第1話 紅目の魔法使い 12
誰かが、そっと頬をなでる。やさしく、いとおしげに。
ああ。ここは、どこだろう。
そうだ。グリアモスに襲われて、カディナに背負われて……。
カディナが、ゼフィーアとセレウス姉弟の館に連れてきてくれたんだ。
頬に触れていく、熱すぎる体温。
じゃあ、これは。この体温は……。
「セレウス?」
七都は、目を開けた。
シャルディンが、そこにいた。
苺ジュースのような、きれいな目が七都をみつめている。
彼の輝くパールホワイトの髪の背後には、明るい昼間の空を切り取った窓があった。
「残念ながら、私はセレウスさんではありませんよ」
彼が穏やかに微笑む。
そうか。あれから随分いろいろあったんだ。
わたしがいるのは、あの町のあの館じゃない。
七都は、徐々に現在の状況を把握する。
「シャルディン?」
七都は手をのばして、シャルディンの顔に触ってみた。
「シャルディン。若くなってる……」
「あなたのおかげです」
シャルディンは頭を下げた。
「魔法使いに戻れたの? わたしのエディシルで?」
「はい。でも、あなたのお怪我は、ひどくなってしまいましたね」
「怪我が……?」
「まだ痛みますか?」
「痛みは全然ないけど……」
「それはよかったです。正直あせりました。魔神族が痛いなどと、泣き叫ぶなんて。きっと無理をしてはならないという、あなたご自身のお体からの警告なのでしょうね」
そこで七都は、ベッドに寝かされていることに気づいた。
あの宿の七都の部屋の中だ。
胸に新しい布が巻かれている。
「んん? え?」
げ。裸だ。
えーっ!!!!!!!!!!!!
えーっ! えーっ!! えーっっっ!!!!
「どうかされましたか?」
シャルディンが、心配そうに訊ねる。
「み、見たの、胸の傷。そ、それに……」
「そりゃあ、見ますよ。あなたは私のご主人ですからね」
シャルディンが、真面目な顔をして言う。
「おいたわしいです。恐ろしい傷あとだ」
「な、なんでわたしは、服着てないわけ?」
「ああ。先ほど、体を拭いてさしあげましたので」
「……!!」
ということは、隅々まで見られてるってことだよね……。
七都は、思わず毛布を目の下あたりまで引っ張りあげた。
「何か、お困りなことでも?」
シャルディンが、不思議そうに言う。
落ち着け。
彼は、アヌヴィム。そう、わたしのアヌヴィムなんだもの。
わたしの世話をしてくれてる。要するに、看護師さんと同じ。
あせることも、恥ずかしがることもない。
でもっ。
七都は、溜め息をついた。
ゼフィーアは同性だったから、何とか我慢もできて、そのうち恥ずかしさもなくなった。だが、彼は異性だ。抵抗がありすぎる。
体を拭かれたのは、眠っていたから仕方がないとしても、もし起きているときにそんなことを提案されたら、絶対に嫌だ。どんなに気を悪くされても、拒否するしかない。
こんなことでいちいち恥ずかしがっていたら、この先、相当困ることになる――。
あの時のゼフィーアの言葉は、こういうことも意味していたのか。
七都は、何度も溜め息をつく。
「あなたのご主人の中には、当然女性もいたわけよね?」
七都は、シャルディンに訊ねてみる。
「はい。いましたよ。でも、私は、彼女たちにはあまり好かれていなかったようです。最初は皆様おやさしいのですが、そのうち憎まれて、結局、強制的に別の主人のところに行かされることに」
「でも、その人たちの世話をしていたんだよね」
「はい。それが何か?」
「ううん、べつに」
やっぱり、彼にとっては普通のことなのだ。
アヌヴィムとして女主人の世話をすることは、ごく当たり前のこと。
恥ずかしがることはないのかもしれない。
ゼフィーアのときと一緒だ。
だけど。シャルディン、わたしを見て、本当に何とも思わなかったのかな。
ゼフィーアみたいに、ただ淡々と拭いてくれただけ? 優秀な看護士さんとして?
「わたし、どれくらい眠ってた?」
七都は、彼に訊ねた。
「三日ぐらいですね」
「三日? 一泊だけの予定だったのに……」
「仕方がありませんよ。怪我をしている上に、たくさんのエディシルを失ったのですから。しっかりお眠りにならないといけません。蝶は、ひっきりなしに窓から飛んできました。群れになって。でも、その度に、群れごとなくなってしまいましたけどね」
「つまり、わたしが食べちゃったわけね」
「そうですね。あなたに触れることもなく、この部屋に入った途端、片っ端から消えました。なんというか、豪快で驚愕するような、でも、幻想的な光景でした」
「そう……」
眠ったまま無意識で、蝶を群れごと、か。我ながら、ぞっとする。
「でも、三日って。シャルディン、あなたを三日も足止めしてしまった。あなたは、家族のところにすぐに帰らないといけない」
「いえ。私は、あなたのアヌヴィムの魔法使いです、ナナトさま。あなたからいただいた魔法の力がこの体の中にある限り、あなたに忠誠を……」
シャルディンはベッドの横にひざまずき、手を胸に置いて丁寧に頭を下げる。
「あなたが風の都に行かれるなら、私はあなたに付き従い、あなたを守りましょう」
ああ。それはきっと、セレウスがわたしに言いたかった言葉だ。
七都は、シャルディンとは対照的な、緑色をしたセレウスの目を思い浮かべた。
「あなたを風の都に無事に送り届けたら、そのあと、私は家族のもとに帰ります」
「それじゃ、遅すぎるよ、シャルディン」
七都は、彼の肩に手を置いた。
「この三日の間だって、あなたの家族の誰かに、何かあったかもしれない。風の都なんて、いつたどりつけるかわかったもんじゃないよ。今すぐに帰って。わたしのことなんか構わずに」
「しかし……。私があなたのアヌヴィムである以上、私には、あなたを守る義務があります」
「わたしに関しては、そんな義務なんかないよ。あなたは自由だ。どこにでも、あなたが行きたいところに行っていい。そしてそのまま、わたしのところになんか戻って来なくてもいいから」
「ですが……」
「だってあなたは、ジュネスをほっぽらかして、逃げたわけじゃない。家族のところに帰るためとはいえ」
「ジュネスさまには、たくさんアヌヴィムがいます。でも、あなたには私しかいないでしょう?」
「だいじょうぶだってば。それにね。アヌヴィムの魔法使いがわたしに同行したがったのを、わたしは断ってしまったの。だから、わたしは、同じアヌヴィムの魔法使いであるあなたを連れて行けない。彼に対する裏切りになってしまう」
「それは、セレウスとかいう方ですか? さっき、あなたが呼びかけられた……」
シャルディンが訊ねる。七都は頷いた。
「その方は、あなたのアヌヴィム?」
「ううん。彼に魔法の能力をあげたのは、わたしのお母さんみたい」
「あなたの母上が……」
「でも、随分前のことだから、セレウスの魔法の能力は、もうすぐなくなってしまうらしいけど」
「あなたの母上は、風の都に?」
「行方不明。でも、魔の領域のどこかにいるのかもしれない」
「母上がそういう状態ならば、ではあなたは、そのセレウスさんをあなたのアヌヴィムにしてあげるべきなのでは?」
シャルディンが言った。
「わたしのアヌヴィムに?」
セレウスに、面と向かってそんなことを言われたことはなかったが、当然、彼はそう思っているに違いなかった。
もし彼が、自分がもうすぐ魔法使いでなくなることを知っているとするならば、なおさらのこと……。
「そうだね。わたしが風の都に到着して、素性がわかって、もっと魔力が使えるようになったら、考えなければならないのかもしれない……」
でも。
七都は、ふと思う。
セレウスに、主人として、こまごまと世話をされるのは、いやかも……。
だって、彼がわたしに恋愛感情を持っているらしいってこと、わかってしまっているんだもの。
七都は、セレウスがにっこり微笑みながら、「さ、お体をお拭きしましょう」なんて言っているシーンを想像して、頭を抱えたくなる。
「彼のお姉さんは、彼は、ただの人間に戻ったほうが幸せなんじゃないかって言ってたけどね」
「それを決めるのは、セレウスさん自身ですからね。セレウスさんがあなたのアヌヴィムになったら、私は、当然仲良くさせていただきますよ」
シャルディンが言った。
「とにかくね。あなたは、すぐに帰ったほうがいいよ。わたしは、今までもひとりだったし、これからもひとりで行く。心配しないで」
「しかし、そのお体で? 今まで旅を続けて来られたのさえ、不思議なくらいですよ。しかも、今回のことで、前より傷が深くなっています」
「まあ、なんとかなるよ」
「その、なんとかなるという確証は、どこから来ているのですか?」
「なんとなく……」
「なんとなく? 信じがたいです」
「……」
このままでは、また言い合いっこになっちゃう……。
七都は、彼の薔薇色の目を真っ直ぐ見つめる。そして、彼に言った。出来るだけ威厳をこめた、きつめの口調で。
「シャルディン。これはわたしの命令です。帰りなさい。主人の命令には、おとなしく従いなさい」
シャルディンは、しばらく黙って七都を見つめ返した。
「……わかりました」
やがて彼が、あきらめたように呟く。
「では、私が家族のところに帰って一段落したら、風の都にあなたをお訪ねしてもよろしいですか? そこにおられるのでしょう?」
「わたしの家は、別の世界にあるの。たとえ風の城に行っても、たぶん、そこには住まない。しばらくしたら、自分の家に帰るつもり。だから、わたしを訪ねてきても、わたしはいないと思う」
「風の城ですか……」
シャルディンは、じっと七都を見つめる。
「あなたは、リュシフィンさまの姫君? 私は、とんでもない方のアヌヴィムになってしまったのかもしれませんね」
「わたしがリュシフィンの何なのかは、わからない。たぶん、親戚じゃないのかな、ジュネスと光の魔王さまみたいに」
「でも、あなたがおられなくても、いつか訪ねますよ。風の城に行くには、勇気がいりますけどね。しかし、私が行って、果たして入れてくれるのでしょうか」
「もしわたしがそこの姫君なら、あなたのことは伝えておくから」
「お願いしますね」
シャルディンが、微笑んだ。
「では、ナナトさま。ご無事で」
「うん」
七都は、シャルディンを見下ろした。
彼にいとおしさを感じる。
それはもちろん、恋愛感情などではなくて、たとえばソファの上で、安心しきって平和に眠っているナチグロ=ロビンを眺めたときに感じるような、そんな、くすぐったいような、なごめるような感情。
彼が、七都の力の一部をその中に持っているからなのかもしれない。
魔神族は、自分のアヌヴィムに対して、こういう感情を抱くものなのだろうか。
七都はシャルディンの首に手を伸ばし、彼の頭を抱いて、引き寄せた。
そして、彼の唇にそっとキスをする。
ついばむような、軽いキス。人間に対するあの衝動を感じる間もない、短いキスだった。
「あなたに口づけをせずに、アヌヴィムにしてしまったから。せめてものお詫びというか、埋め合わせです」
シャルディンは、黙って七都を見つめた。
彼は、真っ直ぐに七都の目を覗き込んでくる。
その赤色の目の中には、魔神族に対する恐怖など、微塵もない。
さまざまなことを経験し、知ってきた、穏やかで静かな目。
けれども彼は、次の瞬間、にやっと笑った。そして、七都に言う。
「いけませんね、ナナトさま。そういう格好で、こういうことをしては」
「え?」
「たいていの男なら、そそられますよ。襲ってしまうかも」
七都は、腰のあたりまで落ちてしまっていた毛布を素早く引き上げる。
シャルディンは、くすっと笑った。
また、おちょくられてる!
七都は、彼を睨む。
「シャルディン。まさかとは思うけど。わたしが眠っている間に、なんにもしなかったよね?」
「は? するわけないでしょう。あなたはわたしのご主人で、おまけに怪我人ですよ」
シャルディンが、真面目な顔をする。だが彼は、すぐに表情を崩して、微笑んだ。
「ただ、たっぷりと鑑賞はさせていただきましたけれどね」
「か、鑑賞!?」
「あなたの体は、非常に美しい。私は今まで数多くの魔神族の貴婦人やら少女やらを見てきましたが、群を抜いています。久しぶりの、目の保養でしたね」
「……殴る!!!」
シャディンは笑いながら、七都が振り下ろした手をつかんだ。
「そんなことばかり言ってからかってたから、女主人たちから嫌われたんでしょう!?」
「おそらく」
「女性にはやさしくしないと……」
シャルディンは、いきなり七都を抱きしめた。
七都の肩に両手を回し、髪をそっとなでる。
「あのね、アヌヴィムのほうから、主人に対して、そういうことしちゃいけないんだよ」
「知っていますよ。でも、私は気にしませんから」
「少しは、気にしようよ」
シャルディンは、七都の耳のそばに口を寄せ、薔薇色の目を半分閉じた。
「どうか、ナナトさま。あなたには、アヌヴィムの魔法使いがいるということを忘れないでください。そして、いつでも私を呼んでください。あなたが危険なときでも、つらいときでも、何となく寂しいときでも。私はどこにいようと、あなたのもとに、すぐに参ります」
「……ありがとう。わたしの魔法使いさん。とても心強いです」
「では、私は行きます」
「気をつけて……」
シャルディンは、七都から離れて立ち上がった。
「シャルディン。最後に約束して。女の子をおちょくらない。やさしくするって」
「わかりました。そうします」
彼は返事をしたが、その口元には、相変わらずのにやにやがくっついている。
「全然、そうしようなんて思ってないでしょ」
「そんなことないですよ」
笑いを噛み殺しながら、彼が言う。
「シャルディン!!」
彼は、七都に向かって、とても優雅に、そして、この上もなく深くお辞儀をした。
お辞儀をしたポーズのまま、彼の姿がぼやける。
やがて、パールホワイトの髪も、苺ジュース色の目も、七都の前から、完全に消えてしまった。
空気に溶けてしまったかのようだった。
「行っちゃった……。瞬間移動……テレポーテーションっての? わたしもああいうの、出来るようになるかなあ」
七都は、ベッドに横たわる。
もう少し眠って、それから目が覚めたら、わたしも出発しよう。魔の領域へ。
三日も遅れてしまったもの。急がなきゃ。
セレウス……。
わたしがアヌヴィムの魔法使いを作ったことを知ったら、気を悪くするかな。
すぐに暗く落ち込んじゃうからな、彼は。
でも、シャルディンとセレウスって、あまり性格合いそうじゃないよね。
セレウスがシャルディン、苦手かも。
案外ものすごく気が合って、無二の親友になっちゃったりするのかもしれないけど。
七都は目を閉じた。
けだるい、だが心地よい眠りが、すぐに全身を包み込んだ。




