第1話 紅目の魔法使い 13
ピアナの、涼やかなよい香りが漂う。
空は澄みきって、白い羽根のような雲が幾つも浮かんでいた。
穏やかな晴れた日の午後。
シャルディンは、抱えきれないくらいのピアナの花を摘み終わり、それを持って丘を下る。
もう少し歩くと家が見えてくるはずだ。
懐かしい我が家。まだあるのだろうか。
そして家族は、今でもそこに住んでいるのだろうか。
あの時――。ここで時間は止まってしまった。
黄色い猫の目の魔神族に出会ってしまった、この場所で。
シャルディンは、ふと立ち止まってあたりを見渡す。
今、彼らの姿はない。遠い遠い時間の果てに、過ぎ去ってしまった。
もう、誰も邪魔をするものはいない。
だから、続きを始めよう。もう遅いのかもしれないけれど。
背の高い草の間から、一人の少女が飛び出してきた。
シャルディンは、少女とぶつかりそうになる。
金色のやわらかい長い髪を少女はおさげにしていた。
薄い空色の目が、驚いてシャルディンを見上げる。
「リュディ!?」
シャルディンは思わず呟いたが、思い直した。
そんなはずはない。あれから五十年以上たっているのだ。この少女がリュディであるはずがない。
だが、彼女に……妹に生き写しだ。
「シャルディン?」
少女が、首をかしげて彼に訊ねる。
シャルディンは、ただ黙って彼女を見つめた。
私の名前を知っている……?
「あなた、シャルディンね?」
少女が、にっこりと笑った。
「きみは、リュディ? いや、そんなことがあるわけがない。だが、もしきみがリュディなら……」
「あなたがその花を渡さなきゃならないのは、私じゃないよ」
リュディに似た少女は、シャルディンの手を取った。小さな手が、しっかりと彼の手を握りしめる。
「行きましょう、シャルディン。こっちよ。おうちまでの道、覚えてる?」
「覚えてるよ……。きみは誰?」
「私は、マーシィ。シャルディン、本当に赤い目と銀の髪をしているのね。おばあさまの言うとおりだった。それに、とてもきれい」
「きみは……リュディの孫?」
「そうよ。私、おばあさまの子供の頃にそっくりだって言われるの」
マーシィはシャルディンの手を引いて、草の間の細い小道を進む。
やがて草が切れ、こじんまりとした館が現れた。
シャルディンが生まれ、少年の頃まで育った、懐かしい家。
時間の見えない積み重ねが館をくすませ、息の詰まるような重厚さが、彼の記憶よりもはるかに増していた。
けれども、館は十分に手入れされ、そこに住む人々の日々の息遣いが感じられるような、あたたかい雰囲気が全体に満ちていた。
シャルディンはマーシィと手をつないだまま、しばしそこに佇んだ。
テラスに誰かがいる。
椅子に腰掛け、うとうとと眠っている、一人の老婦人。
白くなったとはいえ、まだ豊かな量の髪。それを一本の三つ編みにして、背中に垂らしている。
肌は老いてくすんではいるものの、健康的な艶があった。
顔には、悲しみやつらさに耐えた分だけの皺が刻まれてはいたが、彼女は穏やかな表情をしていた。
「おばあさまだわ」
マーシィが言った。
シャルディンは、椅子で眠るリュディの前に立つ。
そして、やさしい目で彼女を見つめた。
リュディ……。
きみは、ずっと自分を責めていたのだろうね。
私が魔神族に連れて行かれたのは、自分のせいだと。自分がピアナをせがんだせいだと。
涙を枯らすことなく、いつも私の姿を探して、ピアナの花畑を見つめていたのだろうね。
少女の時期を過ぎて、娘になって、母になって、年老いても。
あの時から、ずっと、ずうっと……。
きみの時間も、止まったままなんだ。
リュディは、目を開けた。
少女のときと全く同じ薄い空色の目が、シャルディンを見上げる。
「シャルディン?」
シャルディンは微笑んで、リュディにピアナの花束を差し出した。
「リュディ。随分待たせてしまったけど。はい、約束のピアナの花だよ」
「シャルディン、遅い! どれだけ待たせたら気が済むの? ピアナの花なんて、もうどうでもよかったのに」
リュディは、シャルディンにしがみつく。
「ああ、これは、夢なのかしら。本当に……本当にシャルディンなの?」
シャルディンは、リュディを抱きしめた。
「夢じゃないよ、リュディ。ぼくは帰ってきたんだ」
「シャルディン。みんな、あなたを待っていたのよ。ずっと待ってたの……」
「わかってるよ……。ごめんね」
リュディは、顔をくしゃくしゃにした。少女の頃の彼女が、そこにいた。
「わたし……わたし、もうピアナの花は、見るのもいやになったの。あれから摘んだことはなかったわ。自分の結婚式のときだって、持たなかったの」
「うん。きみのことだから、そうなっちゃったんじゃないかなって、ずっと思ってたよ。本当にごめんね。これからは、好きなだけピアナの花を摘んであげるよ。ほら、きみの青い目に、よく映える」
シャルディンは、ピアナの花をリュディの三つ編みの髪に挿した。
リュディの目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。
彼女は、子供の頃によくそうしたように、両手で目を無理やりこすった。
「リュディ……。父さまと母さまは? それから、兄さまは?」
シャルディンは、少しためらいながら、妹に訊ねた。
「母さまは、元気。兄さまも。父さまは、もう長くないの。でも、よかった。間に合ったわ。会ってあげて」
リュディは、涙を拭いながら立ち上がる。
そして、マーシィに声をかけた。
「マーシィ。大おじさまをすぐに呼んできて。弟が帰って来たって」
「うん。大おじさま、飛んで来るわ、きっと」
マーシィは笑って、駆け出した。
リュディは、シャルディンを抱きかかえるようにして、寄り添った。
一瞬でも離すと、たちまち彼が消えてしまうのではないかと心配しているように。
シャルディンは、ピアナの花を抱えたリュディと並んで、家に入る。
五十年前、帰れなかった自分の家の中へ。
「シャルディン?」
「シャルディンなの?」
部屋の中から、懐かしい、けれども、彼が覚えているよりもはるかに年老いた声が聞こえた。
そして彼は扉を開け、彼の父と母が彼を抱きしめるために、大きく手を広げて待つその部屋の中へ、足を踏み入れる――。




