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第2話 薔薇の城の少女 9

 足の下に、一部の隙もなく並べられた広い石畳が現れる。

 七都は、両足でしっかりと、その固い地面を踏みしめた。

 ここは――。あの魔神族の処刑場だ。

 月の光に照らされて、石の椅子が無機的に、だが、どこか不気味に並んでいる。

 空はまだ闇に染まった濃い青だったが、ゆっくりと近づいてくる朝の気配が混じっていた。


 イデュアルは七都に回していた手を離し、メーベルルの剣を七都の腰の鞘に戻した。

 それから彼女は、その処刑場を眺める。


「遠回りをしてしまったけど、ここがやっぱり、私の終焉の場所になるのよ」


 イデュアルが呟いた。

 彼女は、ランジェを振り返る。

 彼もまた、イデュアルと出会ったその場所を無言で見つめていた。


「あなたは、私に何を求めたの? 私はあなたに、それをあげられたのかしら?」


 イデュアルが、彼に訊ねる。

 ランジェは、微笑みを浮かべた。


「私は、あなたと暮らして、とても楽しかった。あんなにうきうきと楽しく充実していたのは、子供の頃以来かもしれない。あなたと出会えたこと、あなたをここから連れ帰ったことを後悔はしていません」


 ランジェが答える。

 七都は、冷たい手を握りしめた。

 でもそれは、たくさんの人の命を犠牲にした上での楽しみだ。

 充実していたなんて、冗談じゃない!

 後悔していないって、あなたは、あなたと同族の人間をさらって、残酷な方法で死なせたことも、後悔していないの? 反省とか、全然していないんだ?

 ランジェは、七都の怒りのこもった視線に気づいて、七都を見つめ返した。


「こんなことを言うと、あなたには叱られるかもしれないかな。あなたは私を諌めようとしましたね。魔神族の方なのに?」

「その子は人間の血が混じっているからね。立場が複雑なの」


 イデュアルが言う。


「あなたが彼女をさらった時から、私たちの生活は破綻し始めていたんだわ。でも、あなたも、そして私も、それをどこかで期待していたのだと思うけど」


 イデュアルは、ランジェに向かって両手を広げた。まるで、母親が子供に向かってそうするかのように。


「ランジェ。もうすぐ夜が明ける。私たちも、終わりにしましょう。夜の闇と一緒に、ここから消えてしまうの。私を抱きしめて、ランジェ。そして、口づけして。それであなたのすべてが終わるわ。あなたの苦しみも悲しみも、楽しみも喜びも。あなたの記憶も、未来も、全部なくなる。そして、私もすぐ、あなたのそばに行くわ」


 ランジェは、一瞬ためらった。

 だが、イデュアルにゆっくりと歩み寄り、震える手で彼女を強く抱きしめる。


「イデュアル。イデュアル……。私はずっと憧れていたのですよ。あなたを抱きしめることを。あなたに口づけすることを。この時をどんなに待ち焦がれていたことか」


 イデュアルを抱きしめて、口づけをすること。

 それは、つまり、死を意味する。

 この人は、それに思い焦がれていたのだろうか。この人なりに死を覚悟し、待ち望んでいたのだろうか。


 七都は、抱き合う若く美しい男女を黙って眺めた。

 しばらくの抱擁の後、ランジェは、イデュアルの唇に自分の唇を重ねた。

 それは、見かけには甘くせつない恋人同士の口づけ。けれどもそれは、その片方に死を与える、恐ろしい最後の口づけでもあった。


 ランジェは、イデュアルの足元にゆっくりと倒れ込んだ。

 七都は、その姿から顔をそむける。

 それまでの彼の容姿とは想像もつかないような、無残な死体がそこに横たわっていた。

 唯一金色の髪だけが、以前と同じように月の光に輝いている。

 それは、石畳の上で動かなくなった彼の体を覆って、静かに風に吹かれていた。


「きっと彼には、こうなることがわかっていたのでしょうね。ここで処刑されるのを待っていた私を助けた時から」


 イデュアルが呟いた。


「人間と魔神族との恋は、結局悲しい結末で終わってしまうのよ」


 そして、彼女は、七都を見つめる。


「あなたのお父さまとお母さまは、うまくいってるの?」


 七都は、首を振った。

 『うまくいっている』などと、答えられるはずもなかった。

 本人たちの気持ちはどうであれ、現実には、母は行方不明だし、父は別の女性と結婚しているのだ。


「そう……。お気の毒だわ」


 イデュアルは、石の椅子の一つに近づいた。彼女は、そこに据え付けられた鎖を手に取る。


「ここに私は縛られていたの。そして、またここに戻ってきたんだわ」


 イデュアルは、いきなり七都の手首をおそろしい力でつかんだ。

 そして、鎖の先に留められた手枷を、七都の片方の手にガチャリとはめる。

 冷たく重い金属の枷が七都の力を奪い、七都は石の椅子の前に膝をついた。


「イデュアル!? 何するの!!」

「だって、あなたに逃げられたら、とても困るもの。それか、私を逃がそうとするってことも考えられるしね。これから、あなたには、とても嫌な体験をしてもらわなきゃならない」


 イデュアルは、もう片方の手枷を自分の手首にはめた。


「あなたには、本当に申し訳ないと思うけど。あの城で私に会ってしまったのが運命だとあきらめて。私の最後を見届けてもらうわ。それがあなたの役目よ」


 イデュアルは、石の椅子に座った。頭を上げ、王女のように威厳を持って。


「イデュアル。あなたはここで……?」

「そうよ。太陽が私を消してくれるわ。跡形もなく。もともとそれが私の定めだったんだもの。ちょっと遅くなっただけ。あなたは溶けないんだから、私のそばにいて。私が消えるまで。私が消えてしまったら、あなたは旅をまた続ければいい。風の都への旅をね」


 七都は、前方の空を眺めた。

 山々の向こうが、真珠色に変化している。夜明けが近い。

 魔神族の体を滅ぼす太陽が、もうすぐ昇ってくる。

 七都は、メーベルルが消えたときのことを思い出す。

 そして、ナイジェルの片腕がなくなったときのことを――。


「イデュアル……。わたしに、あなたが太陽の光で溶けて行くのを見届けろと?」

「そうね。あなたは、メーベルルさまの最後も見届けたのよね。二度とごめんだって気持ちは、よくわかるわ。でも、そうして。見るのがいやなら、目を閉じててもいい。そばにいてくれるだけでいいの」


 イデュアルは、七都の腕をつかむ。


「だって、こわいんだもの。私は、たくさんの魔神族や人間を死なせてきたけど、やっぱり、自分が死ぬのはこわいわ。とても勝手な言い草ね」

「イデュアル……」


 イデュアルは、七都にしがみついた。


「こわいの。とてもこわい……。魔神族は、人間よりもはるかに長生きするのよ。なのに、なぜ私は、こんなに早く死ななきゃならないの? ひどいわ。まだ生まれてからそんなにたっていないのに。まだやりたいこと、やらなきゃならないことがいっぱいあったのに。なぜ……。なぜ、私なの?」

「イデュアル……」

「ごめんなさい。あなたに言っても仕方のないことよね。もう覚悟は出来てるの。でも、言わずにはいられなかったの。聞いてほしかったの。最後までそばにいて、ナナト……」


 七都は、イデュアルの頭をやさしく撫でた。


「わかったよ、イデュアル。あなたのそばにいる。目は閉じない。ずっとあなたを見ていてあげる」

「ありがとう、ナナト。つらい役目をさせちゃうね」


 山々の背後の真珠色が広がり、空全体が薄い色調を帯びてくる。

 石畳の広間は薄墨から灰色に変わり、空気も透明になっていく。

 七都とイデュアルは、石の椅子に並んで座り、変化していく空の色を眺めた。


「これ、あなたにあげる」


 イデュアルは、自分の指輪を抜いて、七都の左手の人差し指にそれをはめた。


「これは……?」


 竜のような生き物があしらわれた、銀の指輪だった。竜は両手で、赤い宝石を抱えている。


「それは、ずうっと昔、私の先祖が魔王さまからいただいたもの。父上が私にくれたの。私が家族を消してしまう前の晩にね。きっと、何か不安を感じていたのでしょうね。でも、私には役に立たなかった。全然ね。あなたには効くかもね。私の一族は誰も残っていないから、それを付ける人は、もういないの。だから、あなたが持っていて。あなたに最後の我がままをきいてもらうお礼だから」

「じゃあ、ありがたく、いただいておく……」


 その指輪は、違和感なく、七都の指に納まっていた。そこが新しい安住の場所だと定めたように。

 イデュアルは、明るくなっていく景色を眺めた。溜め息をついて。


「こんな時間に外の風景を見るなんて、初めてだわ。最初で最後だけど。朝の風景も、結構いいものね」


 イデュアルは、七都の頬を両手ではさんだ。

 そして、金色の目で七都の顔を覗き込む。


「あなたはエルフルドさまには勝てないって、言ったけど……。取り消すわ。あなたはきっと、これから、もっともっときれいになる。あなたはまだずっと成長するのだもの。あなたは気づいていないかもしれないけど、夜の闇が去っても、あなたはきれいよ。太陽の下でも、きっとあなたは光り輝いてる……」

「イデュアル。それは、ちょっと、褒めすぎ……」

「褒めすぎなんかじゃない。ナナト。美しく着飾って、魔王さまたちと踊ってね。きっと上手に踊れるわ。私があれだけ教えたんだもの」

「そんな簡単に踊ってくれないよ。シルヴェリスさまやリュシフィンさまなら踊ってくれるかもしれないけど」

「ううん。他の魔王さまたちも、踊ってくれるよ。あなたが頼んだら、断れないと思う。エルフルドさまと踊るのは、少し難しいかもしれないけどね」

「難しい? なぜ?」


 イデュアルは、くすっと笑った。


「あの方に会えば、わかるわ」


 イデュアルは、七都にもたれかかる。


「私を強く抱いて、ナナト。もうすぐ、日が昇る……」


 七都は、イデュアルを抱きしめた。


「ナナト。私が見たくて見られなかったものを、あなたはたくさん見るのよ。私が聞けなかったものも、あなたはたくさん聞くの。私が行けなかった未来に、あなたは行って。私たちの今の歳を通り越して、あなたは生きていくの……」

「イデュアル……」


 七都は、イデュアルの肩のはるか向こうに、太陽の光の最初のきらめきを見た。

 イデュアルは、夢見るように目を閉じる。


「エルフルドさまと手を繋いで、太陽の光の中に立つあなたが見えるわ、ナナト。二人とも、とてもきれい……」

「イデュアル。それ、どういう意味……?」

「メーベルルさまはね。風の都に入ることを許された、とても貴重な方だったの。だから、風の都のことも、ある程度はご存知だった。あの方は、ずっとあなたを探しておられたのかもしれない」

「なぜメーベルルは、わたしを探していたの?」


 イデュアルは微笑んだ。苦しそうに。


「暑いわ……。背中から串刺しされるみたい」


 太陽が輝きながら、山々の向こうから上がってくる。

 もう、それは、何者も止めることは出来ない。

 七都は、さらに強く、イデュアルを抱きしめる。


「こわい。太陽に焼かれて死ぬなんて……。こわいよ……」


 イデュアルが呟く。

 彼女は、震えていた。


「イデュアル。ごめんね。わたしは、エルフルドさまのように、あなたの気持ちを楽には出来ない……」


 七都の目から、透明な石がこぼれる。

 イデュアルは、それを手のひらで受け止めた。


「……ナナト。泣いちゃだめでしょ。少ないエディシルが、もっと減ってしまうよ」


 イデュアルは、七都の涙の石を飲み込む。


「あまりおいしくないね……」


 彼女の笑顔を見て、再び七都の目から涙がこぼれそうになる。

 イデュアルは、七都の目の縁から涙を舐め取った。


「もう泣かないでよ。でないと、私が消えたあと、あなたは自分の涙を探しまくって、全部拾わなくちゃならないよ。このへん、魔神狩人が多いんだから。そんなもの、落としたままにしておけないよ」

「うん……」

「でも、魔神族が泣くところなんて、初めて見たわ」

「うん。みんな、そういう反応をする……」


 イデュアルは、微笑む。


「ありがとう。私のために泣いてくれて。もう、そのことだけで、私はとても気持ちが落ち着いたよ。私は、あなたに会えてよかった。あなたと踊れて嬉しかったよ。私のことを忘れないで、ナナト」

「忘れないよ、イデュアル……」


 イデュアルは、金色の目を大きく開けて、七都の顔を見上げた。そして、いとおしげに七都の頬を撫でる。


「行くわ、ナナト。ランジェが待ってる」


 それから彼女は、低い声で、ささやくように言った。


「私の短い生涯の終わりに、この目に焼き付けたのは、あなたのお顔です……。ナナト。最後の……さま……」

「え? 今、何て言ったの、イデュアル……?」


 イデュアルの目が、悲しげに揺らめく。

 七都がイデュアルを見たのは、それが最後だった。

 金色の目は、赤い炎の中に飲み込まれた。炎はイデュアルの全身を包み、瞬時に黒い塵の固まりとなる。

 塵は、七都の腕の中で、砕け散った。


「イデュアル―――!!!!」


 イデュアルの片手にはめられていた手枷が、鋭い音をたてて、石の椅子に落ちる。

 七都は、空っぽになった腕の中を呆然として、見下ろした。

 七都の両手を朝の光が真っ直ぐに照らしていた。

 地上をあまねく照らし、生物を慈しむその光。だが、魔神族には、生きることを許さない光……。


「あ……。あ……。イデュアル……。イデュアル……」


(泣いちゃだめよ)


 イデュアルの声が頭のどこかに響いた。


「うん……。泣かないよ、イデュアル……。泣かない」


 涙がこぼれないように、七都は空を仰ぐ。


(イデュアル。あなたは、とても立派だと思うよ。もしわたしがあなただったら、自分の最後をそんなふうに終わらせられない。魔神狩人に追い詰められて、無様な最後を迎えるしかないと思う。あなたは、すごいよ……)


 七都は、太陽の光の中に突き入れるように手を伸ばし、指を広げる。


(イデュアル……。わたしは、あなたが見られなかったものを見る。あなたが聞けなかったものを聞く。そして、あなたが行けなかった未来に行きます……)


 昇りつつある太陽が、七都の顔を容赦なく照らす。

 七都はフードを深く下ろし、冷たい石の椅子にもたれかかった。

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