ワタル(2)
日はとっぷりと暮れ、街は闇に包まれている。公共機関がほとんど作動していないため、灯りのついている街灯は少ない。灯りのついている建物もほとんどなく、目が慣れていないとろくに動き回ることもできない。
物陰に隠れ、ワタルはじっと息を潜めていた。運が悪い。思わず舌打ちをしたくなるくらいだ。
夕方、シンゴのマンションを出て自宅へと向かっているときに、何者かに絡まれたのだ。恐らく、どこかのグループの連中だろうとは思っていたが、いつものような感じとは、少し違う気がした。
ワタルのようにグループに所属していて、追い方や逃げ方を分かっていないような感じがしたのだ。背格好から予想するに、ワタルと同年代の男達のように思えた。グループとしての行動に慣れていないのだろうか。
大小様々なグループがこの地域には存在している。そのうちの十近くは、ワタル自身も把握している。友好的なグループや、敵対的なグループ。ワタルの所属する、シュウジの率いるグループはこの地域の中では特に大きく、有名なものだ。そのため、様々なグループと関わりを持っている。
戦略的なことは、全てシュウジが指示を下している。彼は本当に頭の良い人物だ。彼の判断はどうしてか、いつも正しかった。彼の賢明な判断のおかげで、グループは成長してきたと言える。
その成長を、シンゴとワタルが手伝ってきたのだ。それなのに、シンゴはグループを去ってしまった。暗い気持ちが、ワタルの頭の中をもたげてくる。
膝を抱えて、奥歯を噛み締めた。孤独には慣れているはずなのに、柄にもなくやけに寂しく感じた。シンゴが何処かへ行ってしまったという事実が、心に負荷をかけているのだろうか。
その時だった。
耳に音が届いた。足音だ。
こんな暗い路地に、一般市民が入り込んでくるとは思えない。となると、さっきワタルを追ってきていた連中だろう。
――何故だろうか。やはり、妙な違和感がある。自分が誰かを追うときは、グループで固まって集団になっている奴らか、一人でいる大人を集団で狙う。大人と言っても、若者ではなく、中年から老人を獲物にする。
グループを組む理由としては、金銭か食糧を手に入れるため、というのが大きな理由だ。グループで行動する目的も同様だ。
そう考えると、やはり今の状況はおかしいのだ。辻褄が合わない。自分が狙われる理由として当てはまるものは、一つもないように思う。それなのに、どうしてこうも執拗に追われなければならないのだ?
最初は、あわよくば返り討ちにしてやろうと思い、奴らから金銭を盗み取るチャンスを狙いながら逃げ回っているふりをしていたのだが、今はそうではない。
余りにも彼等がしつこい上に、相手が素人であるが故か、行動が読み辛い。かれこれ三十分程は、あちこち走り回って追いかけっこを続けただろうか。
さすがに疲れて、さっきからは奴らを撒くつもりで逃げている。
しかし、彼等はまだ自分を狙っている。
素人のはずなのに、行くところ行くところに現れては、頭の悪い追い方をしてくる。
そして、また現れた。
――いい加減にしてくれよ。
ワタルは心の中で毒づいた。舌打ちも、溜息も思わず出そうになる。
それを何とか我慢し、息を殺して、相手が近付いてくるのをじっと待つ。素人相手なら、こんなにも緊張することはないのだが、自分が思っているような簡単な相手ではないのかもしれない。
こういう時は、そんな考えが少しでも浮かぶと駄目だ。感情が不安と緊張感に支配されてしまう。
空気が生温くて気持ち悪い。ふいにひんやりとした風が頬を撫でる。
足音が路地入口の方から、徐々にこちらに近付いてくる。足音から察するに、相手は一人だ。ここなら、相手の仲間の連中にも気付かれにくいはずだ。
乱暴をするのは出来る限り避けたいが、ここは一つ、相手を伸して何者なのかを喋らせる必要がありそうだ。
自身の危険は、グループの危険にも繋がる可能性がある。危機がそちらに及ぶのはまずい。グループにいる幼い子達までもを危険にさらすこといなってしまう。
――やるしかない。
足音がワタルまで後数メートルにまで近付いた時、ワタルは物陰から勢いよく飛び出していった。
「あっ」と、相手が間の抜けた短い声をあげた直後、ワタルは握り締めた拳を思いっきり相手の顔面にぶつけた。
相手が妙な叫び声をあげてよろめいたその瞬間、今度は左の拳を相手のみぞおちにねじ込む。
「うごっ」
相手の男は耐えきれなくなったのか、片膝をついた。
「なんだよ、あっけねぇな。もう終わりか?」
その言葉を吐き出すと共に、ワタルは膝蹴りを食らわした。
「たっ……助けてくれ。もう止めてくれ!」
相手の男が叫んだ。
「あんまりでかい声出すなっつの」
次は脇腹を思い切り蹴飛ばした。
「ご、ごめんなさい」
「いいから黙れよ。俺の質問にだけ答えろ。そしたらもう何もしない。分かったか?」
温和そうな顔をしたワタルには似合わないような、低い声で彼は言った。相手の男は命乞いをするかのような表情で、何度も頷いた。
「お前ら、俺が何も持ってないの分かってねぇのか? どうして俺を狙うんだ。他にいい獲物いるだろ。意味分かんねぇぞ」
「そ、それは……」
男は何も話そうとしない様子なので、ワタルはもう一発男に拳を食らわした。
「言えないってか? ふざけんなよ。言え」
「う、上の人に命令されたんだ! 理由なんて知らない。俺達は命令されたからやっただけだ!」
「ありがちなこと言ってくれるよなぁ」とワタルは呟きながら、うんざりした様子で首筋を掻いた。
「本当だよ。信じてくれよ、頼むから」
男はふいに声を大きくした。ワタルの顔が不快感で溢れる。「だからぁ……」と囁くように告げると、無様にしゃがみこんでいたままだった男が、その額を地面にこすりつけ始めた。その余りにも情けない姿に、ワタルが苦笑を浮かべた。
「俺は本当に何も知らないんだ! 頼むよ、勘弁してくれ」
全く。虫唾が走る。こんな奴が、今までよく生き抜いてこれたものだ。さぞ、生温い環境で育ってきたのだろう。自分と比較してみて、羨ましくも思った。しかしそれ以上に、妬みや憎しみの感情の方が大きかった。また蹴り飛ばしたい衝動に疼く右足を抑え、ワタルは口を開いた。
「もういいよ」
うんざりしたような表情で、ワタルは言い放った。すると、男ははっと顔を上げた。ワタルの目に飛び込んできた彼の表情は、牢獄から解放された囚人のように晴れやかだった。
―――愚かな奴だ。
心の中でその愚かしさを罵らずにはいられない。
「ただし、もう俺に付きまとうようなことはすんなよ。もしやったら、その時はマジで殺すからな」
また、男の表情が凍り付いた。とても冗談で言っているとは思えない、ワタルの冷酷な顔を目の当たりにしたからだ。ワタルの口の端は僅かに引き上がっており、笑っているようにも見えた。
「わ、分かった」
弱々しい声で呟きながら、男はワタルに向けていた視線を地面の方に逸らした。とても見ていられない。ワタルの持つ、圧倒的な威圧感に支配されて、動けなくなりそうだったからだ。
「分かったなら、さっさと失せろよ」
ワタルが凄むと、男は逃げるように走り去っていった。ワタルは冷え切った目で、男の背中を睨み付けていた。
「遅かったな。集合時間、とっくに過ぎてんぞ。分かってんのか」
長身だが細身で頼りなさそうな男が、苛立ちをぶつけるような口調で言う。
「ご、ごめん」
息を切らし、手を膝について駆け付けた男が青い顔をして謝った。
「どうしたんだよ、お前」
「あいつ、やばいよ。普通じゃない」
その男はついさっきまで、ワタルと対峙していた。その時の緊張感が、未だに彼の中で暴れ回っていた。いつまで経っても呼吸が整えられないのは、きっとそいつのせいだと思えたくらいだ。
「あいつって……柴田ワタルのことか?」
十人近くいる少年のうちの一人が尋ねた。その男は、この集団を束ねているのであろう男の隣で、ポケットに手を突っ込んで立っている。額に流れる汗を拭いながら、男は恐る恐る頷いて答えた。
「お前、あいつを追い詰めたのか?」
リーダーが再び口を開き、尋ねた。その顔には、明らかに怒りが浮かんでいる。
「いや、逆に襲われたんだ」
「何だと?」
リーダーだけでなく、その場にいる全員から放たれる冷たい視線が、男の全身に突き刺さった。汗が止まらず、何度も顔を拭った。
「お前、命令聞いてなかったのか。捕まえて来いって言われただろ。何してんだよ」
「命令には従おうと思ったよ。でも、無理だったんだ。あいつは、やば過ぎるよ」
そう訴える声は、所々裏返っていた。本当に情けない男だ。ワタルが感じ、そして堪えた怒りを、その集団のリーダーは少しも抑えようとはしなかった。
「ふざけんなよ。お前、何処まで腰抜けなんだ」
ワタルと対峙した男を取り囲む者達が、口々に容赦のない罵声を浴びせた。
男は俯きながら、必死にその罵声に耐えていた。自分は、きっとただでは済まない。どんな目に遭わされるのだろう。そんなことを考えると、膝ががくがくと震え出した。逃げ出したい。逃げたら、もっとひどい目に遭う。そんな葛藤を繰り返していた。
その時、男を罵る声がぱったりと止んだ。
「あ……」
思わず漏れ出したかのような、リーダーの声が聞こえた。何事かと顔を上げると、周りの者たちは皆、あるひとつの方向を見つめていた。その視線を、無意識で辿る。
その先にいた人物を見つけ、男は生唾を飲んだ。名前も知らない男が、そこに立っていた。自分達に命令を下した、張本人だ。
――もう、駄目だ。
そう悟った瞬間、彼の体は勝手に動き出していた。その人物の対角線上に、駆け出していた。彼は、逃げた。恐怖の対象からは逃げなければならないという、生物的な本能に抗うことが出来なかったのだ。
「待てよ、こら!」
リーダーは叫んだ。その声は彼には届いていないのか、振り向くこともなく、男の姿は夜の闇に溶けていった。
「ほっとけ。別に構わない」
「で、でも……」
リーダーが戸惑いながらそう言うと、闇を背負った男は、ふっと笑った。秋の風に吹かれたためか、その笑い声は妙に爽やかに聞こえた。
「ワタルが一筋縄じゃいかないのは、俺も十分知ってる。だから失敗したことは気にしてない。ただ、約束は果たされなかった。こっちから渡すものも、何もない。そして、お前らにチャンスが与えられることも、もう二度とない」
それだけ言うと、もう用は済んだと言わんばかりに、男はさっと身を翻して背を向けた。
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ!」
堪りかねたリーダーは、思わずその背中を呼び止めた。すると、闇の中に帰ろうとしていた男は立ち止まった。そして、顔を少しだけ動かして、その続きを尋ねるようにした。
「そ、それだけなのか? 本当に、もうチャンスは……」
「ご苦労さん」
それだけ言い残し、男は闇の中に消えていった。その場に残された者達は、溜息をつくことも出来ず、ただ佇んでいた。




