第12話 雨と、暇つぶしの黒白遊戯
清洲の空は鉛色に閉ざされていた。せっかく春が来たというのに、しとしとと降り続く長雨が、城も、城下町も、そして俺たち足軽の心も、じっとりと濡らしている。
「……突きッ! 引きッ! 突きッ!」
泥濘んだ長屋の前の広場で、俺たち木下組二十名は、雨に打たれながら槍を振るっていた。
足元は最悪だ。踏ん張るたびに泥が跳ね、草鞋が重くなる。
俺は、泥水を跳ね上げながら槍を突き出した。
戦国に来て、数ヶ月が経った。
最初はあれだけ大変だった訓練も、慣れてしまえばなんてことはない。以前は、長槍を持つだけで腕が痙攣していたが、今では身体の一部のように馴染んでいる。
毎日毎日、嫌々ながらもやらされ続けた結果、現代人の軟弱な筋肉が、いつの間にか実戦仕様のそれに置き換わっていたのだ。人間の適応能力とは恐ろしいものだ。
だが、慣れたからといって、楽しいわけではない。特に、この雨だ。
「声が小さいぞ! 雨音に負けるな!」
軒下で雨宿りをしている組頭・木下藤吉郎が、鬼のような形相で怒鳴った。自分は濡れてないくせに。
「は、はいっ……! セイッ!」
俺は心の中で毒づいた。雨の中での訓練なんて、ただの苦行だ。鎧の隙間に詰めた藁が水を吸って重くなるし、視界は悪いし、何より洗濯物が乾かない。
現代なら「雨天中止」が常識だろうに、この時代にはそんな配慮はないらしい。
「よし、午前の訓練はここまで! 手入れを怠るなよ!」
ようやく解散の号令がかかった。俺たちは泥だらけの格好で、逃げるように長屋へと駆け込んだ。
***
「……カビ臭ぇ」
長屋に戻り、濡れた着物を絞りながら俺は呟いた。
板の間の湿気がすごい。天井の節穴から、ポツリ、ポツリと雨漏りがしている。そのしずくが、床に置いた桶に落ちる音が、永遠に繰り返されるリズムのように響く。
ピチョン。
ピチョン。
「ああー……暇だ」
午後は自由時間となった。雨が強まり、屋外での活動が不可能になったからだ。
この「待機」というのが、現代人には一番キツい。
スマホがない。ネットがない。本もない。テレビもYouTubeもない。
あるのは、むさ苦しい男たちの体臭と、生乾きの着物の臭い、そして終わりのない時間だけだ。最初のうちは寝て過ごしていたが、さすがに寝すぎて背中が痛くなってきた。
「茂助様、何か面白い話はありませんか?」
隣で槍の手入れをしていた弥七が、死んだ魚のような目で聞いてきた。
彼も暇なのだ。槍なんて毎日磨きすぎて、もう鏡みたいになっている。自分の顔が映る槍を見てニヤニヤしている姿は、少し狂気じみて見えた。
「面白い話か……。昔々、あるところに、ウサギとカメがいました」
「はあ。ウサギですか。美味そうですね。鍋にしますか? 焼きますか?」
「食う話じゃねえよ。駆けっこだ。山の麓から頂上まで、どっちが速いか競走したんだ」
俺はイソップ童話を語って聞かせた。
ウサギは油断して昼寝をし、コツコツ歩いたカメが勝つという教訓話だ。だが、弥七の反応は鈍かった。
「なぜカメは勝負を受けたのですか? 明らかに不利でしょう。それに、ウサギが寝ているなら、その隙に寝首をかけば確実に勝てたはずです」
妙に現実的かつ殺伐としたツッコミを入れてくる。戦国の世に、のどかな寓話は通じないらしい。
ガラッ。
戸が開き、湿った風と共に木下藤吉郎が入ってきた。彼もまた、退屈と湿気で不機嫌そうだ。
「おい、てめえら。賭博はやってねえだろうな」
藤吉郎がジロりと室内を見渡した。
戦が近づくと賭博は厳禁だ。喧嘩の元になるかららしい。
だが、これだけ暇だと、隠れてサイコロを振る奴が出てくる。
「やってませんよ。賭ける金もありません」
「ちっ、しけた面しやがって。……おい茂助、なんかねえのか。てめえの『天竺の知恵』で、この退屈を紛らわせる方法は」
藤吉郎が俺の横にドカッと座り込んだ。
上司までサボりに来た。どうやら、上の連中もこの長雨で作戦会議が進まず、イライラしているらしい。
俺は起き上がり、首をボリボリと掻いた。何か時間を潰せるもの……。トランプ? 紙がない。将棋? 駒を彫るのが面倒だ。
「そうですね……。じゃあ、遊戯でも作りますか」
「遊戯だと? 双六か?」
「いや、もっと単純で、奥が深い頭脳戦です」
俺は長屋の裏手に行き、手頃な大きさの丸い小石を数十個ほど拾ってきた。そして、焚き火の燃えさし(炭)を使って、半分の石を真っ黒に塗りつぶした。残りの半分は、竃の灰をまぶして白っぽくした。次に、板切れに炭で縦横八本の線を引いて、格子状の盤を作った。
「なんだそりゃ。碁か?」
「似てますが違います。名付けて、うーん……いや、オセロでいいや」
俺はオセロのルールを説明した。
黒と白の石を交互に置き、相手の石を挟めば自分の色に変わる。最終的に多い方が勝ち。シンプルだ。
ひっくり返せないから、石を置き換えるようにすれば良いか。
「ほう、挟めば寝返るのか。……戦国の世の習いだな」
藤吉郎が妙に納得した。
俺たちはさっそく対戦を始めた。
パチッ。
俺が黒石を置く。
藤吉郎が白石を置く。
「ここだ!」
「甘いです藤吉郎様。そこは罠です」
パチッ。
俺が角を取るための布石を打つと、藤吉郎はまんまと引っかかり、大量の白石が黒に変わった。
「な、なにぃ!? 俺の兵が一瞬で裏切りやがった!」
「盤面の角を取るのがコツです。角は挟めませんからね。つまり『絶対に落ちない城』です」
「ぬうう……! たかが石遊びと侮っていたが……」
藤吉郎の目が血走ってきた。単純ゆえに熱くなる。現代でも通じるゲーム性は、戦国武将をも虜にしたよらしい。モブだけど。
「もう一番だ! 次は負けん!」
俺たちは雨音をBGMに、延々と石を置き続けた。いつしか、弥七や他の足軽たちも集まってきて、「そこだ!」「いや、右だ!」「あっ、また裏切った!」と野次馬を始めた。
パチッ、パチッ。
石を打つ乾いた音が、薄暗い長屋に響く。
外は土砂降り。世界中が雨に沈んでいるような静けさの中で、俺たちは盤上の戦争に没頭していた。
「……勝った」
十戦目。俺は藤吉郎を完膚なきまでに叩きのめした。盤面は真っ黒だ。白石は一つも残っていない。
「くそォォォ! なんでだ! なんで勝てねえ!」
藤吉郎が頭を抱えて転げ回る。大の大人が、しかも組頭が、石遊びで負けて地団駄を踏んでいる。平和だ。
俺は優越感に浸りながら言った。
「先を読むんですよ。目の前の一個を取るより、その先にある『盤面の支配』を考えるんです」
ニート時代、オンライン対戦で鍛えたオセロの実力だ。接待プレイをする気はない。暇つぶしは真剣にやる主義だ。
藤吉郎は、悔しそうに盤面を睨みつけていたが、ふと真顔になった。その目は、遊び人の目から、冷徹な策士の目へと変わっていた。
「……盤面の支配。……隅を取れば、中央も自ずと制せる。……小さな裏切りを誘い、最後に大勢を覆す」
藤吉郎がブツブツと呟き始めた。
「これ……使えるかもしれん」
「え?」
「この遊戯、ただの遊びじゃねえ。調略の縮図だ。……敵の武将を挟んで寝返らせ、陣地を塗り替える。まさに今の尾張の状況じゃねえか」
藤吉郎の脳内で、何か化学反応が起きたらしい。黒と白の石が、織田軍と今川軍の勢力図に重なったのだ。
「茂助。この石と板、借りるぞ」
「へ? いいですけど」
「お館様に見せてくる。……この遊びには、兵法の極意が隠されている気がする。大軍を相手に、どう立ち回れば『ひっくり返せる』か……そのヒントになるかもしれん」
藤吉郎は石を懐にしまい、雨の中を飛び出していった。
俺は呆気にとられた。いや、ただのオセロですよ? 角を取ったら強いっていうだけのゲームですよ?
「……茂助様、さすがです」
弥七が感嘆のため息をついた。
「ただの暇つぶしに見せかけて、藤吉郎様に軍略を教授するとは……。やはり、茂助様は底が知れない」
違う。俺はただ、藤吉郎をボコボコにしてストレス解消をしたかっただけだ。
俺は再び寝転がった。雨はまだ降り続いている。藤吉郎が信長様に何を吹き込むのかは知らないが、また変なことにならなきゃいいけど。
……ピチョン。
……ピチョン。
雨漏りの音が、俺の意識を現実へと引き戻す。
暇だ。圧倒的に暇だ。だが、この退屈な時間こそが、嵐の前の静けさだということを、俺は心のどこかで分かっていた。
今はただ、この湿った空気の中で、カビが生えないようにじっとしているしかない。俺の戦国ライフは、命のやり取りか、死ぬほど退屈な待機か、その二択しかないらしい。
雨音が強くなってきた。
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