第4話 私にも選ぶ権利があります
「ですが、条件がございます」
エレノア様がそう言った瞬間、アルベルト殿下の顔から勝ったような色が消えた。
当然だ。
殿下はまだ、婚約破棄を受け入れられたと思っていたのだろう。自分が望んだ通り、エレノア様との婚約を終わらせられる。あとは私が隣に立てば、殿下の物語は完成する。
けれど、そんな話ではなかった。
もう誰も、殿下の物語どおりには動いていない。
「条件とは、何だ」
殿下の声は少し震えていた。
エレノア様は、まっすぐ殿下を見た。
「まず、私がリディア様に嫌がらせをしたという発言を、正式に撤回してください」
「それは……」
「次に、リディア様を本人の同意なく“真実の愛の相手”として公表したことについて、リディア様とモルガン子爵家へ謝罪してください」
殿下の眉が動く。
謝罪という言葉が、よほど気に入らなかったらしい。
でも、エレノア様は止まらなかった。
「そして、セドリック様をはじめとする側近の方々が、私とリディア様の接触を妨げ、事実と異なる話を殿下に伝え、今日の場を整えた件について調査を求めます」
セドリック様の顔が青くなる。
遅い。
青くなるのが遅い。
「また、今日の夜会で私とリディア様の名誉が傷つけられたことについて、王家から正式な説明をお願いいたします。婚約破棄そのものは受け入れます。ですが、私に罪を着せたことと、リディア様を巻き込んだことは、別の問題です」
会場は静かだった。
誰も茶々を入れない。
エレノア様の声には、それだけの力があった。
さっきまで婚約破棄を宣言されていた令嬢が、今はその婚約破棄の条件を出している。
泣かされた側ではない。
自分でこの場を終わらせる側だった。
宰相閣下が、低く頷いた。
「妥当だ」
その一言で、会場の空気がまた変わった。
殿下が息を呑む。
「宰相、待て。これは私とエレノアの問題だ」
「いいえ、殿下」
宰相閣下は即答した。
「王命による婚約を、公の夜会で一方的に破棄しようとした時点で、殿下個人の問題ではありません。さらに、別の令嬢を本人の同意なく次の婚約者として発表した。側近による誘導も疑われている。王家として看過できません」
殿下は黙った。
宰相閣下は、今度は私を見た。
「リディア・モルガン嬢。あなたからも求めるものはあるか」
突然呼ばれて、心臓が跳ねた。
エレノア様が、静かにこちらを見る。
何かを言えと急かす目ではなかった。
言ってもいい、と待ってくれる目だった。
だから、言うことにした。
「では、一つだけお願いいたします」
私は殿下を見た。
怖かった。
今でも怖い。
それでも、ここだけは人に任せてはいけないと思った。
「私が殿下の婚約者ではないことを、この場で明言してください」
殿下が息を呑む。
「私は、殿下の真実の愛でも、次の妃候補でもありません。殿下に選ばれた令嬢でもありません」
少し息を吸った。
「私はリディア・モルガンです。今後、私の名前を、殿下の恋物語に使わないでください」
会場が静まり返った。
今度の沈黙は、嫌ではなかった。
言えた。
ようやく、自分の名前を自分の手元に戻せた気がした。
宰相閣下が頷く。
「認めよう。リディア・モルガン嬢は、アルベルト殿下の婚約者ではない。次の妃候補でもない。本人の同意なく、その名を殿下の恋愛沙汰に用いることを禁ずる」
殿下は、何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
セドリック様が、そこで膝をついた。
「お待ちください。私は殿下のためを思って」
「その言葉は、聞き飽きました」
エレノア様が言った。
声は静かだったが、はっきりしていた。
「殿下のため。混乱を避けるため。私たちを守るため。あなたはずっと、そういう言葉で私たちの意思を消してきました」
セドリック様が唇を噛む。
「私は、殿下が望む形を整えただけです」
「だから、それが問題なのです」
私は口を挟んだ。
セドリック様が私を見る。
「私も、エレノア様も、殿下の望む形になるためにここにいるわけではありません」
言えた。
短い言葉だったが、手袋の中で握っていた指の力が抜けた。
宰相閣下が王宮騎士に目配せする。
騎士たちはすぐにセドリック様の両側に立った。
「セドリック・ラングレー。詳しい話は別室で聞く。従者たちも含め、今夜の配置と連絡記録を確認する」
「私は、殿下の側近です」
「今は調査対象だ」
宰相閣下の声は冷たかった。
セドリック様は、もう笑っていなかった。
王宮騎士に促され、彼は会場の端へ下がっていく。抵抗はしなかった。できなかったのだろう。
殿下はそれを見て、ようやく自分の足元が崩れていることに気づいたようだった。
「私は、ただ……」
殿下は私を見た。
「リディア、君を救いたかった」
「私は救いを求めておりません」
「だが、君はいつも不安そうだった」
「殿下が近くにいらしたからです」
また少し、会場が揺れた。
私はもう、止まらなかった。
「殿下が悪意を持っていたとは申しません。けれど、私が嫌だと言っても聞かなかった。断れない立場だと分かっていて近づいた。笑えば愛だと思い、逃げなければ同意だと思った。それは、私を見ていたことにはなりません」
殿下は傷ついた顔をした。
本当に傷ついている。
たぶん殿下の中では、最後まで自分は美しい恋をしていたのだ。
「私は、ただ、私を否定しない人を選びたかっただけだ」
小さな声だった。
会場に届くか届かないかくらいの声。
でも、エレノア様は聞き逃さなかった。
「それは愛ではありません。都合のいい鏡です」
殿下は何も言えなかった。
私も、何も言わなかった。
その言葉で十分だった。
宰相閣下が告げる。
「アルベルト殿下。今夜の件について、殿下には当面の謹慎を命じます。王太子としての職務は一時停止。王太子位についても、陛下と評議会にて再審議されます」
会場が大きくざわめいた。
今度は、はっきりと分かる。
処分だ。
殿下の顔から血の気が引いていく。
「王太子位の再審議……?」
「当然です。王命婚約を公の場で壊そうとし、令嬢二人の名誉を傷つけ、側近の暴走を見抜けなかった。王太子としての判断力を問われます」
殿下は、よろめいた。
誰も支えなかった。
少し前まで、殿下の周りには側近たちがいた。真実の愛を讃える合唱団もいた。拍手をする予定の者もいたのかもしれない。
でも、今は誰も動かない。
合唱団の少年たちは、完全に楽譜を閉じている。
いい判断だと思う。
「エレノア・バージェス嬢」
宰相閣下が、エレノア様に向き直った。
「あなたへの嫌がらせ疑惑については、この場で王家が一度預かる。現時点で、あなたを罪人として扱う理由はない。後日、正式な場で名誉回復の説明を行う」
「ありがとうございます」
エレノア様は静かに頭を下げた。
泣いていない。
もう、泣いていなかった。
「リディア・モルガン嬢」
今度は、私が呼ばれた。
背筋が伸びる。
「はい」
「モルガン子爵家への圧力についても調査する。殿下および関係者からあなたへの接触は、当面禁じる」
体の力が、少し抜けた。
ようやく、終わったのだと思った。
次の婚約者ではない。
真実の愛の相手でもない。
私は、ただのリディア・モルガンに戻った。
それだけのことが、こんなにありがたい。
「リディア」
殿下が、最後に私の名を呼んだ。
宰相閣下が止めようとしたが、私は首を横に振った。
一度だけなら、答えられると思った。
「君は、本当に私を愛していなかったのか」
「はい」
「一度も?」
「一度もです」
殿下は、そこで初めて本当に傷ついた顔をした。
たぶん、その顔をするのが遅すぎた。
私は静かに頭を下げた。
「殿下。私は、あなたに選ばれたかったわけではありません。私が選べるようにしてほしかっただけです」
殿下は何も言わなかった。
それでよかった。
殿下は連れていかれる直前、一度だけこちらを振り返った。
「私は……真実の愛を……」
けれど、その言葉を拾う者はいなかった。
合唱団の少年たちは楽譜を胸に抱いたまま、誰一人として歌い出さなかった。楽団も、もう楽器を構えていない。殿下が用意した物語は、歌も拍手もなく終わった。
そこに残ったのは、次の婚約者を得るはずだった王太子ではない。
本人の同意を一度も聞かなかった人が、静かな夜会場から連れていかれる姿だけだった。
宰相閣下が騎士に合図し、殿下は別室へ連れていかれた。セドリック様も、側近たちも、その後に続く。合唱団と楽団には、王宮側から正式に事情を聞くことになったらしい。
歌わずに済んで、本当によかったと思う。
会場には、まだざわめきが残っていた。
だが、さっきまでの痛い沈黙ではない。
何かが終わった後の、落ち着かないざわめきだった。
エレノア様が、私の方を向いた。
「リディア様」
「はい」
「改めて、謝らせてください。私はあなたを誤解していました」
「私もです。何も言えず、申し訳ありませんでした」
「では、お互い様ということにしましょう」
エレノア様はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔は、夜会が始まってから初めて見る、柔らかいものだった。
私は少しだけ目を伏せた。
なんだか、まっすぐ見るのが難しかった。
「これから、どうなさるのですか」
エレノア様に聞かれ、私は少し考えた。
父と母には迷惑をかけた。
家のこともある。
王家からの聞き取りもある。
社交界の噂も、しばらく止まらないだろう。
それでも、答えはひとつだった。
「まずは、誰の婚約者でもない時間をいただきます」
エレノア様は、楽しそうに目を細めた。
「素敵ですわ」
「その後のことは、自分で決めます。今度こそ」
「ええ。それがよろしいと思います」
少しだけ沈黙が落ちた。
嫌な沈黙ではなかった。
エレノア様は、何かを考えている顔をしていた。
そして、ふと私に向き直る。
「リディア様。もしよろしければ、しばらく私の相談役になっていただけませんか」
「私が、エレノア様の?」
「ええ。誰かの“真実の愛”に振り回されている令嬢は、私たちだけではないようですから」
私は瞬きをした。
冗談かと思った。
でも、エレノア様の顔は本気だった。
「すでに、いくつか耳に入っております。婚約者のいる令息に付きまとわれている令嬢。悪女扱いされているだけで、実際には何もしていない令嬢。家のために黙っている子もいるようです」
「それを、私とエレノア様で?」
「嫌なら、断ってください」
そう言って、エレノア様は私に手を差し出した。
殿下は、私の手を勝手に掴んだ。
エレノア様は、私が取るのを待ってくれた。
「嫌ではありません」
自分でも、少し驚くくらい早く言えた。
私は、自分から手を伸ばした。
「私が選びます。しばらく、エレノア様の相談役になります」
だから私は、自分で選んで、その手を取った。
最後までお読みいただきありがとうございました。
全4話、これにて完結です。
短編版では書ききれなかった決着まで書けて楽しかったです。
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リディアとエレノアの相談役コンビは、またどこかで書くかもしれません。




