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アサカ(7)

 自室へと向かい、アサカは長い廊下を一人きりでゆっくりと歩いていた。

 廊下は夕焼けの赤に染まっていた。窓から夕日が差し込み、その色が妙に悲しく映える。影が長く伸びており、アサカの背丈の倍ほどの長さになっている。影は壁に登っており、それと並んで歩く。何となく一人で歩いている感じがしない。

 ほんの数日前までは、シンゴがいつも隣にいた。いつも、自分の手をひいて歩いていた。その手から、シンゴの温かい優しさを、いつも感じていた。彼の中に、その根底にあるのは、いつも自分に対する優しさであったことを、アサカは誰よりも知っていた。

 シンゴは、自分の影に乗り移っているのだろうか。だとしたら、シンゴはアサカの言ったことを、アサカが話せたという事実を知ったということになる。シンゴはその時、どんな表情でアサカの言葉を聞いたのだろうか。

 そんなことを考えながらてくてくと歩き、自室がある廊下にさしかかった時、アサカは顔を上げた。人の気配を感じたのだ。

 見ると、アサカの部屋の前に女性が立っていた。一瞬、町田かと思ったが、白衣を着ていないのでそうではないと分かった。

 では、彼女は一体誰なんだろう。そう思った時、壁に寄り掛かってうつむいていたその女性が、アサカが来たことに気付いたのか、ゆっくりと顔をこちらに向けてきた。

 彼女は、じっとアサカを見つめている。――何処かで見たことがある顔だ。アサカはその人物が誰なのかを把握するのに、少々時間を要した。

 あれは、――。

「アサカちゃん」

 熊井カナコだった。シンゴと仲が良かった、あの大人の人だ。その声で、アサカはようやく記憶と目の前にいる女性とを一致させた。

 アサカはその声を合図にしたかのように、ゆっくりと前に、彼女のいる方に進んでいった。

「久しぶりね。元気だった?」

 アサカはこくりと頷いた。声を出して答えても良かったのだが、何となくそうすることははばかられた。兄を欺いていたという罪悪感から、話すということは極力避けたかった。

「最近見かけないから、どうしてるのかなって思って」

 カナコはにっこりと微笑んだ。絵に描いたような可憐な笑顔で、不気味にさえ思える。「あっ、そうだ」と、カナコは何か思い出したように胸の前でパン、と手を打った。

「ねぇ、アサカちゃん、もう晩御飯は食べた?」

 時刻は午後六時過ぎ。夕焼けに染まっていた空が、東から徐々に暗くなっていく様子が、窓から見える。もう、食堂が開く時間だ。

 アサカは小さく首を横に振った。その様子を見たカナコは嬉しそうに微笑むと、「じゃあ一緒に食べに行こっか」と、膝に白い手を乗せて中腰になってアサカの目を覗き込みながら言った。

 なるべく食堂には行きたくない。アサカはそう思っていた。アサカの脳内に、嫌でもあの時の狂気に満ちたシンゴの顔を思い出してしまうからだ。どうしようかと迷っていると、カナコはさっとアサカの小さな手を握った。

「ね、行きましょ」

 半ば引きずられるようにして、アサカは食堂へと向かった。

 カナコに引きずられている自分と、麻生に引っ張られてグラウンドへと向かうシンゴの姿が重なった。きゅっと、胸が苦しくなった。瞼の裏が熱くなる。

 麻生とシンゴは楽しそうだった。それを見ているだけで、自分は楽しかった。

 カナコは、強くアサカの手を握っていた。そこから、シンゴのような優しい温かさは感じられない。きっと、シンゴを連れていく麻生の手は、今のカナコの手のように何処となくひんやりと冷たくはなかったはずだと、アサカは思った。


 カナコはアサカに気を遣っているのか、しきりに彼女に話しかけていた。アサカは首を縦か横に振るだけだったが、カナコはそれだけでもリアクションがあれば十分だという様子だった。彼女は妙に楽しげで、にこにこと微笑みながら話し続けた。

 カナコはまるで、同年代の女の子を相手にしているようだった。食堂に着いて、テーブルで向かい合って食事をしている時も、彼女は話し続けた。どうしてそんなにも器用に食べながら話すことが出来るんだろうと、アサカは不思議に思った。

 誰がいつどうしたとか、そんな話ばかりだ。カナコはベース内で積極的に友人を作ろうとしているようで、たくさんの人の名前が彼女の口から次々と発せられた。もちろん、その中にアサカが知る名前は一つもなかった。

 カナコの話はただただ他愛のないものだったが、何か違和感があった。何か釈然としないような、そんな感覚だ。頭の奥で、違和感の塊が引っかかっている。しかし、決してその違和感が気のせいではないと、誰かが叫んでいるように感じた。


 カナコは当たり前のようにアサカの部屋の前までついてきた。送ってくれた、というよりは何だかつきまとわれているような気がして、少し不愉快だった。カナコと行動を共にすればするほど、頭の中にある違和感がその輪郭をより明確にしていくようだ。

 ――何が引っかかっているんだろう。

 アサカは自問してみたが、答えは出ない。カナコの行動の意図というものが、何一つとして分からない。それが違和感の原因になっているのだろうか。

「ねぇ、アサカちゃん」

 アサカの部屋の前に立ち、カナコが言う。

「今日は、お姉ちゃんと一緒に寝ない?」

 嫌な予感がした。けれど、断ることも出来ない。断ったとしても、彼女はしつこく言い寄ってくるに違いない。それに、彼女は微笑んではいるが、その奥にアサカを押し潰してしまいそうなほどの威圧感を潜めている。幼いアサカは、その威圧感に抗う術を持ってはいない。

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