第3話 化け猫カーラジルト 4
七都は、壁にもたれた。
疲れた……。
いっぱい走ったし、エヴァンレットの剣も使った。
グリアモスを二匹も消してしまった。
ここにはカトゥースがたくさんあるから、あとであれを食べよう。お茶も確かあったし。
今は、少し眠りたい。
「具合が悪そうだね」
七都をじっと観察していたカーラジルトが、言った。
「さっき、血の匂いがするって言ったよね」
カーラジルトは、頷いた。
「でも、血は出ていないのに。わかるの?」
「血が出ていないと思ってる? きみのその怪我を見てごらん」
「え……?」
カーラジルトは、女性に対する礼儀として七都から少し離れ、さりげなく、くるりと後ろに向きを変えた。
七都はマントを脱ぎ、胸当てをはずした。そして、チュニックの胸を開ける。
胸に巻いていた布に、うっすらとピンク色の染みがあった。
「これは……」
七都は布をつまんで、中を覗いてみる。
暗黒の傷にそっと触れると、手のひらにねっとりとした赤い液体が付いた。
「血……? そんな……」
魔神族は血が出ないはずなのに……。
七都は、深紅に染まった手のひらを見つめる。
「確かに、魔神族は怪我をしても、その傷からは血は流れない。でもそれは、魔の領域の外でのこと。ここは魔の領域のごく近くだからね。血は流れ始めるんだ。まだ完全な液体にはならないが」
カーラジルトが七都の背後から、反対側を向いたまま、言った。
それであのグリアモスの涎は、固体にはならず、口から滴り落ちたのだ。どろりとした飴状になって。
確かナイジェルも、そんなことを言っていた。
<ここではぼくたちは、怪我をしても血は流さないけど、魔の領域では血は流れる。きみの涙も石にはならずに、本来の液体になって流れるだろう――>
そうか。すっかり忘れていた。
血や涙は流れるんだ。魔の領域の中では。
魔の領域に近づくにつれ、固体として形を保っていた体液は柔らかくなり、流動性のある液体になる……。
ああ、でも。
血は、赤いんだ。
映画に出てくる宇宙人や怪物のように、緑とか青なんかじゃない。
よかった……。
何となく、嬉しい。
「魔神族の血って、人間と同じ色なんだね」
七都は、呟く。
「あまり人間には知られていないけれどね。実は、そうなんだ」
カーラジルトが言った。
七都は、胸のボタンを留める。
振り向くと、カーラジルトがすぐそばにいた。
う。近いっ!
七都は、突然アップになった彼を見上げた。
この人、なぜこんなにわたしの近くにいる?
カーラジルトは、黙って七都の肩に手を回した。そして顔を近づける。
彼のアイスグリーンの瞳が、七都の目の焦点が合わないくらいに、もっと近くなる。
「ちょっと待って。ちょっと待って! 何、この体勢っ!?」
「何って……。食事にするでしょ? お姫さま」
カーラジルトが言った。
「食事? えーと。それは、わたしにエディシルをくれるってこと?」
「そう。きみはその怪我を治さなければならない」
「あ……。でも……」
七都は、彼から目をそらした。
「このままの状態で魔の領域に入ったら、どういうことになるかわかるかい?」
彼が訊ねる。
「傷口から血が流れる。液体になって……」
「そうだ。血は流れ出して、止まらないだろう。きみの怪我は、相当なものと見る。きみは、たぶん死ぬよ」
カーラジルトは、静かに言った。
「死ぬのは、いやだ……」
「では、その体をエディシルで満たせ。きみは、まともなエディシルを体に取り入れたことがないみたいだね。よくここまで来られたものだ」
カーラジルトは、七都の顎の下に手を当てる。そして、もう片方の手で七都の頭を支えた。
「待って、待って。どうしても、エディシルをもらわないとだめ……?」
「死にたくないのなら、きちんと受け取れ」
カーラジルトの顔が近づいてくる。
彼の目の不透明な翡翠の色が、七都の視界いっぱいに広がった。
この人は、グリアモスの血を濃く引いている。
だったら、きっと、わたしの胸の傷をきれいに治せるだろう。
それに、親切でエディシルをくれようとしているんだ。
わたしの傷を治すために。わたしを助けるために。
この人のエディシルも、うんと減ってしまうのに。
だけど……。
この人からエディシルをもらったら、わたしはたぶんもう、カトゥースや蝶のエディシルだけでは自分の体を保てなくなる。
エディシルを得るためにアヌヴィムとキスしたり、他の魔神族とエディシルを食べ合うようになってしまう……。
ごく自然に、普通に、何の抵抗もなく、そういうことが出来るように、きっとなっていってしまう……。
本当に魔神族になっちゃうんだ……。
カーラジルトは、自分の唇を七都の唇に合わせようとしたが、その間際に、ぴたりと止めた。
そして、七都の顔を見つめる。
<ねえ、カーラジルト。もう人間を襲うのはやめて……>
<なぜ、突然そんなことを?>
<無茶なことをあなたに頼んでいるんだってことは、わかってる。でも、もう私には耐えられないの……>
<ミウゼリルさま。それは、あなたが人間を愛したからなのですか……?>
それは、彼がある女性と最後に交わした会話。
その時の彼女と同じ表情、同じ顔が、彼を見上げていた。
「そういう顔をされると、何だか、とても罪深く悪いことをしている気分になる」
カーラジルトが呟いた。
「何なんだ、きみの尋常じゃないその緊張感は。おまけに、これは涙か?」
彼は、七都の目の縁を指で触れる。
あ。しまった。
また涙が出てしまった。そんなつもりなかったのに……。
彼の指先が青白い照明を受けて、きらっと光った。
涙が固体になっていない。
ガラス玉のように丸く固かった涙が、液体に変わろうとしている。
「きみは、本当は私を拒否したいのに、無理して我慢している。そういうことか」
彼は、立ち上がった。
「これだから、人間との混血は、やっかいなんだ」
「あなただって、グリアモスとの混血でしょ」
七都は、言い返す。
「そうだ。だから、ややこしい気持ちは、多少はわからないでもない」
カーラジルトは棚の前に立ち、棚の全体をざっと一通り眺めた。それから箱を一つ引き抜く。
彼は箱の中を引っ掻き回し、目的のものを探し当てると、七都に向かってそれを放り投げた。
七都は、それを受け止める。
小さなガラスの瓶だった。中には、薄紫の透明なビーズのようなものが入っていた。
振ってみると、中で澄んだ心地よい音をたてる。
「さ、それを飲んで。一粒」
カーラジルトが言った。
「これは、なに?」
「血止めだ。それを飲むと血が止まる。魔の領域に入っても、血は流れない」
「ありがとう。そういう薬があるんだね」
七都は瓶の蓋を開け、手のひらに一粒出してみた。
飲むにはもったいないくらいの、きれいな薬だった。七都は、それを口に入れる。
途端にそれは、綿菓子のように溶けてしまった。どんな味なのか、確かめる暇もなかった。
「一日に一粒飲むこと。飲むのを忘れると、血はまた流れ出す」
「わかった。気をつける。ここから風の都まで何日ぐらいかかるの?」
「きみの今の体なら、そうだな。道草などしなければ、五日もあれば、十分着くだろう」
「五日……。この薬は十個以上残ってるから、余裕だね。よかった」
カーラジルトは、箱を棚に戻した。
どうやらそれは薬箱らしかった。他にもいろんな色や形の小瓶がたくさん入っているのが、ちらりと見えた。
「あとで、その血の付いた布も取り替えればいい。この箱に包帯も入っているから。そうすれば、もうグリアモスたちも寄ってはこないだろう」
カーラジルトが言う。
「うん。そうする……」
「怪我は、風の城に着いたら、リュシフィンさまに治してもらえばいいよ。きっときみがいやでない方法で、治してくれるだろう」
「うん……」
「では、日が沈むまで、寝るとしようか。日が沈んだら、きみと会った場所まで送っていく」
「ありがとう、カーラジルト。助かります」
よかった。
カーラジルトは、セレウスやシャルディンのように、風の都までついて行く、なんて言わないんだ。
七都は、ほっとしたが、同時にちょっと寂しさも感じた。
七都は、額からアヌヴィムの銀の輪をはずした。そして、メーベルルの剣も腰からはずし、胸当てと一緒にひとかたまりにして、部屋の隅に置いた。
それから体にマントを巻きつけて、横になる。石の床は硬く、冷たかった。
ふと顔を上げると、カーラジルトが真上にいた。間近から七都を覗き込んでいる。
また、近すぎるっ!
七都は、飛び起きた。
「だから、これは何の体勢!?」
七都は、くわっと口を開けて、至近距離にいるカーラジルトを睨んだ。
「何の体勢って? 一緒に抱き合って寝ようとしている、その体勢だが?」
「はあぁぁっ!!!???」




