第3話 化け猫カーラジルト 9
カーラジルトは、七都の後ろに立った。
そして、七都の肩に両手を回す。
抱きしめられてる?
七都は、全身をこわばらせた。
「え、えーとお。これは何の……」
「手っ取り早く覚えてもらわなければね。時間もないし、きみには体力もない。その準備の体勢だ」
「そ、そう。では、お願いします」
「不愉快かもしれないが……。しばらくきみの中に入る」
七都は、思わずカーラジルトを振り返る。
彼の白緑の目が、七都の見開かれた透明な赤紫の目と至近距離で向き合った。
「そういう意味じゃないぞ」
彼が相変わらず、とことん真面目な表情をして言う。
「な、何も言ってませんけどお!?」
七都は顔をしかめ、カーラジルトを睨んだ。
今度下ネタっぽいことを何か言ったら、猫パンチだ。
そういうつもりじゃないってわかってるけどっ。
七都は心に決める。
やがて七都の頭の中に、微かな違和感が忍び寄って来た。だが、気持ちの悪いものではない。
誰か身近な人が隣にすっと座った。そんな感じだった。
何かあたたかいふわりとした影のようなものが、七都の意識の隣にいる。
これは、カーラジルト?
背後から七都の肩を抱きしめていたカーラジルトが、ゆっくりと倒れる。
「あ……」
七都は彼を支えようとしたが、影が伸び上がるように膨張して、七都の動きを止めた。
まるでブレーキを突然かけられたかのようだった。
(触ってはいけない)
カーラジルトの声が、七都の頭の中に聞こえた。
床に横たわったカーラジルトの体の表面は、銀色の薄いバリヤーのようなもので覆われていた。
翡翠色の目を開けたまま身動きしない彼は、精巧なアンドロイドのようだ。
(魔力で守っている。そのままにしておいたら、危険だからね)
「カーラジルト。わたしの中にいるの? あなたの意識は……?」
(そう。ここにいるよ)
七都の右手が、メーベルルの剣を鞘から抜いた。それは七都の意思ではない。
「魔神族って、こういうことも出来るの? 誰かの体の中に入って動かすなんてこと……」
(こうやって、人間や動物を操ることも出来る。もっとも、これはかなり高度な技だ。全く出来ない魔神族も多いし、けれども、アヌヴィムの魔法使いの中には、出来てしまう者もいる)
ゼフィーアとか、簡単に出来ちゃったりするのかもしれない。
七都は思う。
(本当は、きみが私の中に入れば、疲れなくていいんだけれどね)
「そんなの、絶対無理」
(ならば、この状態で覚えてもらうしかない。少しの間、きみの体を使わせてもらう)
「うん……」
(では、外に出るぞ)
剣をかざした七都の姿は、部屋の中から消えた。
あとには、魔法のバリヤーに守られて横たわったカーラジルトだけが残される。
七都は、外の空気を感じた。
心地のよい青い闇と月の光。それらが七都をやさしく包み込む。
朝の太陽の気配が地上に現れるまで、この静かな魔神族の時間は続いて行く。
その中に立っている両足は、自分のものであって自分のものではない。剣を握っている手もそうだ。
不思議な感覚だった。自分の意思に重なるようにして、カーラジルトが確かに中にいる。
カーラジルトの瞬間移動は、イデュアルのものとは全く違っていた。
イデュアルは、ふわりと軽く空間を飛んだ。蝶が花から花へ移動するように。
けれども、カーラジルトの飛び方はもっと力強い。
メリハリがあるというのだろうか。いきなり空気を振動させて姿を現す甲虫のようだ。
七都の前方に、何か銀色のものが現れる。
ゆらゆらとうごめいていたその銀色は、次第に形を取り始める。
「え……? サカナ……?」
銀の鱗が、きらきらと光る。
それは、大きな魚だった。シーラカンスをもう少し縮めて太らせ、さらにかわいくデフォルメしたような感じだ。
機械で出来ているような、不自然な滑らかさとぎこちなさを持っている。
魚は宙を泳ぎながら、ガラスのおはじきのような目で、七都を見つめた。
(あれは実体のあるものじゃない。私がきみに見せている幻影だ。いいかい? 今からあれを倒してもらうからね)
カーラジルトが言った。
「……なんで、おさかななの?」
(別に。適当に出してみただけ。意味はない)
なんだ。猫だから、おサカナなのかと思ったんだけど。違うんだ。
そういう感想を心の中に浮かべた途端、カーラジルトにじろっと睨まれたような気がした。
しまった。彼はわたしの中にいる。
考えていることは筒抜けだ。気をつけなければ。
七都は、気まずさをごまかすように剣を構える。
(手に意識を集中させて。しっかり握って。まずはひとりでやってごらん)
「わかった」
銀の魚が突進してくる。
(来るぞ!)
「うん!」
七都は魚をかわす。それと同時に、剣を魚に向かって突き入れた。
けれども魚は身を翻し、七都の斜め前方にぴたりと止まる。
「素早い!」
七都は叫ぶ。
(いきなり倒そうなどと、安易に考えてはいけないよ)
カーラジルトが言った。
魚がヒレを地面に垂直に広げる。
それは、触れるものをすべて切り刻んでしまえるような、薄い刃で出来ていた。
「えーっ!!! 武器持ってる!!」
(そりゃあ、思いもかけないことも起こるさ)
魚が再び、七都に向かって突撃してくる。
七都は、刃を避けてジャンプした。
魚はすぐに向きを変え、七都を追いかけてくる。
七都は、魚に剣を振り下ろした。魚のヒレに当たって、剣がキンという澄んだ音をたてる。
「音まで出る! 本当に幻?」
(もちろん、その音も幻聴)
カーラジルトが答えた。
魚が七都の横を、すうっと通り過ぎる。
その瞬間、七都の腕に赤い線が走った。
線から粘り気のある血が流れ出る。七都は呆然として、その鮮やかな色の液体を見下ろした。
「こ、これも幻? 血が出てるんだけどっ」
(きみがそういうふうに思い描いてしまったから、そうなった。一瞬でも雑念を入れてはならない)
「う……」
七都は、メーベルルの剣を握り直した。そして、真正面に静止して泳いでいる銀の魚を見据える。
(では、そろそろ覚えてもらおうかな、戦い方を)
体が宙に高く舞った。
けれども、それは七都の意思ではなく、カーラジルトの意思によるものだ。
カーラジルトが七都の体を操っている。力強く機敏な動作。体をめいっぱい使って、伸び伸びと動かしている。
たぶん七都は、生まれてこの方そんな動作はやったことがなかった。
気を抜くと意識が遠くなる。そのまま彼に体を明け渡してしまいそうになってしまう。
(ほら、そんなところにいないで寄り添って。体の動かし方も覚えるんだよ)
カーラジルトが注意する。
「う、うん……」
七都は、意識を表面に引っ張り出した。
魚が追ってくる。
そして七都に追いついた途端、魚は真ん中で裂かれたように左右に分かれ、二匹になった。
「わ、分裂した!」
(一匹では物足りないからね)
カーラジルトがクールに言った。
魚たちが飛びかかってくる。
七都は宙で回転しながら、素早く剣を操った。
一匹の攻撃をかわし、もう一匹の気配を瞬時に感じ取って、剣を振り下ろす。
もちろんそれも、七都自身がそうしているのではない。カーラジルトが七都の体を動かしているのだ。
それでも七都は、しっかり自分の体に意識を集中させる。決して離れないように。そして、その動きを体と記憶に刻み付ける。
ああ。でも、やっぱり違う。セレウスやユードとは。
七都は、カーラジルトの剣の使い方を体感しながら、思った。
セレウスとユードは、たぶん頭をすごいスピードで回転させながら、剣を使う。
相手の動きを読みながら。次に相手がどう出てくるか、瞬時に細かく推測しながら。
でも、この人は違う。感覚と勘で剣を使っている。
相手の出方も理論や推測ではなく、感覚で計っている。
そういうのが魔神族の剣の使い方なのかもしれない。
魚たちのヒレの刃が、何度も七都の剣にぶち当たる。その度に鋭い音が響いた。
剣の握り方、傾け方。右手で剣を使っているとき、使っていない左手の動き。振りかぶり方。相手の武器の避け方。
そういうものが一つ一つよくわかるように、カーラジルトは七都のために、たぶんゆっくりと丁寧に動作をやってくれている。
剣がヒレの裏側に突き刺さる。
その途端、魚は、銀色のどろどろの液体になって崩れ落ちた。
液体は何本ものつららのように垂れ下がり、地面に触れる直前に、キラキラ光る粉に分解して消えてしまう。
(もう一匹は、きみが自分で倒すんだ)
カーラジルトが言った。
七都の体から、カーラジルトの意識が、すうっと退いて行く。
すべての感覚が、波が打ち寄せるように戻ってくる。
「わかった。やってみる」
七都は、宙に浮いている残りの一匹を睨んだ。
だがその魚は、突然姿を変化させた。平たい輪郭は膨れ上がり、丸くなる。
銀色の体色は、くすんだオレンジ色になった。
「なに、これっ!」
(知らん。きみの記憶から適当に拾い上げてみた。こちらが聞きたい)
カーラジルトが、相変わらず冷ややかに言う。
それは七都にとって、どこか見覚えのあるものだった。確実に元の世界のものだ。
「カボチャ大魔王……」
(なんだ、そりゃ……)




