第21話:しおしおの顔と、背中のエール
野崎「そうなんですね……。私は、何日から出勤開始になりますか?」
マネージャー「可能でしたら、来週の月曜日からお願いしたいです」
野崎「月曜日……! 分かりました。当日は何時に行けばいいですか?」
マネージャー「その学校は8時半から調理開始なので、8時までには学校に着いていてほしいです。まずは校長先生に一度ご挨拶をして、それからの調理開始になるので」
野崎「8時に校門の前にいればいいですか?」
マネージャー「あぁ、正面玄関の前にいてくれれば、時間になればチーフか調理員さんの誰かが出てきて中へ案内してくれると思います」
野崎「分かりました」
マネージャー「当日は、僕も野崎さんの残りの荷物を届けるために、8時前には学校に行けると思うので。心配しなくて大丈夫ですよ」
野崎「ありがとうございます。マネージャーが来てくれるならすごく心強いです。月曜日から、またよろしくお願いいたします」
*
そして訪れた、日曜日の夜。
やはり、私の心臓は再びバクバクと激しく脈打ち始め、どうしても落ち着かなかった。
夕食のテーブルについていても、箸を持ったまま意識がボヤ〜っとしてしまう。
(あぁ……明日から、またあの調理の日々が始まるんだ……)
新しい一歩への楽しみな気持ちが20%、そして、圧倒的な不安が80%。
私の心の中で、「学校の給食室」という場所は、完全に深刻なトラウマになってしまっていた。
私がそんな不穏な態度をあからさまに表に出しすぎていたからだろう。見かねた母親が、心配そうに声をかけてきた。
母親「アンタ、顔がしおしおしすぎ。明日が始まる前からそんなにエネルギー使ってたら、行くまでに疲れちゃうよ」
野崎「いやぁ……どうしても不安でさ……」
母親「なーにをそんなに不安になることがあるのさ。また前の学校みたいにイジメられるって思ってるの?」
野崎「うん……。正直、めちゃくちゃ怖いよ。またあの時みたいに、陰でチクチク理不尽なことを言われたりしないかって……。今度のところは男のチーフらしいけど、それがまたどんな人か未知数だから余計に怖い。定年近いらしいから、お父さんに年齢が近いみたいだけど……」
私の弱音をじっと聞いていた父親が、ここで厳格な、けれどどこまでも優しいトーンで口を開いた。
父親「〇〇(野崎の名前)。あのなぁ。もし明日行ってみて、また嫌なことがあったら、そんな仕事すぐ辞めちまえ。お前はもう、あの前の学校で十分すぎるほど、嫌ってほど頑張ったんだ。これ以上、嫌なことをされながら、心をすり減らしてまで仕事をするのはもうやめろ」
母親「うーん。私はね、個人的には仕事をそんなにすぐ辞めるっていうのには反対だけど……。でもね、アンタの心が完全に壊れてしまう前に――本当にそうなる前に『辞める』っていう選択肢だってちゃんとあるんだよ、ってことだけは、お守り代わりに頭に覚えておいてほしい」
父親と母親、二人の言葉が私のガチガチに固まった心を少しだけ柔らかくしてくれた。
野崎「そうだね……。すぐ辞めるなんてことにはなりたくないし、今度こそちゃんと頑張りたいけど。もし万が一、前の学校と全く同じような仕打ちをされたら、その時は潔く辞めて帰ってくるよ。とりあえず……最初の1週間は、死に物狂いで必死に頑張ってみる」
母親「そうそう! 私もお父さんもついているんだから。それに、ちょっと空気の読めない長男と、頭はいいけどオヤジギャグでいつもスベリ倒す次男も家にいるしね。あと、癒やしの愛犬もいる。おまけにアンタの背後には、あの『新人の守護霊』のじいちゃんまで背負っているんだからさ。――こうやって見たら、アンタ、布陣として最強じゃん!」
野崎「ふふっ……確かに。その我が家の布陣はちょっと強すぎるわ……」
両親と他愛のない話を重ねているうちに、胸を支配していた真っ黒な不安が、少しずつ、少しずつ消えていくのを感じた。
それでも、いざベッドに入って寝る直前になると再び心臓がバクバクと騒ぎ出したが、この日は不思議とすんなり眠りにつくことができた。
*
翌朝、6時に起床。
――その瞬間、寝る前とは比べ物にならないほどの衝撃で、心臓がバックバクと激しく波打った。本当に口から心臓が飛び出るかと思うほどの衝撃だった。
なんとか体を動かして朝ごはんを口に運ぶものの、喉が完全に閉じてしまっていて、どうしても下に飲み込めない。
頭では「大丈夫だ、新しい学校なんだから」と言い聞かせているのに、私の身体が完全に拒絶している――恐怖で強張ってしまっているのが痛いほど分かった。
冷めかけた味噌汁を、薬のように無理やり喉へ流し込む。
しかし次の瞬間、激しい胃の痛みに襲われて私はトイレへと駆け込んだ。緊張が限界突破して、完全にお腹を壊してしまったのだ。
頭と身体が完全にバラバラになって、言うことを聞いてくれない自分の身体が情けなくて、私は狭いトイレの中で声を殺して泣いた。
(しっかりしろ……! 何のためにあのマネージャーが動いてくれたんだよ!)
私は自分の両頬を、思いっきり「パチーン!」とビンタした。
痛みが頭を覚醒させ、なんとか気持ちを無理やり立て直して準備を進める。これ以上食べるのは無理だと判断し、朝ごはんは諦めることにした。
リビングに戻ると、父親と母親が、二人ともこれ以上ないくらいに眉毛を八の字に下げて、今にも泣き出しそうな心配そうな顔で私を見ていた。この時の二人の切ない表情は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
準備が全て整った。
お腹の中に残っているのは、さっき流し込んだ僅かな味噌汁だけなのに、強烈な吐き気が襲ってくる。
父親「地下鉄の駅まで、俺が車で送ってやるから。今日だけは、ちゃんと送ってやる。だから大丈夫だ」
母親「いっておいで。大丈夫よ。何があっても、私とお父さんが後ろにいるんだから。ほら、ちょっと背中出しなさい」
言われるがままに私が背中を向けると、母親が私の背中を「バシバシッ!」と力強く叩いた。
ナニコレ、お母さんにこんなことされたの、人生で初めての経験だった。
痛かったけれど――不思議と、その手の温もりから、身体の奥底へじわっと元気が湧いてくるのが分かった。
野崎「……いってくるね(ズビッ)」
私は結局、ポロポロと涙をこぼしながら家を出た。
怖かった。本当を言えば、一歩だって家から出たくはなかった。
目を閉じれば、どうしてもあの給食室でチーフから毎日浴びせられ続けた、数々の罵倒の日々がフラッシュバックしてくる。
学校の給食室というのは、基本的にはどこも似たような造りをしているものだ。これから行く場所は全く違う学校なのに、「給食室」というワードを考えるだけで、あの嫌な光景が勝手に再生されてしまう。
情けないことに、泣きながら仕事へ出勤したなんて、私のこれまでの人生の中でも、後にも先頭にもこの日だけだった。




