第2話 薔薇の城の少女 7
「イデュアル……」
彼女は、闇色の目で、真っ直ぐに七都を見つめている。
ああ、そうだ。わたしもこの目になって、セージを襲おうとした。
だけど……だけど、わたしには意識があった。
どこかでセージを襲っている自分を眺めていた。
自分がやろうとしていることをわかっていた。
ユードに邪魔されて元に戻ったときも、全部覚えていた。
でも、イデュアルは、完全に自分を見失っている。
今はもう、意識のない魔物だ。自分の欲望と本能だけで動く、魔神族にとってさえも恐ろしい魔物。
彼女はこの状態で、何人もの魔神族や人間を殺した。
そして、目が覚めたとき、彼女は何も覚えていない……。
七都は、じりじりと後ずさった。
イデュアルは、七都の動きをその暗黒の目で、静かに追う。
「イデュアル! 正気に戻って! イデュアル!!」
七都は叫んだが、イデュアルは七都に向かって手を伸ばし、ゆっくりと近づいてくる。
彼女の家族も、きっと彼女に呼びかけただろう。何度も何度も。必死になって。
だが、彼女は正気に戻らなかった。
そして、みんな、彼女にエディシルを取り尽くされて消えてしまい、後には何も残らなかった。
「イデュアル!!」
七都の声が大広間に、むなしいくらいにか細く響いた。
魔力を自在に使える大人の魔神族複数が、彼女に抗えなかったのだ。
自分ひとりで、彼女に何が出来る?
逃げおおせるかどうかさえ、不明だ。
七都は、天井近くの空間に瞬間移動した。
だが、すぐにイデュアルが、七都のすぐ横に姿を現す。
紫の髪が、そこが水の中であるかのように、ゆらゆらと広がった。
七都は、大広間の隣の部屋に移動した。
イデュアルも、ぴったりと七都についてくる。
さらに、次の部屋へ。
イデュアルは、やはり七都のそばに、張り付くように現れた。
「きゃああああっ!!」
突然、床から悲鳴が上がった。
召使いの若い娘が、凍りついたように、突然宙に出現した七都とイデュアルを見上げていた。
「何でここにいるの!? 逃げて! 早く!!!」
七都は、叫ぶ。
娘は扉に向かってよろけながら走ったが、イデュアルは無慈悲にも、その扉の真ん前に降り立った。
「イデュアル! いけない!!」
娘の目が、恐怖で見開かれる。
イデュアルが娘に向かって手を伸ばし、その口をふさいだ。
娘は事切れて、その場にくず折れる。
その遺体は一瞬にして、数百年の歳を取ったかのようだった。
「イデュアル、なんてことを……」
七都は宙に浮かんだまま、呆然としてイデュアルを見下ろす。
その顔には、うっすらと微笑みが浮かんでいた。
イデュアルが、床から消える。
次の瞬間、彼女は七都の隣に浮かんでいた。
広げた両手が、七都に向かって伸ばされる。
七都は、その手が触れる直前に、彼女の前から姿を消した。
廊下の窓のそばに、七都は飛んだ。
窓から城の外へ、瞬間移動出来ないだろうか。黄色い薔薇を通り越して。
けれども、七都が窓ガラスに手を置くと、黄色の花がわさわさとガラスの向こうで動き始めた。
その動きは、さっき七都に絡みついたときよりも、素早く滑らかだった。
(魔力が強くなってる……)
それでも、七都は試してみた。
窓の外へ!!
体は、動かない。飛ばない。
明らかに邪魔されていた。
網のように城を覆った黄色の花が、七都の魔力を封じ込んでいる。
(出られない……)
イデュアルが幽霊のように、七都の数メートル先くらいの場所に現れた。
渦巻く紫の長い髪に、暗黒の目。無表情なのにあどけなく、妖しいくらいに美しい少女。
イデュアルは、悪魔が動かしている禍々しい人形のように見えた。
七都は再び瞬間移動して、彼女の前から逃げた。
だが、移動する先に、必ず彼女は現れる。
次第にそのスピードが速くなる。
(読まれてる。飛ぶ場所を)
何回目かに移動し終わったとき、七都は、いきなり冷たい手につかまれた。
イデュアルが、待ち伏せするようにそこにいたのだ。
七都は、暗黒の目の彼女と至近距離で向かい合うことになってしまった。
イデュアルは、七都の頭をしっかりと両手で固定する。
そのやわらかい白い手には、抗うことなどできぬ、恐ろしいくらいに強い力がこめられていた。
魔力も使えない。彼女に封じられている。
それも無意識でやっているのか。
「イデュアル!! 戻って! イデュアル!!」
何度呼びかけても、無駄なこと。
彼女が正気に戻るのは、もっとずっと後なのだ。
今度目覚めたとき、彼女は、七都がいなくなったということでのみ、自分が無意識にやってしまった同族殺しを知るだろう。
そうして七都がいなくなってからも、彼女は、ランジェがさらって来たかわいそうな旅人たちを食べ続ける――。
イデュアルの顔が近づいてくる。
血が塗られたかのように、赤い唇。その唇が、七都の唇に触れようとしている。
それが触れたら、もしかしたら自分は、一瞬で消えてしまうかもしれない。
七都は、迫り来る死を意識する。
いやだ。まだ死なない。死にたくない……!
七都は、右手を腰に伸ばす。エヴァンレットの剣の柄が、指に触れた。
けれども七都は、それを抜くことを躊躇して、思わず柄から手を離す。
これは、たぶん使ってはならないものだ。
魔神族が魔神族に対して使うのは、許されないような気がする。
なぜ風の魔神族がこれを作ったのかはわからないが。
だが、使わなければ、自分が死ぬ。
冷たい唇が、七都に触れた。
ナイジェルやユード、シャルディンとは違う、女の子のふっくらとした、やわらかい唇。
それは、抗しがたい誘惑だった。
このままずっと、口づけされていたい……。
そんな懇願さえしたくなりそうな、ぞっとするような快感。
流されて浸ってしまうと、完全に取り込まれてしまう。
イデュアルの親族が、全員彼女に殺されてしまったのは、たぶん、そんなはずはないという、一瞬の躊躇。すぐに正気を取り戻すかもしれないという、むなしい期待。自分たちは彼女より年上で、魔力も彼女よりも使えるという慢心。
そして最後は、この恐ろしい誘惑。
そういうたくさんのものに抵抗出来なかったのだろう。
イデュアルは、七都の頭を両手でしっかりと抱きしめ、さらに強く唇を押し付ける。
ずきり、と胸の傷が疼いた。
七都は、はっと我に返る。
危険。これ以上、エディシルを失うと、危険――。
警告にも似たその痛みは、今回は、七都にとってはありがたかった。
イデュアルの誘惑よりも、強力だ。
七都は、再び右手を伸ばす。
エヴァンレットの剣ではなく、その隣に差してあったメーベルルの剣を七都は抜いた。そしてイデュアルの脇腹に、その切っ先を押し込む。彼女が、傷つけられるショックで正気を取り戻すことを願いながら。
イデュアルの体に剣を突き刺すのは、いやな感触だった。
たとえ彼女が苦痛を感じなくても、たとえその傷口からは、血が流れ出なくても。
剣を使って、誰かを初めて傷つけてしまった。その事実が、七都の指をこわばらせる。
七都は、イデュアルの脇腹に刺さった剣から手を離した。
イデュアルは、機械仕掛けの人形が突然静止したかのように、七都への口づけをやめた。
無表情な暗黒の目を見開いたまま、一歩下がり、自分に突き刺さった剣の柄を握りしめる。
彼女は、それを事もなげに、自分の脇腹から抜き去った。まるで、体のどこかにくっついた埃を取るように、簡単に。
メーベルルの剣が、乾いた音をたてて、床に転がる。
イデュアルは、何事もなかったかのように、再び七都に向き直った。
やはり、エヴァンレットの剣でないとだめなのか?
七都は、一瞬ためらった後、仕方なく、旅人の少年が残したという、その短剣を抜いた。
オレンジ色の光が、イデュアルに反応して、まばゆく輝く。
前に、ユードに持たされたエヴァンレットの剣。それとよく似ている。同じ魔神族が作ったものかもしれない。
次第にその柄が、熱を帯びてくる。
イデュアルは、動きを止めた。
無意識でも、エヴァンレットの剣は苦手らしい。
七都が剣を正面にかざすと、彼女は、さらに後ろに下がる。
けれども、しばらく対峙しているうちに、イデュアルは、七都がその剣を使うのを躊躇していることを見抜いたようだった。
微笑を浮かべて、七都に手を伸ばしてくる。
七都は、イデュアルが自分を捕える前に、彼女の手首をつかんだ。そして彼女の手のひらに、剣の先を這わせる。
イデュアルの手のひらに、ぱっくりと割れた、細い傷が出来た。その中は、七都の胸の傷と同じように、暗黒の空間だった。
イデュアルが、悲鳴をあげる。
七都を凝視するその目は、金色。元の彼女の目の色だった。
「イデュアル!! 正気に戻ったんだね!?」
七都が叫ぶと、イデュアルは、不服そうに眉を寄せた。
「なぜ、その剣で終わらせてくれなかったの、ナナト? なぜ私を呼び戻したの?」
「わたしは、あなたを殺せない。この剣は使えないよ。たとえあなたが死刑の決まった罪人でも」
七都の握りしめたエヴァンレットの剣に、無数のひびが入る。
オレンジ色の光は失われ、金色の回路を内臓した、透明な剣身が現れた。
それは次の瞬間、破片となって、砕けた星のように飛び散る。
七都は、柄だけになった剣を投げ捨てた。
「やっぱり、本当だったのね。風の魔神族だけが、エヴァンレットの剣を破壊できる……」
イデュアルが呟く。
「あなたは、つまり、病気なんでしょう。家族を殺してしまったのだって、あなたの意思じゃない」
「ナナト。あなたのその甘さが、いつかあなたを破滅に導くよ」
イデュアルが、静かに言った。
「わたしは、あなたを殺さなきゃいけないの? それが、ここであなたに会ってしまったわたしの役目になるの? もしそういう決まりごとが魔神族にあるなら、わたしも覚悟を決めなければならないのかな」
イデュアルは、じっと七都を見つめた。
「確かに。あなたにそういう責任はないわね。そんな役割を負わなきゃならない義務もない。あなたは地の魔神族じゃないしね」
イデュアルは、あきらめたように微笑む。
「ごめんなさい。私、あなたに甘えていたわ。自分の意識がないうちに、あなたに全部終わらせてもらって楽をしようなんて、間違っているよね。私も地の魔貴族。代々、魔王さまの側近の公爵の家系。その誇りを持たないと」
床に落ちていたメーベルルの剣がふわりと浮き上がり、イデュアルの手の中に飛び込んでくる。
「いい剣ね。腕のいい魔神族が作った剣だわ」
「それは、闇の魔貴族のメーベルルのもの」
「メーベルルさまの? あの方は、わたしたちの憧れの的だけど。あなたがなぜこれを?」
イデュアルが、剣から七都に視線を移す。
「彼女は、もういない。魔神狩人にエヴァンレットの剣で斬りつけられて、それから太陽に焼かれて、消えてしまった。わたしの目の前で。だから、わたしがその剣をもらったの」
「……そう。そうなんだ」
イデュアルは、うつむいた。そして、黙り込んだまま、剣を七都に返す。
「メーベルルは、わたしを風の城に連れて行こうとしたの。リュシフィンさまのところに。でも、出来なかったから、わたしは自分で風の城に行く」
「風の城……か。ふうん。メーベルルさまが、あなたをね」
イデュアルは、七都の額をそっと撫でた。
「なんとなく、だけど。あなたが何者なのか、わかったような気がする」
「え?」
その時、イデュアルは、はっとして顔をこわばらせた。そして、窓の外に目をやり、耳をそばだてる。
「どうしたの?」
「私の終わりも、とうとう近くなったかもね」
イデュアルは呟いて、七都の腕をつかんだ。
二人の少女の姿は、闇に包まれたその部屋から、掻き消えた。




