第11話 春の眠気と、真夜中の侵入者
寒さが緩むと同時に、清洲城下には強烈な「眠気」が蔓延していた。春眠暁を覚えず。冬の間、寒さで張り詰めていた緊張が解け、誰も彼もが欠伸を噛み殺している。
「ふわぁ……。だめだ、眠すぎる」
戦が始まる始まるって言ってるけど、一向に始まる気配がない。
俺もまた、強烈なダルさと戦っていた。
俺のダルさは、周囲の人間とは質が違う。俺は元・引きこもりニートだ。
生活リズムが完全に昼夜逆転している。太陽が出ている間は脳がシャットダウンし、日が沈むと覚醒する。この体質は、戦国に来ても治っていなかった。
「おい茂助! シャキッとしろ!」
猿顔の上司、木下藤吉郎が俺の背中をバシッと叩いた。彼も目の下に隈を作っている。
「今日から三日間、俺たち木下組は『北の櫓』の夜番だ。……最近、城下に不審者が多いからな。武器庫の警備を任された」
夜番。つまり夜勤だ。周囲の足軽たちは「ええー」「夜は寝かせてくれよ」とブーイングを上げているが、俺だけは内心でガッツポーズをした。
夜勤? 最高じゃないか。直射日光を浴びなくて済むし、偉い人たちは寝てるから怒られない。何より、俺のゴールデンタイムだ。
***
その日の深夜。丑三つ時(午前二時頃)。
清洲城の北、武器庫の前の詰所。静まり返った闇の中で、木下組の二十人は全滅していた。
「グゥ……グゥ……」
「ムニャ……母ちゃん……」
全員、爆睡している。無理もない。昼間の訓練で疲れ果てている上、現代のような照明もない真っ暗闇だ。
睡魔に勝てるわけがない。組頭の藤吉郎でさえ、柱に寄りかかって船を漕いでいる。だが、俺だけは違った。
「……目が、冴えてきた」
俺の眼球はギンギンに見開かれていた。現代にいた頃、この時間はネットゲームのコアタイムだった。
脳が最も活性化し、集中力が高まる時間帯だ。俺は槍を抱え、一人で闇を見つめていた。
暗い。静かだ。現代のような街灯も車の音もない、本当の闇。普通なら怖がるだろうが、俺にとって「深夜の静寂」は、親が寝静まった後の安息の時間そのものだった。
「……流石に暇だな」
俺は手慰みに、地面に落ちていた小石を拾い、遠くの松の木に向かって投げていた。
カツン。カツン。コントロールは抜群だ。部屋のゴミ箱にティッシュを投げ入れるスキルが生きている。
その時。塀の外側から、衣擦れの音と、何かが壁をよじ登ってくるような音がした。
ガサッ……。
俺の手が止まった。風の音じゃない。誰かいる。城壁を乗り越えて、外から中に入ってこようとしている?
(……不審者!?)
俺の心拍数が跳ね上がった。
怖い。泥棒か? それとも噂のスパイか?
普通なら「曲者だ!」と叫んで鐘を鳴らすところだが、俺はコミュ障だ。いきなり大声を出す勇気がない。それに、もし相手が凶悪な暗殺者だったら、叫んだ瞬間に吹き矢とかで殺されるかもしれない。
俺はとっさに、手元の小石を握りしめた。そして、塀の上から顔を出そうとしている影に向かって、威嚇のつもりで軽く投げた。
「起きてるぞ、入ってくるなよ」というメッセージのつもりだった。
ヒュッ。
パコーン!
小石は綺麗な放物線を描き、塀の上に現れた人影の額にクリーンヒットした。
「いってぇぇぇ!!」
若々しい、ドスの利いた叫び声が響いた。人影はバランスを崩し、ドサッとこちらの敷地内に落下した。
「だ、誰だオラァ! どこのどいつだ!」
落ちてきた男が、猛然と立ち上がった。月明かりに照らされたその姿を見て、俺は絶句した。
ボロボロの浪人風の着流しだが、派手だ。虎柄の腰巻きに、髪はボサボサに逆立てている。
そして、その手には柄が朱色の長槍が握られていた。どう見ても、カタギじゃない。現代で言えば、特攻服を着た暴走族の総長クラスだ。
(うわあ、一番関わりたくないタイプだ……!)
男は額をさすりながら、鬼のような形相で俺を睨みつけた。
「てめえか! 今の石投げたのは!」
「ひっ……す、すいません! 泥棒かと思って!」
「泥棒だと!? 俺様を誰だと心得る! 前田犬千代様だぞ!」
イヌチヨ? 知らない。歴史の教科書には載ってなかった気がする。だが、その殺気は本物だ。
「き、貴様……よりによって、この俺様がこっそり城に戻って、来たる戦の準備をしようとした出鼻をくじきやがって……」
「えっ? 戻って? あなた、ここの家臣なんですか?」
俺が素朴な疑問を口にすると、犬千代はバツが悪そうに口ごもった。
「……う、うるせえ! 今はちょっと事情があって『出仕停止』になってるだけだ! だがな、今川が攻めてくるってのに、指をくわえて見てられるか! 矢とか色々なものを取りに来たんだよ!」
なるほど。謹慎中の社員が、備品を勝手に持ち出しに来たわけか。完全に不法侵入だ。
「それにしても、てめえ……この暗闇で、塀の上の俺に石を当てたのか?」
「……は、はい。まぐれです」
「まぐれで眉間に当たるかよ。……それに、他の連中は爆睡してるのによく気づいたな。気配を消してたんだぞ?」
犬千代は、俺の顔をまじまじと見た。怒気が消え、興味深そうな色に変わる。
「てめえ、名は?」
「も、茂助です……」
「茂助か。……夜目が利く上に、この『槍の又左』と呼ばれる俺様に石をぶつける度胸。面白い」
いや、ただの夜更かしと、ビビりによる威嚇です。
「気に入った。これやるよ」
犬千代は懐から、小銭が入った巾着袋を取り出し、俺に投げ渡した。
「口止め料だ。俺がここに来たこと、誰にも言うなよ? 見つかるとお館様にまた怒られるからな。……俺は必ず、戦場で手柄を立てて戻ってくる。その時まで、首を洗って待ってろ!」
犬千代はニヤリと笑い、親指で自分の首を掻き切るジェスチャーをした。そして、なぜか武器庫の方へは行かず、身軽な動きで再び塀をよじ登り、夜の闇へと消えていった。
俺は巾着袋を握りしめ、へたり込んだ。
「……怖かった」
心臓がバクバクしている。不法侵入者を見逃して、金までもらってしまった。これ、共犯じゃないか?
翌朝。
目を覚ました藤吉郎に、俺はおずおずと報告した。昨夜、派手な格好の「犬千代」という浪人が侵入しようとしたこと。そして追い返して(?)小遣いをもらったこと。
藤吉郎は顔面蒼白になったが、すぐに頭を抱えて叫んだ。
「あ、あの馬鹿! 犬千代の野郎、戻ってきやがったのか!」
「えっ、お知り合いですか?」
「知り合いも何も、この長屋の元・お隣さんだ! 本当はお坊ちゃまなんだが、いろいろあってな!」
藤吉郎はガシガシと頭を掻きむしった。
「あいつ、お館様のお気に入りの茶坊主を斬り殺して勘当になってる分際で……。見つかったらお館様に殺されるぞ。俺たちまで巻き添えにする気か、あの傾奇者め!」
どうやら、俺が会ったのは、上司の「昔なじみのヤンキー友達」だったらしい。しかも人殺しの前科アリ。
最悪な奴に目をつけられちゃった。
「し、しかし……あの犬千代を、石つぶて一つで追い返したのか?」
藤吉郎が、信じられないものを見る目で俺を見た。
「あいつは『槍の又左』なんて呼ばれる喧嘩の天才だぞ? 俺だって怖くて喧嘩なんか売れねえのに……。茂助、お前やっぱりすげえな。あの暴れん坊も、お前の『鬼』の気迫に押されて逃げ帰ったに違いねえ」
周囲の足軽たちも「さすが茂助様!」「あの前田様を追い払うとは!」と勝手に盛り上がっている。
俺は遠い目をした。
違う。向こうが勝手に諦めてくれただけだ。
だが、この一件でまた変な噂が広まった。
『鬼の茂助は、あの前田犬千代ですら恐れをなして逃げ出す門番』『夜の城は茂助がいる限り鉄壁』。
そんな過剰な警備神話を盛らないでほしい。俺はただ、静かな夜を過ごしたいだけなんだ。
季節は初夏へ向かう。
ある日の午後。城下で買い出しをしていた藤吉郎が、血相を変えて戻ってきた。
「……おい、聞いたか。駿河の方で、兵糧の買い占めが始まったらしい」
低い声だったが、俺の耳には不気味に響いた。
「義元が、いよいよ腰を上げるかもしれん。……今年の梅雨は、血の雨になるぞ」
藤吉郎の顔から、一気に笑顔が消えた。俺の「夜更かし」が評価されるような平和な日々は、終わりを告げようとしている。
俺は、犬千代から貰った小銭の入った巾着を強く握りしめた。あいつも、戦場に来るのだろうか。
まだ攻撃が始まったわけではない。だが、遠くの空で、巨大な歯車が軋みを上げて回り始めた音が聞こえた気がした。
いよいよだ。俺たちは否応なく、歴史の奔流へと引きずり込まれていくのだ。
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