ワタル(1)
第三章・柴田ワタル編、スタートです!
シュウジがシンゴをグループから外すという決断を下した日、ワタルは茫然自失としていた。何年もの間、常に行動を共にし、最良の仲間として、唯一の親友としてシンゴを思っていたワタルには、シンゴがいなくなったという事実をどうしても受け入れることが出来なかった。そして、何度もシュウジに抗議した。「もう一度考え直してくれ。自分にとっても、このグループにとっても、シンゴは必要な存在であるはずだ」と、何度も声を大にして訴えた。しかし、シュウジは感情的になって、合理性を考慮する余裕のなくなっているワタルの言葉に、耳を貸そうとはしなかった。シュウジにとってワタルは、キャンキャンと泣き喚く子犬同然だったのだ。ワタル自身、そうであることをシュウジの素っ気ない反応から察したが、どうすることも出来ず、ただ唇を強く噛み締めるだけだった。
どうしても納得することが出来ず、ワタルはその次の日、シンゴの自宅を訪ねた。何度か訪れたことがあったので、場所はしっかりと頭の中に入っていた。シンゴの家を訪ねるついでに、空き巣に入ったことも何回かあったので、その分余計に彼の中の記憶は鮮明に残っていた。マンションに住んでいるシンゴに迷惑をかけるわけにはいかないと思ったので、空き巣に入ったことがあるということは、シンゴには隠していた。
櫻田と書かれた表札の掲げられた部屋の前に立ったその時点で、ワタルはそこで異変に気付いた。
――鎖が、なくなっている。
シンゴはいつも、家を出る時には必ずしっかりと用心して、ドアノブを鎖でがんじがらめにしていたことを、ワタルは言っていた。
「アサカに万が一のことがあったら、俺はどうなってしまうか分からない」
そんなことを口走っていたシンゴの表情が、ワタルの頭の中に蘇った。そんなことを真面目な表情で言っていたシンゴが、鎖をしないまま家を空けているとは考えられない。
何となく、嫌な予感がした。昨日あんなことがあったのだ。ここを離れて、別の場所へ移り住んでいったのかもしれない。その可能性もあるだろうが、あんなボロボロの状態ですぐに移動を開始出来るだろうか? しかも、まだ十歳だという幼い妹のアサカを連れて。それは、あまりにもリスクが高いことのように思えた。そんなリスクを、シンゴがそう簡単に背負うとは考えづらい。
もしかしたら、家の中にいるのかもしれないと思い、ワタルはインターホンを鳴らしてみた。
予想していた通り、中からシンゴが姿を見せることはなかった。もうここにはいないのだろうか。そんな楽観的な発想の裏に、言い様のない不安がこびりついている。
――シンゴの身に、何かあったのではないか。そう思う根拠は一切ない。しかし、そう考えるのが妥当であり、それが答えであるような気がした。
いてもたってもいられず、ワタルはドアを叩いた。
「おい、シンゴ。ワタルだ。いるのか?」
ワタルは声を張り上げた。鉄製のドアがワタルの拳によって揺すられ、ガシャガシャと不快な音を立てた。その音があらゆる壁に反響し、一層大きな音となってワタルの耳に届いた。視界の端に廊下の向こう側に誰かが入り込んで、ふと、近所迷惑だろうかと、妙に道徳的な考えが頭をよぎった。しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。ワタルは人影に構わず、ドアを叩き続けた。
拳が痛み始め、一旦ドアを叩く手を休めて周りを見回して見ると、さっきの人影が自分のすぐ近くまで近付いてきていたのに気が付いた。
年齢は四十代手前というところだろうか。やつれたような顔をした女性だった。怪訝そうな顔でワタルを見ている。
「あ、すいません。騒がしくして」
咄嗟にワタルは頭を下げて謝った。内心は胸騒ぎがして仕方なかったが、事態がどうであれ、好青年を演じていて損はないということをワタルは今までのあらゆる経験の上で学んでいた。それが条件反射的に現れたのだった。
思いの外、その女性は「あの……」と不安げに口を開き、ワタルに話しかけてきた。
「櫻田さんに御用ですか?」
「シンゴのこと、知ってるんですか?」
「ええ。詳しくは知りませんが、私、隣に住んでいるので」
女性の声は、か細かった。気弱な性格なのだろうかとも思ったが、そうではなく、きっと疲労のためだろうとワタルは思った。今の世の中では、このぐらいの年の人は十中八九、精神的疲労を抱えていることをワタルは知っていた。
「シンゴ君って……ここに住んでいる男の子のことですよね?」
櫻田家の隣人だというその女性は、表札とドアに目を向けながら言った。
「はい。ちょっと彼に用事があって訪ねたんですけど、留守みたいで……何か知りませんか?」
すると、女性は眉をひそめた。ワタルの中の不安が大きくなる。
「昨日も、誰かが訪ねてきていましたよ。それから……」
彼女はあからさまに不安そうな表情を浮かべ、ワタルでもドアでもない場所に視線を泳がせてから俯いた。ワタルは息が詰まるような思いで、女性が次の言葉を発するのを待った。
「そのまま何処かへ……行ってしまったんじゃないかと思います」
「え?」
ワタルは言葉を失った。混乱していた。
シンゴを訪ねてやってくる人物は、グループの人間以外には思い付かなかった。そうでなければ、グループの者ではないシンゴの知り合いの誰かか。しかし、ワタルはそんな人物の話をシンゴの口から聞いたことはなかった。シンゴの唯一の親友であると自負しているワタルは、彼のことなら何でも把握しているつもりだった。確か、親戚もいないとシンゴは言っていたはずだ。
一体誰が、彼を訪ねてここへやってきたと言うのか。
「どうしてそう思うんですか?」
そう尋ねると、女性は「えっと」というのが口癖なのか、大層歯切れの悪い口振りで昨日見聞きした色んな事柄を、思い付いた順に語り始めた。
それらを聞きながら、頭の中で精一杯整理しながらまとめると、何とか理解することが出来た。
昨日、このマンションの下には怪しげな車がたくさん停まっていたのだという。マンション中の人間が不安に駆られたことだろう。職場から帰ってくる時、それらを見たそうだ。
そして女性は、停まっている車の横を抜け、エレベーターホールでエレベーターの到着を待っていた。すると、その車から黒いスーツにサングラスという怪しげな集団が降りてくるのが見えた。余りにも怪しげな井出達を目にして不安になった女性は、エレベーターに飛び乗り、後方からやってくる彼等を待つことなく、自宅のある十一階のボタンを押して一刻も早く自宅へ逃げ込もうとしたのだという。
自宅へ駆け込み鍵をかけると、女性は部屋の中でじっと息を潜めていた。そしてしばらくすると、廊下から話し声がした。微かに聞こえる会話の内容から、どうやら隣の家が狙われていることが分かり、ほっとする半面、どうするべきなのか女性は悩んだ。
隣には、一年前両親に見捨てられた兄弟がたった二人で住んでいることを、彼女は知っていた。しかし、自分のように弱々しい女たった一人では、彼等を助けてあげることなど出来ない。そんな変な気を起こして、自分の身に万が一のことがあったらと考えると、とても動き出せなかったのだと、女性は言い訳をするように言った。そうして彼女は、自室で息を潜めながら聞き耳を立てていたのだ。
彼等は鍵を開けようとしていたようだ。ドアノブを乱暴に動かす音が、幾度となく聞こえてきた。音が止んで、彼等が諦めたのかと思い始めたその時、シンゴの怒声が聞こえてきたのだという。
シンゴはしばらく何かと怒鳴っていたが、突然大人しくなり、廊下での会話は微かに聞こえてくる程度だったので、話の内容までは分からなかったそうだ。
そして、何度かドアが開閉する音が聞こえたかと思うと、何人もの人間がその場を離れていく音が聞こえた。
女性はその後、ベランダに出て下を見た。そうして車が停まっているところを見ていると、シンゴとアサカがあの怪しい車に乗り込むのが見えたそうだ。
一通り話を聞き終えると、ワタルは震える声で女性に尋ねた。
「それは……その車に乗っていたのがシンゴとアサカちゃんだっていうのに、間違いはありませんか?」
間違いだと信じたかった。しかし、十一階から下を見下ろすと、意外にも人影ははっきりと見えた。下にいるのが女性なのか男性なのかはもちろん、知り合いであれば、それが誰なのかはしっかりと把握できるだろう。
「ええ。多分、間違いはありません。若い男の子と、小さな女の子の二人組みなんて、この辺りじゃあの子達にいないだろうし……」
「そうですか……それから帰ってきてる様子は……ないんですよね」
「ええ……そうですね」
ワタルは何も話すことが出来なかった。言葉が、浮かんでこなかった。他に聞かなければならない、聞いておきたいことはたくさんあるはずなのに。悔しさがこみ上げ、ただ拳を強く握った。
「えっと……ごめんなさい」
女性は罰の悪そうな顔で、涙が滲み出しても少しもおかしくはないような表情をしていた。
「私にもっと勇気があれば、あの子達が何処かに行ってしまうこともなかったでしょうに……」
全くその通りだと、ワタルは彼女を罵ってやりたくなった。しかし、いつの間にか分厚くなっていた好青年の仮面が、その言葉を隠した。
「いえ……色々聞かせてもらえただけで十分です。ありがとうございました」
女性は首と手をあたふたとした様子で横に振ってから、丁寧な仕草で少し頭を下げた。
「あの……また話を聞きに来るととがあるかもしれないんですけど、構いませんか」
後で冷静になった時、何か思い浮かんでくるかもしれない。その時、遠慮して面倒になるのを避けるため、先に了承をもらっておこうとワタルは思った。
「ええ、構いませんよ。私には責任がありますから……何でも聞いて下さって構いません」
女性が少しだけ顔を綻ばせた。やつれた顔には何処か不似合いな八重歯が見えた。
「あ」と、女性が声を上げた。彼女は、何処か恥ずかしそうにして視線を泳がせながら「お名前を」と続けた。
「柴田です。柴田ワタルと言います」
「私は、飯田です。飯田カヨです。よろしく、柴田君」
彼女は櫻田という表札の向こう側にある、飯田と書かれた表札を指差しながらそう言うと、また少しだけ微笑んだ。一瞬で消えてしまう、儚い笑顔だ。
ワタルは頭を下げて挨拶をすると、マンションを去った。
飯田カヨ。役に立ちそうには見えないが、協力者が得られた。そう思うと、暗く沈んでいきそうな気持ちを少しだけ奮い立たせることが出来た。