問10)このときの俺の心情を答えよ
新月封印と決別し、廃校舎を後にして。
深まりつつある夕闇の中、それから俺がどうしたかと言えば――実家に行った。
不思議な感慨だったよ。
何しろ体感では帰郷してから何日も経っているのに、一度も実家に帰ってなかったんだからな。睡眠も取ってなかった。新月封印の巻き戻しによって、夜からシームレスに昼に移行するせいだ。
その理由について深く考えたりはしていなかったが、経験を積んだ精神だけが昼の俺の肉体へ移動していたからなのだろう。どれだけ酷使しようがどれだけ寝ていなかろうが、それは帰郷してきたその日の俺にとっては関係ないことなのだ。
さて。
実家に帰った俺は祖父母に軽く挨拶をして、そのままにしてもらっている自室へと早々に引っ込んだ。
それからできるだけ脳みそを使わないように布団に潜って目を瞑った。
それでもふとした拍子に胸の中をグリグリと刃物でかき回されている感覚に襲われた。
例えば、引っ越しについて決まったとき。
例えば、奏が死んだのだと宣言されたとき。
人生の岐路――いや、人生の谷底で味わった感覚。
致命的なミスをしてしまったという、どうしようもない不安と絶望。
それを振り切るようにして、努めて無心を保とうとした。
何も考えずこのまま眠れ。
寝ている間に全部終わる。
新月封印が『一なる真実』を見つけようがそうでなかろうが、この繰り返しは今日で終わるはずだ。
ついに先延ばしにしていた明日が来るのだ。
ついに知らない朝日を拝むときが来るのだ。
朝が来て昼が来て夜が来るという、当たり前の時間の運行に戻る。
わずかに残った三日月が完全に消えて新月の夜が来て、奏の通夜が行われる。
そうなるはずだ。
そのときには奏の死を真正面から受け止めなければならない。
俺の精神がどうなってしまうかはそのときにならなければわからない。今は考えたくもない。これまでもそうだったように、未来の自分に丸投げしてやる。
俺は焼けつくような感情を黙殺して、ただ暗闇にすがった。
そのうち、少しずつ睡魔がやってきて――ぷつり、と意識が途切れた。
目が覚めた。
体にまとわりつく違和感に首を傾げる。
どのくらいの時間が経ったのだろう。眠りの概念からしばらく遠ざかっていたせいか、時間感覚がひどく曖昧だった。
俺はどのくらい寝て、どのくらい時間が経って、今が果たして何時なのか。
薄暗い部屋の中で電気もつけず、壁にかけられた丸い時計を見る。
時刻は十二時ぴったり。
それが果たして深夜の零時なのか、それとも昼の十二時なのか、それを確認しようとベッドから立ち上がり、部屋のカーテンを引く。
そして――目に入った景色に絶句した。
色が、失われている。
モノクロ映画のような黒の濃淡だけで表現された不可思議な世界。
空が星空であることで、かろうじて今が夜であることはわかった。
動揺からか、再度時計を見る。
やはり十二時ちょうどだ。
――いいや、待て、違和感がある、よく見ろ。
おかしい。短針どころか、秒針も動いていない。
まるで日付が変わることを拒んでいるかのように、凍結してしまっている。
「……新月封印か?」
この事態の原因はそれしか考えられない。
今までの巻き戻しとは明らかに違うが、時間を操れる存在がそうポンポンいるとも思えない。
「俺が明日を迎える覚悟をしたところでこれか。嫌がらせだとしたら抜群に効果的なタイミングだぜ」
と言っても、嫌がらせをするようなヤツじゃないのはもう知っている。
アイツはどこまでもまっすぐで、前向きで、真摯だった。
「……とすれば、なんかあったのか?」
そうかもしれない。
今までと違うことが起きているのは確かだ。
けれど、だからと言って、あんな啖呵を切っておいてもう一度新月封印に会うのは気まずすぎる。
どの面下げて会いに行くのだ。面の皮が厚すぎるだろ。鉄面皮どころじゃない。モース硬度の限界突破だ。
頭を振って、再びベッドに寝そべる。
見慣れた、けれど少しだけ遠く感じる天井を、眺めるでもなく眺める。
そうやってだらだらと時間を潰して、再び時計を見る。
俺にとっての時間は経過する。
だが、世界の時間は止まったままだ。
壁の時計をいくら見ていても、針は動かない。
ため息をこぼしながら、起き上がる。
正面の机が目に留まった。
小学生のころから使っている机。細かな傷やセロテープの切れ端が残った、使い古しの机。その上に、変わらず置かれた写真立て。
その中で何を訴えかけるような目で見てくる少女。
人の幸せばかりを考えていた懐かしき幼馴染。
彼女の声すら聞こえる気がする。
俺は深く息を吐いた。
「――ああもう。わかったって。行けばいいんだろ。せいぜい醜態を晒してくるよ」
もちろん写真は答えない。
死んだ人間も答えない。
ただ、自分の心の中の奏が微笑んだ気がした。
だから――廃校舎に向かった。
街の中は静かだった。
人の声がしない。
虫の鳴き声もない。
車の音も、風で草木が揺れる音もしない。
おそらくまっとうに生きていれば一生経験することはないほどの無音だ。
人間は無音状態が続くと発狂してしまう――なんて話はよく聞くが、しかし実際に遭遇してみると非現実感は凄まじいが、狂気に囚われそうな感覚はまるでない。
強いて言えば作り物の中にいるみたいだった。
もちろん、廃校舎に入ってからもそうだった。
いつもなら軋みを上げる床板も、わずかな風でガタガタ鳴る扉も、まったくの無音。
あまりの静寂に、新月封印がいるかどうか不安になる。
少しばかり眉根を寄せながら教室の扉を開く。
別れる前にいた教卓の上を確認する。いない。
ため息を吐き、引き返そうとしたところで――
「――ユキハル?」
かぼそい声が聞こえた。
視線を動かす。
いた。
床の上だ。
寝そべると言うよりは倒れているような体勢の新月封印がそこにいた。
「……なんて格好してるんだよ、お前」
「かはは。ユキハル、来てくれたんだな」
新月封印は笑っていた。
今まで見たどんな表情よりも嬉しそうな笑顔だった。
……だが、反面、どうしようもないほどに衰弱しているのも確かだった。
声に力がない。
指先すら、ぴくりとも動かない。
動かない手のひらの中に、あの銀の指環が鎮座している。
「食えなかったのか?」
「食わなかったのだ」
力尽きて口に運ぶことができなかったのかと俺は問い。
自分の意志だと彼女は答えた。
「確かに腹は減っている。時間もうまく操れない。世界全体がのしかかって新月を押し返そうとしている。かはは。天空を支える巨人とて、今の新月ほどにはつらくなかろうな」
「じゃあ、なんで――」
「もったいないじゃないか」
簡潔で明瞭な答えだった。
「新月は『一なる真実』を求めて幾度も繰り返してきた。幼い少女の中に入ることもあったし、年経た老女に入ることもあった。だが、いつも新月は部外者だった。観測者だった。だから――新月自身が贈り物をもらったのはこれが初めてなのだ」
悲しいほどに弱々しいのに、それでもひどくまぶしい笑顔で、新月封印は言った。
「ユキハル。新月はわかったぞ。このはち切れんばかりの喜びが、そうなのだな。今お前が来てくれて、胸にあふれたこの気持ちがそうなのだろう。新月の国では遠い昔に失われて、けれど皆があると言っていた美しいもの、『一なる真実』――」
彼女は噛みしめるように目を閉じた。
「かはは。新月は辿りついたぞ、ユキハル。これが――『恋』なのだな」
その言葉を口にした瞬間、モノクロの世界から音がした。
歯車が動くような音が。
それと同時に、床に広がる新月封印の白髪が黒く染まっていく。
いや、染まっているんじゃない。戻っているんだ。本来の持ち主の姿に。
「お礼をしたいところだが、新月にできることはあまりに少ない。この娘の命を取り戻してやりたくても、新月にできるのはカタチを整えることくらいだ。許せ、ユキハル」
「馬鹿野郎! お前には十分すぎるほどもらったって言っただろうが! なんで急にそんな――」
「かはは。ユキハルの大声、初めて聞いたな。なんだか嬉しいぞ」
べきべき、と彼女の胸部で音がする。
ワンピース越しにでも、砕けて突き出ていた肋骨が治っていくのがわかった。
いかにも死人然としていた青白い肌に朱色が差してくる。
奏の肉体の怪我を治してくれているのだ。
おそらくは残された、わずかな力の限りを尽くして。
「なんで、なんで、お前は――」
なんでそんなにも申し訳なさそうに笑ってんだ。
何もしてないのはこっちの方なのに。
どうしようもない理由で協力を打ち切ったのは俺なのに。
勝手に納得して、勝手に卑屈になって、勝手に消えようとしやがって。
「――これでお別れなら、せめてなんかワガママを言っていけ。少しくらい借りを返させろ、新月封印」
「何もいらない。新月は今満たされている。――ああ、楽しかったなあ、ユキハル。本当に本当に、おまえに逢えてよかった――」
瞬間、音がした。
がちりという、時間の歯車が正しく噛み合う音が。
それと同時に世界に色が戻った。
モノクロからフルカラーへの移行は瞬き一回もかからないほど。文字通り一瞬で視界の果てまでも届き、世界は不思議な現象など何もなかったような顔をしている。
「新月封印……?」
俺は黒髪を取り戻した幼馴染の肉体に声をかけた。
答えはない。
彼女はもう行ってしまったのだ。
だからここにあるのは、カタチを整えられた奏の死体。
あまりの空虚に歯噛みして、彼女の体を抱き上げる。
ほのかに温かい。
夏の暑さをやり過ごすためにくっついた新月封印の体の冷たさは、もうそこにはなかった。
言いたい放題言って、やりたい放題して、本当にいなくなってしまった。
俺は再びすべてを失った。これ以上ないほど根こそぎに。
そう思った刹那。
「――うぅっ――」
「ッ!?」
奏の喉から空気が吐き出され、驚いて彼女の顔を見る。
なぜ。どうして。だって新月封印は、生き返らせるほどの力はないと言っていたのに。
それじゃあ一体どうして――そう思ったとき、俺は事故直後の彼女の母親の話を思い出した。
『知ってる? 死後二十四時間は火葬できないって決まりがあるのは、息を吹き返す可能性があるからなんだって』
ああ、そうだ。
そう言っていた。
よく考えてみろ。あれからまだ一日も経ってない。
何度も何度も、日をまたぎそうになるたびに、新月封印が時間を巻き戻していたのだから。
そしてわずかな時間経過が生んだ問題も、彼女がカタチを整えてくれたときになくなったのだろう。
ちくしょうめ。
お礼にしちゃ払い過ぎだぜ、新月封印。
「んうっ――あ、あれ? ハルちゃん?」
意識を取り戻した愛しき幼馴染がうろたえた声を出す。
俺はさらに彼女をきつく抱きしめる。
「えっと――あれ? なんでこんなところにいるんだっけ? それに、ハルちゃんはどうして泣いてるの?」
「話せば長くなる。信じて貰えそうにない話が山ほどあってな」
「私は信じるよ。ハルちゃんが言うコトなら」
「そうか。それじゃあ積もる話させてくれ。家に帰りながら」
「あ、うん。そうか、ここ学校だ。懐かしいね」
ふへらという感じで奏は笑った。
そうだ。笑うときはこういう風に笑うやつだった。
「お前、よく黒板の端に犬の絵を描いてたっけな」
「違うよ。クマの絵だよ。なんでいつも犬って言うの」
「ああ、そうだった。この話も、アイツにしてやればよかったかな」
「アイツ――?」
「それも後で話す。さあ、帰るぞ。立てるか? いや、やっぱりいい。このまま運んじまおう」
「えっ、ちょっと、ハルちゃん? なんかいつもと感じ違わない?」
「おっと、そうだ。奏」
「はいはい。なあに、ハルちゃん」
不思議そうに俺を見つめる幼馴染に、はっきりと告げた。
「――結婚しようぜ」




