、適当にやり過ごしてくださいねー」
俺は軽く手を振り返した。
男は来た時の弱々しさが嘘のように、大地を踏みしめるような力強い足取りで、表の御殿の方へと戻っていった。
***
その日の夕方。
無事に松平元康様との同盟の儀式が終わり、清洲城は安堵と歓喜の空気に包まれていた。
「茂助! 大成功だ! これで背後の憂いは無くなったぞ!」
藤吉郎が満面の笑みで台所に駆け込んできた。
「お疲れ様です。同盟、無事に結べたんですね。一時はどうなることかと思いましたけど」
俺が後片付けをしながら答えると、藤吉郎は興奮冷めやらぬ様子で語り出した。
「ああ、聞いてくれよ! あの松平の若殿、最初の顔合わせじゃ青菜に塩って感じだったのに、中座して戻ってきたら、まるで人が変わったように腹が据わってやがったんだ!」
「へえ、そうなんですか」
「お館様の凄まじい覇気を前にしても、一歩も引かず、堂々たる態度で盃を受けた! その覚悟を見たお館様も『あれはただの若造ではない。東を任せるに足る男だ』と大層気に入られてな! 見事な、対等の同盟が結ばれたわ!」
「よかったですねえ。これでしばらくは戦争も減りますかね」
俺は欠伸を噛み殺しながら、空になったお盆を拭いた。
立派な大名もいるもんだな、と俺は他人事のように思う。
プレッシャーに負けそうになっても、自ら奮い立ち、堂々と敵の親玉と渡り合う。まさに戦国武将の鑑だ。
俺があの裏庭で会った「胃を痛めていた気の毒な下っ端武将」にも、少しはその大名の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ。
「まあ、何はともあれ、これで俺たちの仕事も一段落だ! 今日は酒が飲めるぞ茂助!」
「俺は酒より、早く帰って寝たいです……」
俺はため息をついた。




