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――高校一年生の時、私と東郷くんは同じクラスだった。初めは特に仲が良かったわけでもなくて、本当にただのクラスメイトだった。私自身は『ここ』で出会うまで、彼のこともよく知らなかったしね。
私には学生の頃、人前に出たり極度に緊張すると『吃音症』、つまり話すときに吃ってしまう症状があった。私には自分のその吃りがすごく恥ずかしくて、人前に出て話すことがとても嫌だった。それを嘲笑ったり馬鹿にしてくる人もいたしね。
もちろん高校に入っても吃音症は治らなかった。普通に会話する分にはいいのだけど、自己紹介とか注目される場所になるとどうしても、ね。入学して最初のホームルームの時間に一人ずつ自己紹介をさせられたのだけど、その時もやっぱり私はうまく話せなかった。私はクラスメイト達の目の前で泣き出してしまった。もうだめだと思ったわ。新しい環境になる度、吃音症のせいでつまづく。また周りから馬鹿にされる。そう思うと怖くてクラスの輪にも入っていけずに、私はこの図書室に入り浸るようになったの。
この『指定席』に座って、たまに窓の外を眺めながら本を読んでいる時間はとても気楽で幸せだったわ。本の文字を追っている時は、言葉に詰まることもない。言葉に苦しめられることもない。滑らかに頭の中を流れる言葉をただただ楽しむことが出来た。
そんな私だけの幸せな時間に、ひょっこり現れたのが東郷くんだった。初めて図書室で顔を合わせた時、私はまだクラスメイトの顔を全然把握できていなかったのだけど、東郷くんは私のことを覚えていてくれてた。まぁ、自己紹介の途中に泣き出したらそりゃ覚えてもいるわね。
東郷くんは本も持たずに私の目の前――ちょうどあなたが座っている席に腰掛けて、私に声を掛けてきた。
「何してるの?」
図書室なんだから本を読んでいるに決まってるんだけど、まさか声を掛けられると思っていなかった私は驚きながらも真面目に答えようとした。でもうまく返事が出来なかった。
「ほ、ほ、本を……」
吃った上に言葉が続かない。大抵の人はこれを聞くと、不愉快そうな顔をしたり、不思議そうな顔をしたり、あるいは馬鹿にしたような顔をしたり。きっと東郷くんもそうだと思った。あぁ、嫌だ。また奇異なモノを見るような目で見られる。あの胸の奥まで抉ってくるような眼差し。でも……彼は違った。
「それ、面白い?」
私のみっともない答えを気にも留めず、話を続けてくれた。それから彼は私にお薦めの本を教えて、とか、好きな本を教えて、なんて聞いて数冊の本を借りて帰っていったの。ただの気まぐれだったのか、何だったのか。その時は彼の行動の意味がわからなかった。
次の日も東郷くんは図書室に来て、同じ席に座り、私に声を掛けてきたわ。
「まだ途中だけど、この本面白いね」
私が好きだと言った本を片手にそう言った。私はその時なんだか自分が少し認めてもらえたような気がして、すごくすごく嬉しかったのを覚えてる。
私たちは毎日図書室で会うようになった。教室では席も離れていたから言葉を交わすことはほとんどなかったけれど、休み時間や放課後には図書室で一緒にもくもくと本を読んだわ。他の生徒がいない時には声をひそめてお互いの話をしたりもした。東郷くんはいつも妹さんの話をしていたな。十二歳も歳の離れた可愛い妹。今は『おにいちゃんとけっこんする』なんて言ってるけど、いつか『お兄ちゃんキモい』とか言われちゃうんだろうな、なんて父親みたいなことも言ってたっけ。写真を見せてもらった時は、東郷くんによく似ていて目元のホクロまでそっくりでびっくりしたな。
私は……自分の好きなこと、好きな食べ物、好きな音楽。友達とか兄弟とか、話題にあげられるような人がいなかったから自分の話ばかりだった。それでも東郷くんはきちんと私の話を聞いてくれた。私の話をこんなにも聞いてくれる友達なんていなかったから、私にとっては何よりも楽しい時間だったわ。
しばらくそんな日々が続いて、夏が間近に迫ってきたある日。東郷くんが私にひとつのお願い事をしてきた。
「期末テストの勉強、教えてくれない?」
私は戸惑ったわ。人に何かを教えるなんてしたことがなかったし、吃音症の私がうまく教えられる自信もなかった。でも東郷くんはそれでもいいから、と言ってくれた。そうして一週間ぐらいの間、勉強会を放課後にするようになったの。
東郷くんは妹さんのお迎えがあるからほんの1、2時間ぐらいの時間だったけど、私にとっては世界が開けるような新しい時間だった。
『人に教える』時、私の言葉は私の言葉じゃないみたいにすらすら口から滑り出てくる。自分の頭の中にある引き出しから知識を取り出して、それを言葉にする。それは自分の思ったことや感じたことを話すより、ずっと簡単だった。これは私にとって、コロンブスが新大陸を発見したよりもっと刺激的で驚きの新発見だったわ。
その新発見をきっかけに、私の胸に生まれて初めての『夢』が生まれた。
「ねぇ、東郷くん。私、教師になりたいな」
期末テストが終わって夏休み直前のある日、私はその『夢』を思いきって東郷くんに話してみたの。それまでずっと自分に自信のなかった私は『将来の夢』なんて抱いたことがなかった。それも、人前で話すことの出来ない私が教師なんて。普通に考えたらきっと無理だし、周りからしたらちゃんちゃらおかしい話かもしれない。でもそんな私の初めての『将来の夢』を東郷くんは笑わずに真剣に聞いてくれた。私も、きっと東郷くんは真面目に聞いてくれるって思ったから話すことが出来たのね。
「百田さんならなれる。絶対」
やっぱり力強くそう言ってくれた後、東郷くんはその『絶対』の根拠を延々と力説してくれたわ。
「まず、百田さんは頭が良い。いろんなことを知っていて、しかもその知識がきちんと整理されてる。だから何を聞いても的確な答えが返ってくる。教え方も無駄がなくてわかりやすいし。おかげで僕の今回のテストの総合点、中間テストより四十点も上がったよ。それから、声が良い。すごく良い。聴き心地が良いから、穏やかに授業を受けられるね。あと、これはすごく大事なことだと思うんだけど――」
この時、東郷くんがくれた言葉は私の心に今でも飾ってある言葉。
「百田さんは人を大切にできる人だ」
そんなこと言われたの初めてだったから面食らったわ。私のどこをどう見てそう思ったのかもわからなかった。
「百田さんは自分が大変な思いや辛い思いをたくさんしてきたから、他人に同じことをしないんだよね。勉強中、僕がどんなに飲み込みが悪くて要領が悪くても、馬鹿にしたり苛ついたり絶対しなかった。それは百田さんの『強さ』だと思うな」
その言葉は、私がそれまで日陰でひっそり生きてきた人生をまるごと肯定してくれる暖かさに満ちていた。夏休みとクリスマスとお正月と誕生日がいっぺんに来るより嬉しくて、私は生まれて初めての『嬉し涙』を流した。
東郷くんは『生まれて初めて』をいくつもくれた私の恩人。あのいくつもの『生まれて初めて』があったから、今私はここでこうして生きていられるの。
彼はもう……いなくなっちゃったけど、彼の暖かさを繋いでいくことが私の教師としての使命だと思ってるわ。




