第1話 婚約破棄の場で「次の婚約者」に指名されました
「エレノア・バージェス。貴様との婚約は、今この場をもって破棄する」
王太子殿下の声が、夜会場に高く響いた。
シャンデリアの光の下、絹のドレスと宝石に包まれた貴族たちが、一斉に息を呑む。
私は王太子殿下の隣に立たされていた。
最初は、ただの証人。そう思っていた。
殿下に呼び出され、夜会の中央へ連れてこられ、逃げる暇もなく隣に置かれた。それでも、王族の命令に逆らえるほど、モルガン子爵家の娘である私に力はない。
だから黙っていた。
黙って、早く終わることだけを願っていた。
ただ、妙なことはいくつかあった。
まず、殿下の側近が私の後ろに立っている。
私が少しでも下がろうとすると、さりげなく道をふさぐ位置だ。
次に、会場の奥で合唱団が待機している。
少年たちが、妙に真剣な顔で楽譜を握っていた。楽団も、いつでも演奏できます、という顔で指揮者を見ている。
たぶん、私が感極まって殿下の手を取った瞬間、歌い出す予定だったのだろう。
本当にやめてほしい。
「エレノア。君は婚約者でありながら、私の心を理解しようとしなかった。いつも正論ばかり。家格、責務、王太子妃としての振る舞い。そんな話ばかりだった」
王太子殿下――アルベルト殿下は、悲劇の主人公のような顔をしていた。
婚約を破棄されたエレノア様は、白い顔で殿下を見ている。
彼女はバージェス公爵家の令嬢だ。
王太子妃にふさわしい教養と家格を持ち、誰に対しても礼を崩さない。私のような子爵令嬢が気軽に話しかけられる相手ではない。
それでも、今日の彼女はあまりに気の毒だった。
夜会の中央で婚約破棄を宣言される。
しかも、何の前触れもなく。
さすがに酷い。
「そして私は、真実の愛に生きる」
殿下は胸に手を当てた。
私は嫌な予感がした。
それも、かなり。
「次なる婚約者は、ここにいるリディア・モルガンだ!」
その瞬間、私はようやく理解した。
私は証人ではなかった。
次の婚約者として、ここに飾られていたのだ。
いや、飾らないでほしい。
「……お待ちください、殿下」
声は震えた。
けれど、出た。
王太子殿下が、驚いたように私を見る。
「リディア?」
「私は、そのようなお話を承諾しておりません」
夜会場が、さらに静まり返った。
婚約を破棄されたエレノア様が、涙に濡れた瞳で私を見る。責めるような色ではなかった。ただ、理解が追いつかないという顔だった。
きっと私も同じ顔をしている。
「何を言っている。君は私を慕っていただろう」
「慕っておりません」
王太子殿下の眉が跳ねた。
「照れなくていい。君はいつも私に優しかったではないか」
「王族に冷たくできる令嬢が、どれほどいるとお思いですか」
誰かが小さく息を呑んだ。
私は両手を握りしめる。爪が手袋越しに掌へ食い込んだ。
怖くなかったわけではない。
今すぐ床に膝をついて謝りたかった。父の顔が浮かんだ。母の青ざめた顔も。モルガン家が明日どうなるのかも分からない。
でも、ここで頷けば、私は一生、殿下の“真実の愛”という名の檻に入れられる。
そして、エレノア様は一生、私に奪われたのだと思わされる。
それだけは嫌だった。
「それに、殿下」
私は息を吸った。
「私は景品ではありません」
殿下の顔が、固まった。
言ってしまった。
でも、これが一番近い。
エレノア様との婚約を破棄して、次に私を選ぶ。殿下の中では、それが美しい物語なのかもしれない。けれど私からすれば、勝手に壇上へ置かれ、勝手に手に入れたもののように扱われているだけだ。
「私が笑ったのは礼儀です。お手紙に返事をしたのは、返さなければ父の職に差し障ると、殿下の側近から言われたからです。舞踏会で手を取ったのは、殿下が私の手首を放してくださらなかったからです」
「リディア!」
「私にも、婚約相手を選ぶ権利がございます」
言い切った。
足が震えた。
でも、言えた。
会場の空気が変わった。
さっきまでは、エレノア様が断罪される場だった。
今は違う。
王太子殿下の言葉そのものが、見られている。
「違う。君は分かっていない。私は君を守ろうとしているんだ」
殿下は本気の顔で言った。
嘘をついている顔ではなかった。
本当に、私を守っているつもりらしい。
それが一番困る。
「守るとおっしゃるなら、まず私の同意を確認してください」
「君は同意していた」
「しておりません」
「君の目が、そう言っていた」
「私の口が、今、違うと申し上げております」
会場のどこかで、誰かが吹き出しかけた。
合唱団の少年の一人が、楽譜で口元を隠している。
歌わなくていい。
本当に歌わなくていい。
王太子殿下は、信じられないものを見るように私を見ていた。
なぜそんな顔をされるのか分からない。
勝手に婚約者にされそうになっているのは、こちらだ。
「リディア様」
小さな声がした。
エレノア様だった。
彼女はまだ涙を浮かべていた。けれど、先ほどより少しだけ背筋が伸びている。
「はい」
「あなたは、殿下との婚約を望んでいないのですね」
「望んでおりません」
私は即答した。
王太子殿下が傷ついた顔をした。
遅い。
その顔をするのが遅い。
エレノア様は、ゆっくりと息を吸った。
そして、私の隣へ歩いてきた。
断罪されたばかりの令嬢とは思えないほど、足取りは静かだった。
「私、あなたを誤解していたのかもしれません」
「私も、何も言えず申し訳ありませんでした」
「いいえ。謝るのは、まだ早いです」
エレノア様は王太子殿下を見た。
目元は赤い。
でも、その目はもう泣いているだけの目ではなかった。
「殿下。リディア様が否定なさっている以上、まずはその件を確認すべきではありませんか」
「エレノア、お前は罪人だ。口を挟むな」
「私はまだ罪人ではありません。殿下がそうおっしゃっているだけです」
会場がざわめいた。
私は思わずエレノア様を見た。
強い。
さっきまで泣いていたのに、もう立て直している。
公爵令嬢というのは、こういうものなのか。
いや、違う。
エレノア様が、強いのだ。
王太子殿下は顔を赤くした。
「エレノア、お前はリディアに嫌がらせをした。だから私は婚約を破棄する。リディアも私を愛している。何も問題はない」
「問題しかありません」
私とエレノア様の声が重なった。
少しだけ、驚いた。
エレノア様も同じだったのか、こちらを見た。
ほんの一瞬だけ、彼女の口元が緩んだ。
私は少しだけ勇気が出た。
「殿下。私は、エレノア様に嫌がらせなどされておりません」
「君は優しいから、そう言うのだ」
「違います」
「怖がらなくていい。私がいる」
「怖がっている相手が殿下です」
また会場が静まり返った。
今度の沈黙は、かなり痛かった。
殿下の側近が慌てて前へ出る。
「リディア嬢、今は混乱していらっしゃるのでしょう。殿下はあなたを想って――」
「その言葉も、何度も聞きました」
私は側近を見た。
「エレノア様に近づくなと言ったのも、あなたですね」
側近の顔が少しだけ固まった。
エレノア様が、横で反応したのが分かった。
でも、まだここでは深入りしない。
今は、殿下の話を終わらせるのが先だ。
王太子殿下は、私を見つめていた。
本当に傷ついた顔をしている。
きっと、殿下の中では私は「救われる娘」だったのだろう。
エレノア様は「退けられる婚約者」。
殿下は「真実の愛を貫く王子」。
私たちは、殿下の物語の中に勝手に並べられていた。
でも、私はその役を引き受けない。
「殿下」
私は息を吸った。
「私が殿下を愛しているというお話ですが」
「……リディア」
「私からもお願いいたします」
私は会場を見回した。
貴族たち。楽団。合唱団。殿下の側近。エレノア様。誰もがこちらを見ている。
ちょうどいい。
こんなに証人がいる場は、そうそうない。
「私が殿下を愛しているという証人も、ぜひお呼びください」
王太子殿下は、そこで初めて黙った。
お読みいただきありがとうございます。
短編版をもとにした全4話版です。
次話から、殿下の言う「真実の愛」の証拠をひとつずつ確認していきます。
合唱団もいます。歌うかは分かりません。
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