第2話 薔薇の城の少女 2
馬に乗せられた七都は、取りあえず抵抗するのをやめた。
抗うと、自分を連れ去った若者の態度が乱暴になる。
口を塞ぐ手には、さらに力が入って息苦しくなるし、胴に回された腕にも、きつく締め付けられることになった。
この上、みぞおちに拳など入れられたりしたら、たまったものではない。
気絶したふりをしよう。余計な力を使わなくて済む。
体力は温存しておかなくてはならない。それでなくても、グリアモスの怪我のせいで体が思うように動かないのだから。
七都が目を閉じて体から力を抜くと、若者も七都の口から手を離し、七都の胴を必要以上に締め付けるのをやめた。
この人は、誰? なぜこんなことをするのだろう。
わたしを連れ去って、何か得になるようなことでもあるのか。
七都は、薄目を開けた。
馬のやわらかい鬣が、すぐそばにあった。手綱を握る若者の手も。
馬が駆ける地面が動く帯のように流れ去り、木々が背後に飛んで行く。
回された腕から、若者の体温が伝わってくる。普通の人間のようだ。
七都は、馬の揺れのせいで顔の向きが変わったように装って、若者をそっと見上げてみる。
きれいな横顔だ。その鳶色の目は、じっと遠くを見つめている。どことなく楽しげで、夢を見ているようでもあった。
口元には、こぼれそうになるのをこらえているかのような笑み。
毎日が満ち足りていて、愉快で仕方がない。そんな、はずむような雰囲気が溢れている。
だが、それは明らかに倒錯した快楽。見知らぬ旅人をさらっておいて、楽しいも何もない。
どうしよう。七都は、冷静に考える。
ここでこの人をぶん殴ってもいいけど。
それとも、魔力を少し使って、馬から降りようか。
でも、この走っている馬から、いきなり地面に降りるのは危険だ。無駄な力を使ってしまうことにもなる。
いずれ、この馬も目的地に着くだろうし。そうしたら、当然、この人はわたしを馬から下ろすだろう。
それまで、おとなしく待っていたほうがいい。しばらく様子を見よう。
七都は、気を失ったふりを続けることにする。
やがて、甘い香りが漂い始めた。それは次第に強くなっていく。
これは……薔薇の香り?
いや、似ているけれど、微妙に違う。薔薇のような芳しさには、ほど遠い。
甘いけれど、しつこく絡みつくような、どちらかというと不快な香り。
不安を覚えるくらいに妖しく、甘すぎる香りだった。
馬の前に、巨大な幽霊のように、城が現れた。
あの黄色い花で覆われた、灰色の城だ。
魔神族に魅入られているという領主が住む城――。
ますます、香りが強くなる。
では、これは、あの黄色い花の香りなのだ。それは、むせるくらいに濃密になっていく。
城の門が開き、若者と七都を乗せた黒い馬は、滑るように中に飛び込んだ。
城の玄関らしき場所に、慌てて集まったらしい人々が並んでいた。
同じくすんだ緑色の服をまとったその人々は、この城の召使いたちのようだった。
馬が到着すると、一斉に頭を下げて挨拶をする。
「おかえりなさいませ」
すると、自分をさらってきた若者は、この城に住む領主の一族なのだろうか。
もしかして、魔神族に魅入られているという、当の領主?
若者が七都を抱えあげようとしたので、七都は素早く目を閉じる。
七都の体は、再びふわりと浮いて、若者の腕にしっかりと支えられた。
お姫様だっこされてる……。
当然、そんなの、この人にされたくない。
七都は、思わず顔をしかめそうになるのを抑えこむ。
召使いたちが、七都を抱えた若者を見て、息を呑むのがわかる。
ぴんと張り詰めた空気。
その中に、恐怖が血管のように張られていく。
七都は薄く目を開けて、召使いたちを眺めた。
まただ……。
今度は誰を連れてきた?
旅の娘か?
また、旅の娘を……。
なんてこと……。
たくさんの仮面のような顔の内部には、そういう言葉が渦巻いているような気がした。
旅の女性たちが行方不明になっているというのは、この人の仕業なのだろうか。
その女性たちは、この城の中に監禁されているのか?
だとしたら、いったい何のために?
若者は七都を抱いたまま、歩き始めた。
空気が変わる。城の中に入ったようだ。
とんでもなく手間がかかっていそうな、天井や柱の装飾。
きらびやかではあったが、どことなく嘘っぽく、まがい物に見えてしまうのは、七都の偏見なのかもしれない。
あの薔薇に似た花の香りは、城の内部にも流れ込んでいた。酔ってしまうくらいに濃い。
扉が何度も開けられ、閉められた。鍵の音も、その度に短く響く。
逃げるのは、もう少し先にしよう。
もし、この城の中に女性たちが閉じ込められているのだとしたら、もちろん放っておけない。
この人は、当然、彼女たちのところに自分を連れていくに違いない。
彼女たちから話を聞いて、情報を得なければ。
最後の扉を開けるとき、若者は一瞬ためらった。だが、決心したように、静かにその扉を開ける。
そこは、それまでの城の空間に比べると、極端に暗かった。
青い光が七都の顔を照らす。七都がよく知っている光の色だった。
この光は……。
七都は、慌てて目を閉じた。若者が、七都をそっと下ろす。
七都の背中の下に、やわらかく平たい広がりがあった。
心地のよい平面。ベッドのようだ。
「ランジェ。また、女の子?」
誰かが言った。
かわいらしい少女の声。繊細な楽器が奏でる音色のようだった。
「もうお目覚めですか? まだ日は沈んでいないというのに」
「関係ないわ。ここは一日中、太陽の光なんて届かないもの」
「あなたの一族では、そういう方は貴重だと思いますよ。ところで、この娘、どうやらアヌヴィムの魔女のようですね。馬の上で気づきました」
若い男性の声。七都をここに連れてきた、あの金髪の若者の声に違いない。
少女にランジェと呼ばれた。それが彼の名前なのだろう。
「だが、普通の人間よりも、あなたの力になるでしょう?」
彼が言う。
「そうね……」
見つめられている……。
七都は、二人分の視線を感じた。不自然に見えないよう、気を失ったふりを続ける。
「きれいな子ね……」
溜め息まじりに、少女が呟いた。
「あなたには、かないませんよ」
ランジェが言う。
「イデュアル。あなたの美しさに勝る者など、この世に存在しません。月でさえ、あなたの美しさの前では、たちまち色褪せてしまうでしょう」
まったく、もう。歯の浮くような台詞を恥ずかしげもなく言ってる……。
あの人が言うと、まあまあ似合うけど。
七都は、細く目を開けた。
青い光の中で、少女の後ろ姿と、彼女の前にひざまずいているあの若者――ランジェが見える。
深い紫色の、艶のある長い髪。それがやわらかく波打って、少女の背中を覆っていた。
少女の雰囲気。その気配。人間ではない。
七都は、体を震わせる。
同じ気配だ。メーベルルやナイジェルやジュネスと同じ、懐かしい気配。
それはもちろん、七都自身が持っているものと同じでもあった。
それにこの青い光は、ゼフィーアの館のカトゥース畑や、遺跡の地下室の照明とよく似たもの。おそらく魔神族のために用意された明かりだ。
では、この女の子は魔神族……?
「では、私は、これで……」
ランジェは丁寧に頭を下げて、部屋から出て行った。
扉が閉められると、鍵をかける鈍い音がする。
「鍵をかけたって、意味ないのにね。本当はいつだって出て行けちゃうもの」
少女は呟いて、七都のほうにくるりと向き直る。
七都は、目を閉じた。
少女がベッドによりかかり、七都のそばにかがみこむ。
やわらかい息遣いが、とても近い距離から聞こえてくる。
少女が、再び七都をじっと見つめている。七都の眉を、睫毛を、唇を。
そろそろ気絶したふりをやめなければ。
しかし、こういう展開になるとは予想できなかった。
当然、行方不明になった人たちが現れると思ったのに。出てきたのは魔神族の少女。びっくりだ。
けれども、ランジェもいなくなったし、この女の子とゆっくり話が出来るだろう。
何者なのか。なぜこの城にいるのか。
ふわりと、あの薔薇に似た花の甘い香りがした。
七都の頬に冷たい花びらが触れる。
どうやら少女が、七都の頬の横あたりにあの黄色い花を置いたらしい。
ふわり。ふわり。
七都の髪の上に、手の上に、胸の上に、花が次々と置かれていく。
何をしている……?
すっと額が軽くなった。
少女が七都の額から、アヌヴィムの銀の輪をはずしたのだ。
少女は、「あ……」と小さく叫んだ。
しばしの沈黙。
そして彼女は、七都の額に恐る恐る手を触れる。
そこは、リュシフィンとシルヴェリスの口づけの印がある場所だった。
もちろん、魔神族である彼女には、それが見えているのだ。ジュネスと同じように。
七都は、ゆっくりと目を開けた。
薄青い光の中で、少女の顔が目の前にアップで固定されていた。
深い紫色の髪。白い顔。
目は、透明な丸い水晶の底に沈んだような金色だった。瞳は暗黒の色。
トパーズのような、黄色味を帯びた宝石の飾りを額や耳に飾っている。
ランジェが絶賛したとおりの美しい少女だ。
だが彼女は、見る者すべてが、ほぼ間違いなく彼女が魔神族であることを悟ってしまうような、妖しい雰囲気を持っている。
七都のように人間のふりをすることなど、毛頭出来ないだろう。
「ふうん。そういう色の目をしてるんだ」
少女が、七都をまじまじと覗き込んで呟いた。
「じゃあ、この黄色はあまり似合わないね。せっかく飾ってあげたけど。あなたには赤い花のほうが似合う。深みのある暗めの赤とかね。ほら」
少女が、七都の耳の横に花をくっつける。黄色い花は、瞬時に深紅に変わった。
だが、その花は、突然膨張して弾ける。
深紅の花びらが、はらはらと七都の髪の上に散らばった。
少女は、わずかに眉を寄せた。七都が、心の動きを素直に魔力に託して花を散らしたことが、面白くなかったようだ。
とはいえ、すぐに少女は気を取り直したように、七都を見下ろした。そして、七都の顔に自分の顔を近づける。
七都は、少女の脇を擦り抜けるように、慌てて起き上がった。
今、明らかにキスしようとした! しかも、唇に!
七都は少女から離れて、身構える。
少女は、不満そうに七都を睨んだ。
「ああら。挨拶もまともにさせてくれないの?」
「魔神族は、初めて会った人とそういう挨拶をするの? 私の知っている魔神族の人たちは、そんなことはしなかったよ」
そうだ。メーベルルだって、ナイジェルだって、ジュネスだって、そんな挨拶はしなかった。
「確かに、こういうことをするのは、ごく親しい限られた人たちに対してだけだけどね」
少女が言った。
「だって、嬉しかったんだもの。こんなところで同族に会えるなんてね。それも、同じくらいの年齢のきれいな女の子だし」
「あなたは、外見と中身が同じくらいなの?」
七都は、彼女に訊ねる。
「あなたもでしょ。だから、とても親しみを感じるのよね。私たちは、まだそんなに長い時間を生きていない。魔神族の女性としても、未熟だわ」
「あなたは、誰?」
「私の名は、イデュアル。あなたは?」
「……ナナト」
「どこの魔神族? 私は地の一族」
「わたしは、風の魔神族」
「風……!?」
イデュアルは、一瞬唖然としたが、すぐに微笑んだ。
「ナナト。あなたには、驚かされることばかりだわ」
「イデュアル。なぜあなたはここにいるの? この城で何をしてるの? あなたもあの男の人に連れて来られたの?」
七都がイデュアルに質問すると、イデュアルは金色の目で七都を興味深げに眺める。
「そうよ。連れて来られたの。一か月くらい前かしらね」
「あの人は誰?」
「彼は、ランジェ。この城の主」
「じゃあ、このあたりの領主さま……」
やはり、彼は領主だったのだ。あの若者が言っていた、魔神族に魅入られたという領主。
では、その魔神族というのは、このイデュアルのことなのだろうか。
「そうね。領主さまだわ。とんでもない領主さまだけどね。ねえ、ナナト。私のことを知りたければ、まず、あなたのことから話してもらうわ」
イデュアルが言った。




