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湖の王

「テレン湖」という湖には多くの生物が集まる。

 

 この巨大な湖は、乾季の間でも干上がることがない。そのため、多くの生物が水を求めてテレン湖に集まる。また、テレン湖は雨季には周辺の河川と繋がるため、河からやって来た魚達も数多く住みついている。



 テレン湖で頂点に立つ生物。それは、鰐だ。


 此処にいれば、黙っていても獲物の方からやって来る。陸からは大型の魔物や動物達、水の中には大きな魚。獲物には全く不自由しない。さらに、テレン湖の周辺には成長した鰐を襲う生物はほとんどいない。テレン湖は、鰐にとって絶好の狩場だった。

 そのため、テレン湖には、数えきれないほどの鰐が生息している。


 テレン湖の鰐の中で最も強い鰐、それは「ギュノスクス」と呼ばれる鰐である。


 体長はテレン湖にいる平均的なサイズの鰐の約三倍。テレン湖に集まるあらゆる生物を捕食し、時には同種すら餌の対象としている。


 多くの人間もこの鰐の犠牲になっており、その犠牲者の数は百を超えるとも言われている。

 幾度となく「ギュノスクス」は退治が試みられてきた。だが、弓矢、剣、銃、魔法。あらゆる攻撃は、全て「ギュノスクス」の硬い鱗に弾かれ、失敗した。


 あまりの強さに人間は「ギュノスクス」の退治を諦めた。

 テレン湖周辺に住んでいる現地民の中には「ギュノスクス」を信仰の対象にしている者達もおり、年に一度、テレン湖にいる「ギュノスクス」に牛や豚などの生贄を捧げる風習すら誕生した。


 現在、広大なテレン湖の約三分の一が「ギュノスクス」の縄張りである。「ギュノスク」は多くの獲物が集まる絶好のポイントに陣取り、大量の獲物を独占していた。


 百年以上生き、人間の攻撃もものともせず、圧倒的な力で広大な領土を保有している「ギュノスクス」はまさに、テレン湖の王と呼ぶにふさわしい存在だ。



 その日も、ギュノスクスはテレン湖を悠然と泳いでいた。

 直前にヒドラを喰って腹を満たした彼は、日課のパトロールの最中だ。毎日時間を掛けて、他の鰐などが自分の縄張りに侵入していないか見て回っている。

 しかし、ギュノスクスの恐ろしさを十分過ぎる程理解している他の鰐達が彼の縄張りに侵入することはまずない。ギュノスクスの縄張りに侵入する者は自分の実力を過信し過ぎた愚か者だけだ。そして、その愚か者は王の怒りに触れ、あっけなく命を落とす。

 

 日課のパトロールを終えたギュノスクスは、今日も侵入者がいなかったことに満足し、一眠りしようと自分の寝床に戻ろうとした。


 しかし、彼は気付いていなかった。その日課にしているパトロールが無意味な行動になっているということを。


 広大な縄張りを持ち、他の鰐とほとんど接触していない彼は、知らなかった。


 もう既に、この湖に鰐は彼しかいないことを。

 

 バシャン。


 突然、爆弾でも投げ込んだのかと思うほどの巨大な水柱が上がった。水柱が上がるのと同時に、ギュノスクスは凄まじい力で湖深くに引きずり込まれた。


 何が起きたのか?ギュノスクスは理解できなかった。ただ、自分の尾を咥え、湖深くに引きずり込んだことだけは分かった。

 ギュノスクスは、最初に自分を襲う生物がいることに驚いた。

 次に、猛烈に怒った。王たる自分を襲うなど、言語道断。ギュノスクスは自分の尾を咥えている不届き者に天誅を喰らわせるべく、体を大きく捻らせ、その生物に噛みついた。


「ガッ!」


 しかし、ダメージを受けたのは噛みついたギュノスクスの方だった。その生物に噛みついた瞬間、ギュノスクスの歯が砕けたのだ。ギュノスクスは『馬鹿な!』と何度も心の中で繰り返した。

 ギュノスクスの噛む力は、通常の鰐達とは比較にならない。さらにその歯は、ギュノスクスの噛む力に十分に耐えうる硬度だ。そんな、ギュノスクスの歯が砕けた。

 つまり、それはギュノスクスの噛む力よりも彼を湖深くに引きずり込んでいる生物の方が圧倒的に硬いことを意味している。


 ギュノスクスは、さらに深く引きずり込まれる。必死に暴れるが、その力は全く緩まない。『一体何者だ?』とギュノスクスが思ったその時、不意にその生物はギュノスクスの尾を離した。

 その生物が何故、尾を離したのはギュノスクスには分からなかった。必死に暴れたことが功を奏したかとも思った。しかし、理由はどうあれ、ギュノスクスの尾は離された。

 ギュノスクスは体勢を整えるため、猛スピードで水面に戻ろうとした。

 だが、それよりも早くその生物がギュノスクスに噛みついた。今度噛みついた場所は尾ではない。その生物は、ギュノスクスの首に噛みついていた。

「グウ!!」

 ギュノスクスは理解した。その生物がギュノスクスの尾を離したのは、ギュノスクスが暴れたからではない。その生物は単に、ギュノスクスの首に噛みつくために彼の尾を離したに過ぎなかったのだ。

「ゴバ……ゴババババ!!」

 ギュノスクスの首が凄まじい力で絞められていく。この時、彼はある感情を思い出した。それは、彼がまだ子供だった頃のことだ。


 今では敵なしのギュノスクスだったが、子供の時は違った。

 鳥、トカゲ、蛇、魚……そして、他の鰐。子供の頃、周りには自分より大きい敵だらけだった。あの頃は、常にその感情を抱きながら生活していた。だが、年月が過ぎ、彼は誰よりも大きく、誰よりも強くなった。子供の頃は、常に抱いていたその感情も年月が経つにつれ段々と薄くなっていき、今では完全に消えたかのように思われた。

 だが、彼は約百年ぶりに、その感情を思い出した。


 その感情とは、「恐怖」。

 どの生物も持っている感情。そして、生きていくには決して忘れてはならない感情だ。


 ボキンと鈍い音が水の中に広がる。その瞬間、ギュノスクスの「恐怖」は消えた。



 巨大な鰐が水面から顔を出す。既に事切れている鰐の首を咥え、その生物は湖から上がってきた。

 

 ティラノサウルス。

 二本足で歩く巨大トカゲは、陸に上がると無造作に鰐を地面に置いた。ティラノサウルスはまるで濡れた犬の様に全身を振り、体に付いた水滴を飛ばす。

 体の水滴を飛ばすと、ティラノサウルスは仰向けに倒れている鰐の白い腹に勢いよく食らいついた。鰐の腹の肉は食い千切られ、鮮血が舞う。


 戦いに敗れた王は全てを奪われる。


「暴君」に敗れた「湖の王」は、目、舌、内臓、骨、皮、肉……。自分を構成していたもの全てを奪われた。


『ゲッフ』

 ティラノサウルスが、自分より一回り大きい鰐を丸々平らげたちょうどその時、彼を呼ぶ声が聞こえた。

「マルス!」

 ティラノサウルスは声がした方を向く。そこにいたのは、彼と行動を共にしているエルフ、ナノだ。ナノは浮遊魔法を使い、こちらに飛んで来る。

 そんなナノの隣に、何かが浮いている。ナノよりも大きなその物体は、全く同じスピードで彼女の隣を飛んでいた。



 ティラノサウルスがテレン湖に来たのは、元々ナノに誘導されたからだ。


 斬られた傷は筋肉を盛り上げることで、一時的に止血した。

 しかし、傷は治ったわけではない。傷は思いのほか深く、筋肉を緩めると直ぐに傷口は開いてしまう。

一刻も早く傷を治すため、ティラノサウルスは多くの獲物を喰う必要があった。

 それは、ナノも承知していた。しかし、激しい動きをすれば傷口が余計に開いてしまうかもしれない。素早く動く獲物を狩るのは出来るだけ避けた方が良いとナノは判断した。


 そこで、ナノはティラノサウルスをテレン湖に誘導した。


 テレン湖には、鰐が多く生息している。日中、鰐達は日の光を浴びるため必ず陸上にいた。周辺に成長しきった鰐を襲う生物はほとんどいない。そのため、鰐達は油断しきっており、ティラノサウルスは大したスピードを出さずとも鰐を捕まえることができた。

 ティラノサウルスはテレン湖で食事と睡眠を繰り返し、傷が癒えるのを待った。

 ナノは、主の傷が一刻も早く癒えるように湖周辺にいる生物を狩り、ティラノサウルスに献上していた。


 それから約二カ月後、完全に傷が癒えたティラノサウルスは水中で狩りが出来るまで回復していた。



 ナノはティラノサウルスの傍に静かに降り立つ。

「ムイテラムライテコオイ(もう食べられたのですね)」

 ナノは近くに周囲に飛び散った血を見る。その量から、主はこの湖で一番大きな鰐を食べたのだろうと察した。大物なので、一番最後に残していた鰐だ。

「ンジ、コリムムイカムナシコオイ(では、これはもう要らないですね)」

 ナノはパチンと指を鳴らす。すると、ナノの隣で浮いていた物がズドンと地面に落ちた。


 それは、巨大な大蛇だった。


 大きさは、ティラノサウルスが喰った「湖の王」とほとんど変わらないサイズ。その長い胴体はまるで岩のように固い。

 この蛇は「テレン湖」より少し離れた大河に生息していた大蛇で、現地の人間からは「ディダノボア」と呼ばれ、「ギュノスクス」と同じように信仰の対象になっていた。

 ディダノボアもギュノスクス同様、百年以上生きており、その絶対的な力で大河を支配していた。ギュノスクスが「湖の王」なら、ディダノボアは「大河の王」だ。


 ティラノサウルスは、地面に落ちた蛇の死体を見る。

 大きな鰐を食べた彼の腹は、既に満たされている。その上で、さらに同サイズの蛇まで食すのは少々、胃が垂れそうだ。ティラノサウルスは、蛇をその場に置いて歩き出そうとする。

 その時、ティラノサウルスの鋭い嗅覚がある匂いを感じ取った。


 それは、血の匂い。ここには、三つの血の匂いがする。


 一つは、ティラノサウルスが喰ったギュノスクス。

 二つ目は、ナノが狩って来たディダノボア。


 そして三つ目は……。ナノの血の匂いだ。


 ティラノサウルスはナノにチラリと視線を向ける。一見すると、ナノの体に傷はない。しかし、確かにナノから血の匂いがする。それも、かなりの量の血だ。


 ナノが捕えてきたディダノボアは、「大河の王」と呼ばれ、百以上生きてきた大蛇だ。けっして簡単に倒せる相手ではない。


 ナノはディダノボアと激闘を繰り広げた末に、ギリギリで勝利していた。

 ディダノボアの喉を光の剣で突き刺せし、倒したナノだったが、自身もまた深い傷を負ってた。戦闘中は傷を治す余裕がなく、ナノが自分の傷を回復魔法で治すことができたのは、ディダノボアの激闘から一時間以上経過した後のことだった。

 その間、大量の血がナノから流れ落ちている。

 ナノは河で体に付いた血を洗い流したが、血の匂いは体に付着していた。ティラノサウルスの鋭敏な嗅覚は、その血の匂いをはっきりと嗅ぎ取った。


 ティラノサウルスは、実際にナノが戦う場面を見たわけではない。

 しかし、ナノから漂ってくる血の匂いの量から、この蛇と一歩間違えれば死んでいたかもしれない程の激しい戦いをしたことは分かった。


 それにも関わらず、ナノはそんな様子を微塵も見せない。

 ティラノサウルスが蛇の死体の横を通り過ぎようとしても、残念そうな顔も、不満そうな顔も見せず、ただティラノサウルスにほほ笑みを向けている。


『……』

 ティラノサウルスは、歩き出そうとした足をピタリと止める。そして、地面に落ちている蛇に視線を向けた。ナノは、そんな主を不思議そうに見つめている。


 ガブッ。


 ティラノサウルスは大きく口を開け、蛇の死体に喰らいついた。ナノは驚いて目を見開く。


 グチャ、ブチャ、ガブッ、グチャ、グチャ。


 ティラノサウルスは蛇を喰らい続ける。ナノはその光景を唖然として見ていた。

 確かに、主は信じられない程の大食いだ。自分以上の大きさの獲物を丸ごと喰い尽くす光景を何度か見ている。しかし、それでも、これは食べ過ぎなのではないのか?

 その証拠に、主は何度も『ゲッフ』と嘔吐いている。

「マルス、ムイソロヘクデ……(マルス、もうその辺りで……)」

 ナノは主を止めようとするが、ティラノサウルスはその制止を無視して、喰い続ける。


 三十分もしない内に、ティラノサウルスは大蛇を全て喰い尽くした。


『グップ』

 蛇を喰い終わった時、ティラノサウルスの腹は風船のように膨らんでいた。ティラノサウルスは重い腹を抱えながら歩き出す。

「マルス……」

 そんなティラノサウルスの後ろを申し訳なさそうに、そして嬉しそうにナノは付いていく。


 約二か月滞在したテレン湖をティラノサウルスとナノは後にした。


 ティラノサウルスとナノが去った後、鰐がいなくなったテレン湖周辺の生態系は大きく変わることになる。しかし、それはティラノサウルスとナノには関係ないことだった。



 傷も回復して、食欲が増したティラノサウルスは、出会う生物を片っ端から喰いながら歩き続けた。


 テレン湖から去って一カ月。ティラノサウルスとナノはある場所に辿り着いた。


 そこは、一見すると何の変哲もないただの荒野だった。少なくともナノは、そう感じた。

(獲物は少なそうだな……)

 見える範囲に木は数本しかなく、足元に生えている草も短い。このような場所にいるのは虫やネズミなどの小動物だろう。主の腹を満たす獲物はいなさそうだ。

 ナノは、残念そうな顔で主を見る。主も自分と同じ様な表情をしているだろうとナノは思っていた。もしくは、獲物がおらずイラついているかもしれない。


 しかし、ナノ予想に反して、主の表情は残念そうでも、獲物がいないことにイラついてもいなかった。

 

 主の表情は、まるで思い出を懐かしんでいるかのように穏やかだった。


『ここは……』

 ティラノサウルスは周囲を見渡し、鼻を動かす。見たことある景色に、嗅いだことのある匂い。ティラノサウルスは突如、猛スピードで走り出した。ナノは慌てて、その後を追う。


 猛スピードで走り出したティラノサウルスは、ある場所でピタリと止まった。視線を下に向け、じっと地面を見る。ティラノサウルスの視線の先にある地面は、まるで、空から巨大な何かが落下したかのように大きく抉れていた。

『やっぱり』

 間違いない。ティラノサウルスは確信する。この場所は彼にとって、とても重要な意味を持つ。此処で彼は初めて勝利し、そして生まれ変わった。


 生物がほとんどいない荒野。此処はティラノサウルスがドラゴンと戦った場所だ。


 ティラノサウルスは、獲物を求め定住と移動を繰り返していた。

 移動に法則性はない。美味そうな匂いが漂って来れば、そちらの方に向かい、特に何もなければ気分で行先を決めていた。最近では、ナノに誘導されることも多くなってきた。

 ティラノサウルスはランダムに移動しているつもりだったが、実はグルリと大きく円を描くように動いていた。その結果、またしてもこの場所に戻ってきていたのだ。


 思わぬ帰郷に、ティラノサウルスは懐かしさで胸が一杯になる。


 しかし、その追懐は長く続かなかった。


 バチバチ。


 突然、何の前振りもなく、彼の前方に黒い球体が現れた。黒い球体はバリバリという音を立てていたが、やがてパンという音と共に弾けた。


 黒い球体が弾けると、そこに漆黒のドレスを纏った少女がいた。


「やあ♪」


 少女はまるで、親しい知人に会ったかのように、ティラノサウルスに気さくに挨拶する。


 吸血鬼。


 この世界でティラノサウルスに深手を負わせた唯一の魔物。


 そして、ティラノサウルスが喰う為でも、返り討ちにするためでもない。ただ、「復讐」のためだけに、殺そうと心に決めた魔物。


 その魔物が今、目の前にいる。


 本来なら、吸血鬼はティラノサウルスの前に姿を現した時点で、挨拶する間もなく喰い殺されていただろう。


 しかし、ティラノサウルスは動かなかった。否、動けなかった。


 吸血鬼の姿はティラノサウルスの目に映っていない。彼の目は吸血鬼の隣にいる黒い生物だけを映していた。


 吸血鬼の隣にいる黒く巨大な生物。それは、ティラノサウルスと全く同じ姿をしていた。



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