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第1話 紅目の魔法使い 11

 七都は、深く呼吸をする。

 改めて考えなくても、たぶん答えは最初から決まっている。

 今の彼を助けることが出来るのは、自分しかいない。そして彼を助けるには、その方法しかないのだ。

 それはよくわかっている。ならば、あとは自分の気持ちに踏ん切りをつけて、それをいつ行動に移すかどうかだけになる。

 七都は、彼に言った。


「わかった。では、今からあなたを助ける。その気持ちは変わらない。あなたは、家族と会わなきゃいけないよ」

「では、ナナトさま。わたしに口づけを」

「……」


 シャルディンは躊躇している七都を見上げて、微笑んだ。


「ほら、やはり顔に出る。また、困った顔をされた」

「だって……。やっぱり、こわいもの」

「では、手を。手なら、こわくないですか?」


 シャルディンは七都の手を取り、自分の唇の上に乗せた。


「今度あなたがアヌヴィムを作るときは、ちゃんと口づけをしてあげてくださいね。これは、少し屈辱ですよ。手を使うなんて、魔王さまくらいなものです」

「ごめんなさい……」

「では、体から力を抜いて。楽な感じで、じっとしておいてくださいね」


 シャルディンの唇に乗せた七都の手のひらが、次第に熱を帯びる。


 七都は、目を閉じた。

 体の中のすべての血の流れが、そこに向きを変えたような気がする。

 そして、それは、ゆっくりと動き始める。

 七都の腕に、手首に、そして、指の先に。そこからさらに、シャルディンの唇を通して、彼の中へ。

 七都の体の奥底で、何か大切なものにひびが入ったような気がした。

 それは、否応なく引きちぎられていく。

 もぎ取られ、流れの中に溶け、体の外に出て行ってしまう。

 身の毛がよだつような喪失感だった。

 体の一部が流れ去っていく。止めようとしても止まらない。恐ろしいほどの勢いで、消えて行く。

 だめだ。今失うには、あまりにも早い。

 まだ何にも用意が出来ていない。早すぎる。


「いやだ!!」


 七都は、思わず叫んだ。目を大きく見開く。

 だが、何も見えなかった。赤黒い闇しかそこには存在していない。


(止めてはなりません、ナナトさま)


 シャルディンの声が、頭の中に聞こえた。


(だいじょうぶですよ。これはエディシルの流れ。魔神族にとって、誰かにエディシルを与えるという行為は、そんなに不快なものではないはずです)


 不快なものじゃない?

 確かに、グリアモスにエディシルを食べられたとき、妙な快感みたいなものはあったけど……。あれのこと?

 だが、今は、そういうものは感じない。

 何か胸のあたりの刺激が、それを邪魔している。

 これは、何なのだろう……。

 胸のあたりに、刺すような刺激が絡みついていた。

 何千本もの針でつつかれているような、刺激。

 それはエディシルの流れに触発されるように、次第に強くなってくる。

 やがて、針ではなく、何千本もの剣で滅多打ちにされているような、恐ろしい感覚が胸に広がった。

 グリアモスに引き裂かれた傷だ。それが、叫ぶように疼いている。

 痛い……。痛い?

 これは、痛み? そんな。

 魔神族は、痛みを感じないはずなのに……。

 七都は、愕然とする。


 だが、それは痛みだった。

 元の世界でしか感じるはずのない、痛み。

 今まで感じなかった怪我の痛みが、一度にまとまって押し寄せてきたようだった。何重にもなって。何倍にもなって。

 胸の傷に、何か劇薬でも塗りこめられたようだ。

 鈍い痛みと鋭い痛み。いろんな痛みが合わさって、傷の中でのたうちまわっている。

 何か痛みで出来上がったおぞましい生き物がそこに閉じ込められ、滅茶苦茶に暴れているようだった。

 傷は再び引き裂かれ、暗黒の傷口は果てしなく広がっていく。

 その感覚が確実にあった。リアルすぎるくらいに感じられた。


 七都は、痛みと恐怖に耐え切れず、悲鳴をあげる。


(やめて! こんなの、我慢出来ない!!)


 シャルディンは、彼の唇から手を引き剥がそうとする七都の腕を両手でつかんだ。


(ナナトさま! どうか、ご辛抱を。共倒れになります!)


 シャルディンが、七都の頭の中で叫んだ。

 でも、痛い! 痛いよ!!

 間違いなく傷が大きく広がっている。

 そのうちそこから体が引き裂かれて、ばらばらになってしまう……!!

 分解して、暗黒の空間の中に吸い込まれてしまう……!!!


(そう思ったら、本当にそうなってしまいますよ!)


 シャルディンの声が響く。


(あなたは、私を助けるとおっしゃった。どうか、その言葉に責任をお持ちになって、それを最後まで果たしてください。私を助けてください!!)

(……)


 七都は、見えない目をカッと開いた。

 耐えられそうもない痛みをそのままダイレクトに感じることを放棄し、シャルディンの唇に乗せている自分の手に意識を集中させようとする。

 だが、それらはしつこく触手を伸ばし、その中に七都を取り込もうと襲ってきた。

 もう少しだ、もう少し。

 もう少しだけ我慢したら、あとは、受け入れる。どっぷりとつかってやる。

 だから、そこでおとなしく止まっているのだ。そこから動くな。

 七都の唇から、うめき声がもれる。自分でもぞっとするような声だった。

 シャルディンの顔に、血の気が戻っていく。

 その枯れ枝のような指にも、腕にも、ふっくらと肉がついていった。

 もはやそこにいるのは、死にかけた老人などではなく、生気に満ちた美しい青年だった。

 シャルディンは、七都の手をゆっくりと唇からはなした。

 エディシルの流れが停止する。

 途端に、抑えていた痛みが容赦なく、そして、待ち構えていたように、七都を飲み込む。

 七都は気を失って、彼の隣に倒れこんだ。


 シャルディンは、起き上がった。

 白銀の髪が揺らめいて輝き、鮮やかな薔薇色の目があたりを見回す。

 そして彼は、ピアナの花に囲まれて、目を見開いたまま静かに横たわっている魔神族の少女を見下ろした。

 白い陶器のような肌。薄紅の花びらのような唇。

 太陽の光を通すと、緑がかった黒髪は深い緑色に、透明な赤紫の目は暗い赤色に見える。

 長年多くの魔神族と関わってきた彼も、太陽の光の下で魔神族を見るのは初めてだった。

 彼は七都を抱え上げ、金色の朝の光に照らされた白い花畑の中を、しっかりとした若者の足取りで歩き始めた。

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