【9】
ユキさんが息を詰める様に、歩みを止めた。あたし達が歩くのを止めて、後続を歩いていた人達が一瞬立ち往生するのが見えたので、あたしは慌てて彼の手を引き端へと寄る。
「何か、言いたい事とか…ある?」
ユキさんはあたしにそう問われた後、何かを言わんと口を開き掛けるも又其れを閉じると言う動作を二、三回繰り返した。白い息が吐き出され、彼が目線をあたしから外す。
「なぁ」
切り出されたその声は明も暗もどちらとも取れないもので、その先を想像するのさえ難しい程だった。ユキさんがやっとあたしに何かを伝えようとした時、「芳野?」と思いもよらぬ所からあたしの名前を呼ぶ男の人の声がした。
「あーやっぱ芳野だろ、俺、戸井田」
自分の事を指差しながら、にこにことした顔で其処に居たのは小学生の時のクラスメイトだった。
「戸井田君!」
「おーっ小学卒業以来じゃんっ」
戸井田君は中高一貫の全寮制高校に行ってしまった頭の良い子だった。家が近くだったから、男子の中でも割と良く喋る子で仲が良かった様に思う。戸井田君はあたしの傍に立っていたユキさんに「クラスメイトだった戸井田です」と頭を下げた。礼儀正しい挨拶にユキさんも柔和な表情を浮かべ「和田です」とだけ名乗った。
「お前三年前にやった同窓会居なかったな、SEとかになったって噂で聞いたけど」
「あ、うん三年前はそうで多分忙しくて行けなかったんじゃなかったかな。戸井田君は行ったの?」
「行ったよ、成人式も出たし。あ、今度ロクイチでプチ同窓会やろうって話出てるから、お前も来いよ。
つーか携番教えろ」
六年一組、通称ロクイチ。今はどうだか知らないが、あたしが通っていた小学校は代々自分達をその様に呼んでいた。
「小夜子が結婚するらしくて、お祝い兼ねてって言ってた。知ってた? このネタ」
「えー小夜ちゃんがっ。誰と? あたし知ってる人かな」
戸井田君はあたしと話をしながら、自分の携帯を操作し、あたしの携帯から電話番号を登録している。視線こそ手元に落ちているが、しっかりとあたしとの会話は成り立っていて、相変わらず器用な子だなと思った。
「知ってるよ。会長とだって」
「えーっっ」
会長とは、児童会の会長をやっていた小日向君の事で、小日向君と小夜ちゃんは会えば口喧嘩ばかりしている二人だった。
「アイツ等中学から付き合ってたんだってよ。つーかお前、同中だろ? 知らねーの?」
あたしは片手を思いっきり横に振り、知らなかったと答える。すると戸井田君は呆れた顔をしながらも、笑って言う。
「お前、恋愛とかとはかけ離れてたって記憶がある」
「…何気に失礼じゃない、其れ」
戸井田君に返された携帯が一度あたしの手の中で震えて、未登録の番号が表示される。
「まぁ今はすっげー恰好良い彼氏居るんだから、結果オーライだろ。あ、其れ俺の番号ね」
戸井田君はあたしの携帯を指差してそう言った後、隣に立つユキさんに視線を移して
「すみません、久し振りでテンションあがっちゃって! 此れで失礼します」
と言い、又頭を下げた。戸井田君ってこんなに気を遣える人…だったのかな、と少し首を傾げる。ユキさんが微笑を浮かべたのを確認して、戸井田君はあたしに手を上げこの場を去って行った。
「十五年振り位に会ってん?」
あたしは携帯の電話帳に懐かしい友人の名を名字だけで簡単に登録してバッグに仕舞う。
「うん、凄い偶然。あたし、あんまりここら辺歩いてても同級生と会うとか滅多に無かったんだけど」
「…でも同窓会やる言うてたやん……嬉しいやろ」
「うん! さっき話題にも出てたと思うけど、小夜ちゃんって子にも中学卒業以来会ってないし、凄く楽しみ」
あたしは旧友達の顔を思い浮かべ、幼かった友人達がどの様に成長したのかに興味をそそられた。
「ユキさんは、同窓会とか行ったりするの?」
何時までも此処に立っていても仕方が無いと彼の手があたしの背に宛がわれ、歩く様に促される。あたし達は今度こそ敷地内から出て、目的の場所へと向かって再出発した。
「成人式は虎と出て、それっきりやなぁ。俺等が誘われとんで他でやっとるのかもしれんけど」
「誘われないって事はないでしょ。女子達は二人に会いたいんじゃない?」
あたしがからかって言えば、ユキさんは「刺されるかもわからん」と深刻な顔をして答えた。どんな付き合いをしていたのかと…あたしは僅かに怒りを滲ませながら呆れて見せた。するとユキさんが
「虎が」
と言葉を補足し、あたしの顔を覗き込んでニヤニヤと笑った。
してやったりと言う表情のユキさんに、あたしは厳しい視線を投げ「ユキさんだって色んな人と付き合ったんでしょ」と責める。ユキさんは「…あー」と困った様に笑った。
「否定は出来ひんなぁ。言われたら断らへんかったし」
解ってはいた事だし、からかったのも自分なのに改めて言われると胸が痛い。沈黙が居た堪れなくてあたしはわざと明るい声を出した。
「あ、そうだ。さっきの! ユキさん何か、言い掛けたよね?」
「あーそやったなぁまぁでも…今日はええわ。もう家、見えてんで?」
ユキさんが視線を送るその先に、昭和の情緒溢れるあたしの住まいが見えていた。
ダイニングテーブルには沢山の料理が並んでいる。あたしは母の手伝いで取り皿をそれぞれに配った後、父とユキさんのグラスに缶ビールを注ぎ席に着いた。目の前に座る母にもあまり得意ではないビールを少しだけ注ぐと、今度は母があたしのグラスを同じもので満たした。
「じゃぁお父さん、乾杯でも?」
お母さんは何時になくニコニコ顔で父に音頭を促している。父は、何処か緊張している様に見えたが咳払いを一つすると
「今年も、どうぞ宜しく。乾杯」
とテーブルの中央に向かってグラスを掲げた。あたし達も其れに倣って、隣に座るユキさんとはグラスをカチンと合わせ、笑みを交わす。母は、昨日の夜から仕込みに余念が無かった料理をユキさんにあれもこれもと勧め、ユキさんは料理を口にする度に「美味い」と言った。特に筑前煮は彼の好みにぴったりだった様でおかわり迄してくれた。
「初めて会ったのは夏の事よね? 果歩ったら、なかなか和田さんを連れて来ないんだもの」
そうなのだ、何回か母から彼をいつ連れてくるのかと催促があった。
「そやったんですか、其れはすんまへんでした。僕も休日出勤とか何回か有ったんで、彼女が遠慮したんやと思います」
「お忙しいのねー」
「果歩さんかて人の少ない部署で忙しくしてますし、僕だけとちゃいます」
ユキさんがあたしをフォローしてくれたおかげで、母から向けられる疑惑の目を回避出来た様だ。あたしはそっと安堵の息を漏らして、サラダに箸を伸ばした。
父がユキさんの事についてあたしに何かを言って来るような事は無かったけれど、母は献血センターで彼に会って以来何かとユキさんの事を訊ねてきた。大学の時も、修哉さんと付き合っていた時も『彼氏』の存在は明らかにしたものの、引き合せた事は無かったから余計だったのかもしれない。”初めて” 見た娘の彼氏を歓迎してくれてるのは嬉しかったけれど、やはり恥ずかしいものだ。
『いつ和田さん呼ぶの?』と何度も言われたが、その度のらりくらりとかわしたのは言うまでも無い。極めつけは『果歩ももう良い歳だもんね』の台詞だった。その先に続く話の流れをユキさんにされてしまっては堪らないと、あたしはユキさんをいかにしてうちに呼ばずに済むかを考えた。けれど、其れも今日までか…お母さん、どうか余計な事を言わないで下さい、あたしはそう祈った。
料理を食べ、あたしの幼少の頃の話をし時間は緩やかに過ぎる。口数の少なかった父はお酒が進んでしまったのか、顔が既に真っ赤になっていった。
「お父さん、温かいお茶淹れる?」
あたしがそう訊くと父は「そうだな」と立ち上がり、ダイニングを離れた。母とあたしは空になったお皿の片付けを始め、ユキさんにもリビングのソファーを勧める。
「お母さん、あたしお皿洗うからお茶淹れて」
「良いわよ、お母さんがやるから。果歩もあっちでお茶飲みなさい。あれじゃ和田さんの方が困るでしょう」
母は眦を下げて口元を緩めると、スポンジに洗剤をつけてお皿を洗い出した。ソファーを見ると父はすかさずテレビの電源を入れていて、ユキさんもソファーではないホットカーペットの上に直に座っている。
あたしは笑ってしまった。父も父だが、ユキさんは処世術とやらを発揮しないのだろうか。
薬缶を火に掛け、茶筒を戸棚から取り出していると母が言う。
「…良い人ね、和田さん」
彼女は泡のついた手に視線を落としたまま「ご縁が有ると良いわね」と小さく呟いた。母のそんな言葉にあたしは目頭を熱くして「ん」とだけ答えた。




