七月⑤ 仄暗い瞳の狂気
「シキナ……?」
セーラー衿チュニックワンピースを着て黒縁眼鏡をかけたシキナが大きなポニーテールを揺らしながら僕の所に駆け寄ってくる。
「おひさしぃ! あ、はっつきーのお友達? 私シキナって言うの! よろしくね」
シキナは朱ちゃんの手をおもむろに取り、無理矢理握手をしながら矢継ぎ早に自己紹介をする。ていうか、はっつきーって誰だよ。いつからそんなあだ名になったんだ、僕。
「えっ、あ、よ、よろしく。えと、夜凪です」
「知ってるよ! 朱姫ちゃんだよね」
「えっと……」
朱ちゃんと僕は困惑の表情を浮かべる。
シキナは何かあせっている風に朱ちゃんの手をひっぱった。
「あっちに美味しいパフェ屋さんがあるの! おごってあげるから来て来て!」
「えっと、で、でも、そ、空門くん……!?」
助けを求めるように僕を見てくる朱ちゃん。その隙にシキナは僕にウインクをする。
そこでようやくシキナの意図を把握した。なるほど、そういうことか。なぜ僕の今の状況を知っているのか等の疑問もあるが、とにかく今はありがたい。
「シキナ、僕もあとで行くから、先に席をとっといてくれ。朱ちゃん、僕さっきのとこに忘れ物したみたいだから取ってくる。シキナは僕の友達だから安心しておごってもらってくれ」
僕は背負っていたリュックをシキナに放り投げる。
「えっ? えっ??」
朱ちゃんの視線がシキナに向いた瞬間、僕は近くにあった地下鉄の入口の壁に向かって走り、身を隠す。辺りを軽く見渡して誰も僕を認知していないことを確認すると、ステルスモードで姿を隠す。すぐさま信号機の上に跳び乗って辺りを見渡すと、丁度信号が赤に変わって車が止まり、列になり始めたところだった。
向かいのビルに表示されている時間を確認する。あと十秒で脳内に見えた時刻になる。実際にはその時刻になってからさらに六十秒ほどあるわけだが、今のところ異変は無い。
横断歩道の信号が青に変わり、大量の人が歩き始める。
その時、ドンッと軽い衝突音が聞こえた。音のした方に目を向けると、三百メートルほど離れた位置にいる一台のトラックが前の車を押しのけて対向車線に移動したところだった。ぶつけられた前の車がクラクションを鳴らすが、トラックは無視して対向車線を横断歩道に向かって走り始めた。
なにをする気だ……?
僕は右目だけを二回瞬きし、静に追加してもらったズーム機能で運転手の顔を確認してみる。街灯の下を通った瞬間に見えたのは、金髪に染めた短髪に無精髭、見た目は三十代の男がひとり。その仄暗くて微かに赤い瞳には、なぜか理性というものが感じられなかった。
一瞬、シキナの瞳とダブって見えた。
金髪の男が運転するトラックはさらに加速する。
僕は左目だけ瞬きをしてズームを解除し、トラックが走ってくる車線の横断歩道手前に降りる。ステルスモードを解除してエッジの姿を現した。
突然現れた僕に驚く声が背後の横断歩道を通る人達から聞こえる。トラックの運転手も僕を確認できているはずだ。
止まれ……はやく止まらないとブレーキが間に合わないぞ!
距離が五十メートルを切ったところで、ようやく異変を感じた通行人達が悲鳴をあげる。
トラックはさらにスピードが増している。止まる気は無さそうだ。
僕は数歩前に踏みだし、停止距離を確保する。
僕自身が完全な壁となって止めてもいいのだが、そんな急停止だとトラックの運転手が怪我をするおそれがある。だからその場で止めるのではなく、数メートルほどわざと押されてから止めるためだ。
トラックが目の前に迫る。
僕は両手を広げ、腰を少し落として衝撃に備える。
トラックとぶつかった瞬間、想像よりもはるかに大きな衝撃がやってきて、僕は慌てて力配分を見直す。トラックが横にずれないよう、フロント部分を全力でつかむ。
十メートルほど引きずられ、横断歩道の白線ギリギリのところでトラックは止まった。
「ふぅ……」
なんとか予定通りの位置に止まってくれた。思わず安堵の息が漏れる。背後からは歓声が聞こえた。
しかし、これで終わりじゃない。
僕は運転席側に回り込み、ロックの掛かった扉を無理矢理こじ開ける。膨らんでいるエアバックを握りつぶして萎ませ、シートベルトを引きちぎって運転手を外に引きずり下ろす。
「いて……ひぃ……! た、たすけてくれ……!」
金髪の男は震えながら僕に助けを請う。
「なんのつもりだ? あのまま走っていたら、大事故になっていたんだぞ」
「し、しらねぇ……な、なんか、急にアクセルを踏み込みたくなったんだ……お、俺にもわからねぇんだよ!」
意味の分からない返答がかえってくる。薬でもやっているのだろうか……。
どちらにしても、僕ができる事はここまでだ。抵抗する様子はなさそうだし、あとは警察にまかせよう。
僕は常時ステルス状態で身につけていた静特製ステルスウエストポーチからロープを取りだす。男の体と足を縛って逃げられないようにし、トラックの運転席に戻す。
しかし、なんだろう、この違和感は……。僕が見た絵は、これで完全に『無かった事』になっている……。こんなの初めてだ。
若干の気持ち悪さを感じつつ、僕はトラックに背を向けてどのビルの屋上に行こうか思案していると、背後でブチっという音が聞こえた。なんだろうと振り向いた瞬間、背中に強い衝撃を受ける。
「バ〜カ!」
背後からそんな罵り声が聞こえた。
背中を蹴られた僕は、何人かの通行人を巻き込みながら歩道を転がった。
辺りに悲鳴が響き渡る。
僕は起き上がり、周りを見渡しながら巻き添えにしてしまった人達に声をかける。
「大丈夫ですか!?」
サラリーマン風の男性が三人と女性が一人倒れていた。
僕は声をかけながら一人一人の状態を確認していく。四人とも大丈夫だと答えてくれるが、男性の一人は頭から血を流している。
何がおきたんだ? いくら油断していたとはいえ、スーツを着ている状態の僕が蹴られただけでここまで吹き飛ぶものか? 相手が我勇さんならまだしも……。
まてよ。
蹴られたということは、男はロープでの拘束から解放されているということか?
僕は慌ててトラックのほうに目を向けると、トラックの向こう側で悲鳴が上がった。
トラックを運転していた金髪の男が二十歳前後とおぼしき女性を抱えたままトラックの天井に飛び乗る。
どうなっている……? 普通の人間にできる芸当ではない。
「邪魔をするな! 消えろ! 今すぐだ!」
男は女性を盾にし、僕に向かって叫ぶ。
「言うこと聞かねぇならこの女の首、食いちぎるぞ!」
男はそう言うと、女性の首に舌を這わす。女性は口を塞がれていて悲鳴を上げることすら出来ずにいる。
これは……状況的にかなりまずい。
今の僕でもこの距離を詰めるには秒単位の時間を要する。コンマ以内なら強硬手段も可能だろうが……。
特に凶器らしき物は見あたらないが、さっきの蹴りの力を考慮すれば、女性に危害が及ぶ可能性が高い。そもそも食いちぎるぞという言葉からして、何をしでかすか分からない怖さがある。
どうする……?
迷って動けずにいる僕に業を煮やしたのか、男は左腕で女性の首を絞めながら右手で女性のシャツを破る。男は露わになった女性の下着に好色の目を向ける。
「ふひひっ! 次はこの邪魔な……」
「やめろ! 僕がこの場からいなくなればいいんだな!?」
素直に女性を解放するとは思えない。しかし、今は言うことを聞いたフリをして状況を立て直す必要がある。
一度この場を去り、ステルスモードにして再び戻ってこよう。
「ああ、そうだ。消えろ。妙な真似すれば、どうな──」
そこで男の言葉は途切れた。
いや。
止められた、と言うべきか。
男の額部分から突然血が噴き出したかと思うと、女性から手を離して頭を抑え、苦しみもがきはじめた。
その瞬間、僕はトラックの天井に飛び乗り、バランスを崩して下に落ちかけた女性を抱きかかえる。
男が右のこめかみを押さえ、苦悶の表情を浮かべながら僕に手を伸ばしてくる。僕は空いている方の手で男の手を払いのけ、胸ぐらを掴んで持ち上げる。
「な……にを……した……」
男は苦しげに声をしぼりだす。
「頭が……いてぇ……いてぇよ……助けてくれ……」
男の懇願に僕は耳を貸さない。
「同じ手が二度も通じると思うな」
僕は冷たく言い放つ。
右手で女性の腰を抱え、左手で男の胸ぐらを掴んだまま地面に降りる。
「一人で立てますか?」
僕が声をかけると、女性は涙目のまま首だけを横に振る。男を自由にする訳にはいかないし、どうしたものかと考えていると、さっき僕が吹っ飛ばされた時に巻き込んでしまった男性が近づいてきて女性に肩をかしてくれる。
「運びます」
「助かります!」
男性の気遣いにお礼を述べ、改めて金髪の男に目を向ける。男は体を震わせながら、締め上げている僕の手を必死に引き離そうとしている。
なにげにすごい握力だ。スーツを着ていなかったら、腕の骨が折られていたんじゃないだろうかと思えるほどだ。
女性を抱えたままトラックの天井に跳び乗った跳躍力といい、なにがどうなっているのか。
男の額に目を向けると、流血の痕はあるが、出血自体はもう止まっていた。
目に見えるほどはっきりと出血し、傷口に血が残っているにもかかわらず、こんなにも早く傷が塞がるものだろうか?
「あだまぁ……ながに……残っでる……取ってくれぇ……いでぇよ……」
男の体は痙攣をしはじめ、白目を剥きながら必死で苦痛を訴えてくる。
ここまでくると、演技には見えない。とはいえ、頭に何か残っている、取ってくれという願いは意味不明すぎて僕には叶えることが出来そうにない。
本当に何が起きたんだ? 誰かが助けてくれたのか……?
僕は軽く辺りを見渡し、ズームにしつつ周りの建物の屋上にも目を向ける。斜め向かいの百貨店の屋上に細身の人影がひとつ目にとまった。さすがに明かりが全くない場所だと、影にしか見えない。コ○ンの犯人のようだ。
僕は諦めてズームを解除する。
しかしなんだろう……あのシルエットには見覚えがあるような……。
とはいえ、あんな遠くから何が出来るというのだ?
僕は男の額をもう一度じっくり見る。クレーターのような丸い傷跡が微かに見て取れる。
…………。
分からない事は後にしよう。
僕は男を地面に俯せで寝かせ、両腕を押さえて背中に膝を置き、身動きが取れないようにする。その間にも男は痛い痛い、力が入らないとつぶやき続けていた。
「あの、誰か警察に連絡してくれた方はいますか?」
僕の問いに、何人かが手を挙げてくれる。ロープが役に立たない以上、警察が来るまで僕が取り押さえておくしかない。
数分後、パトカーの到来を告げるサイレンの音が聞こえてきた。
やがて二台のパトカーと一台の救急車が到着し、スーツ姿の警官が二人、僕と男のもとに駆け寄ってくる。
「君、怪我はないのか?」
若そうな男の警官が僕に声をかけてきた。
「はい。こいつ、すごい力なんですけど、どうします?」
「すごい力?」
警官は訝しむ表情をしながら僕が地面に押さえ込んでいる男の目にライトを向け、後ろに控えていた女性の警官に声をかける。
「九条、アレ持って来い」
「は、はい!」
女性の警官がパトカーに走っていく。しばらく待っていると、九条と呼ばれた女性警官が黒い色をした歪な形の手錠を持って戻ってきた。その手錠を男の両手にはめ、足にも同様のものをつける。
その手錠をよく見てみると、内側にトゲのようなものがついていて、男の手に痛々しく刺さっている。
男の表情が一層険しくなる。
「痛ぇ……! いでぇよ……」
男の体から一切の抵抗が無くなった。
「もう離しても大丈夫だ」
警官が僕に声をかける。僕は男から手を離し、立ち上がる。制服姿の二人の警官が男を両サイドから持ち上げ、足を引きずらせながらパトカーの元に連れて行く。
残ったスーツ姿の警官が僕に声をかけてくる。
「詳しい状況を聞きたいので、少し話を聞いても良いかな?」
疑問系ではあるが、その言葉には刃向かうことが許されない雰囲気があった。どうせこのあとは、もっと詳しく聞きたいと言いだし、一緒に署に来てくださいという流れになるのだ。
どうやってトラックを止めたのか、そういった質問にもなるだろう。そうなると、スーツの事も説明しなくてはいけなくなる。素性を明かせない僕としては素直に同行する訳にはいかない。
「あの、僕に巻き込まれて怪我をした人が何人かいるので、先に見てあげてもらえませんか?」
警官は僕が指さした方に目を向けた。その隙に僕は後ろに数歩下がって少し距離を取る。
「ごめんなさい、目撃者の方々に聞いてください!」
「き、きみ……! 待ちなさい!」
僕は警官の制止を無視し、近くのビルの屋上に跳ぶ。着地すると同時にステルスモードに切り替え、さらに別のビルに飛び移り、下に誰もいない裏口の方から下に飛び降りる。そこで変身を解除し、刃月の姿に戻った。
僕はようやくひと息つき、緊張感から解放された安堵から全身の力が抜けて地面に座り込む。
「いろいろと失敗したなぁ……」
僕は頭を抱えて独りごち、自分の行動を思い返す。
ロープで縛ったからと油断しなければ、誰も怪我をせずにすんだはずだ。しかし、だからといってあの状況で油断しないほうが難しい。ロープを引きちぎれるほどの腕力を想定しろというほうが無茶だ。蹴りの威力、トラックに飛び乗る跳躍力……全てが規格外すぎる。
あの男は何者なのだろうか。
同じ失敗をしないために出来そうな事は、頑丈なロープを静に作ってもらうか、それとも市販の頑丈な物を探すか。
一瞬、百貨店の屋上に見えた人影が脳裏に浮かぶ。
「我勇さんぽく見えた気がしたけどな……。シキナもいたし……」
そのへんは今度会った時に確認すればいいか。
しかし、警官が金髪の男の目を確認したのは何のためだ? あの妙に痛々しい手錠はなんだ? 男の流血はなんだ? なぜあんなにも苦しんでいた?
…………。
分からないことだらけだ。
僕はもう一つ溜息をついてから考えるのを止めた。
今は早く朱ちゃん達と合流しないと。こんな騒動があったんだ。時間がかかりすぎると、エッジとの関係を怪しまれかねない。
僕は立ち上がり、ビルの裏手から表通りに出る。
朱ちゃん達と合流すべく駆けだしたところで、目的地が分からないことに気がついた。
……シキナの言っていたお店ってどこだ?




