ツヨシ(8)
久しぶりの更新となってしまいました。
お待たせしました。
女に連れられ、怪しげな部屋を出る。
痛む足を引き摺り、壁にしがみつくようにして何とか廊下を進んでいく。そんな俺の様子を見ても、女は手を貸すような素振りすら見せず、あろうことか愉快そうに横目で俺を見ているだけだった。しかし、歩調だけは俺のゆっくりな歩みに合わせてくれているようだった。ますます、俺の想像しているこの女の人物像が霞んでいく。輪郭がぼやけて、実体を捉えることが出来ない。
女と俺が入った部屋は、やはり、例の地下室だった。
厄介そうな機械が入り口に取り付けられていた。もし俺が誰にも見つからずにここに辿りついていたとしても、中に入り込めそうになかった。
全く、運が悪い。今日という日は恐らく、俺の生涯において最も最悪な日に違いない。これほど嫌なことが重なる日は、これからの人生の中でもなかなかないに違いない。
そう感じると共に、俺はまた別のことを考えていた。
今日が、俺の人生の分岐点だと。この分岐を境に、俺の人生は一転する。そう感じていた。
とすると、この女は俺にとって……何なんだろうか。
地下室の中は、俺の見知らぬ世界だった。
前の部屋ほど怪しく感じることがないのは、俺に全く想像することの出来ないものばかりが存在しているからだろうか。何に使うのか分からない機材が机の上に置かれており、壁沿いにびっしりと並ぶ棚には、ラベルの貼られた瓶やファイルが溢れ出さんばかりに押し込まれている。
その光景は俺の好奇心をますますくすぐった。もはや、俺は好奇心に揺すぶられている。そして、この女にも。
俺が目を奪われていると、女がわざとらしく咳払いをして俺を現実に引き戻した。
「まだ名前を聞いてなかったわね。あなた、名前くらいは持ってるんでしょ?」
「ツヨシだ。麻生ツヨシ」
思いっきりぶっきらぼうに言う。
女は小さな声で囁くように俺の名前を唱えた。無邪気な笑みを口元にだけ浮かべて。
「私はユウコ。名字は知っての通り、町田よ」
ユウコ――。何だか、似合うような似合わないようなそんな感じがしてくすぐったくなった。
「ちなみに年は二十一なんだけど……あなたも同じぐらいよね?」
「いや、俺は十七だ」
俺がそう言うと、女は意外だと言わんばかりに目を丸くして見せた。
「そうなの? 大人びて見えるわね。落ち着いてるからかしら」
「俺も、あんたをもっと年増だと思ってたよ」
無愛想にそう言うと、女は少し眉間に皺を寄せて文句を言った。しかし、その表情は何処か楽しげにさえ見えた。まるで、俺との会話を心底楽しんでいるような、そんな感じだ。俺自身も、僅かながらこいつとの会話を楽しんでいる、そう感じた。――何故だ? 俺は今まで人に対してこんな風に思ったことなんかなかったのに。こいつはどうしてこんなにも俺を……。
「それより、国家機密知りたいのよね?」
女はさっきまでとはまるで違う、落ち着き払った冷徹とも言えるような口ぶりで言った。
別に知りたいわけではない。しかし、確かに興味はある。
何の変哲も無い、それどころか世の中の底辺に位置している自分が国家機密を知ることによって、何処か特別な存在に成り上がったような気がして、気分がいいという理由もある。そんなくだらない理由ではあっても、興味があるという事実には変わりなかった。
しかし、不安もあった。
「知ったところで、それだけで済むのか?」
冷たい笑みが俺の網膜に映し出されている。それはまるで何気ない日常にありがちな一つの景色を見ているような感覚だった。何の感慨も起こらない。俺の表情も、こんな風に殺風景なものなんだろうか。
「まぁお察しの通り、知るだけでは終わらない……いた、終われないでしょうね。でも、そうなったとしてもあなたにとって悪い方向にはいかないと思うけど?」
再び、笑み。偽りの温かさを浮かべた笑み。甘い餌をぶら下げた、あからさまな罠のような。
「聞きたくないなら言わないわ。ただ、あなたは何も知らないまま私達に利用されて、一生を終えることになる」
物騒なことを、何の躊躇いも無く吐き出していくこの女の神経が知れない。
利用する? 利用されるなんて、俺の性に合わない。真っ平ごめんだ。
「それを聞けば俺の扱いはどう変わるんだ?」
くすり、と町田ユウコが笑った。何が面白いのか、俺には全く理解できない。
「まぁ利用するには違いないかもしれないけれど、扱いは正当なものになるんじゃない? 何も知らないままじゃなく、全てを知り、理解した上で協力してもらう。そう、利用するんじゃなく、協力してもらうって感じね。まぁ変わらないか……」
語尾は独り言のようだった。か細く霞んでいく声。
果たして俺はこの女の前に存在しているのだろうか――。何となく、俺はそんなことを考えた。一つの存在として、認められているのか。妙に引っかかった。
――そうか。俺はきっと『協力する』ことでようやく存在として認められるのだ。
町田ユウコにとって、無価値、無益なものは存在しないことと同じ。『利用する』ことに利益はあっても、その存在に価値はないのだ。
俺は、一体こいつに何を望んでいるんだ?
瞬間、暗転が訪れた。
部屋の中は相変わらず不健康そうな青白い蛍光灯の光で満たされ、健全を装った空間になっている。
俺の脳内が、闇に。
兄に殺されかけた俺は、兄にとって無益で無価値だった。それ以上に、害をもたらしていただけだった。
最も身近な存在で、自分の分身とも言えるこの世で唯一の兄弟に拒絶されるという、不快感と理不尽さを長いこと味わい、常にその感覚に苛まれていた。
俺は今、町田ユウコに対して兄以上の親近感を覚えている。親近感、というのは語弊があるか。同族だという感覚、だろうか。とにかく、俺とこいつはよく似ている。理屈抜きにそう感じるのだ。
概念は曖昧な割りに、その感覚はそれにそぐわないくらいはっきりとしている。――気持ち悪い。これもかなりのストレスだ。
俺はこのストレスを解消したい。概念と感覚を一致させることで、俺は安心したいんだ。
そのためには、どうしたらいい? そんなの、分かりきっている。俺自身が、はっきりさせたくないのを理由に、答えを先延ばしにしているのだ。下らない。俺は何処まで女々しいんだ。
自分の行動すら定められないひ弱な俺だから、だから――。
脳内に光の筋が届いた。
それを自覚したのと同時に、口と舌が言葉を紡ぎ出した。




