【10】
「何ー? 自分こうゆうんも作れるん?」
「…本見れば…作れるよ。其れに母と一緒に作ったから」
あたしは想像以上に喜んでいるユキさんを目の前に、照れ臭くなって視線を逸らした。
二月十四日、ありきたりのチョコレートは嫌で母と一緒にチョコレートブラウニーを作ってみた。ユキさんは普段あまり甘い物を食べたりしないけれど、甘い物が嫌いって訳じゃない。
「ほんまかー。あ、何やもしかしてお義父さんとお揃い?」
白い歯を見せユキさんが笑う。父と同じ物を貰った事を嬉しく思っているらしい。
…良いなぁ…こういうの。あたしの家族を大切に想ってくれてるのが嬉しい。
「お父さんには内緒ね? 泣いちゃうから」
「了解了解。コーヒー貰てええ?」
「うん、今用意するね」
ユキさんのおうちで過ごす事もすっかり慣れたし、クリスマスに貰った合い鍵ももう数えられない位使った。
あたしは緩む口元を隠しもしないで、用意したコーヒーをユキさんの前に差し出す。
「あ、フォーク」
「ええよ。手で」
食べ易いサイズに切り分けておいたブラウニーを彼は大きな口で頬張った。「うま」そう言って二個目に手を伸ばす。
「料理も出来て菓子も作れる、えー嫁になれんで自分」
「…」
ユキさんに言われたその一言にあたしは言葉を失って、そんなあたしを見たユキさんも吃驚していた。
「あ…あー…んー…なれんで……」
「あ、うん…ありがと…」
あたしは笑みを顔に貼り付けた後コーヒーカップに手を伸ばし、縁に口を寄せる。
”なれんで” …なれるよって…ちょっと…アレだ…他人事だ…。
妙な空気が流れて何だか気まずくなったのを察してか、ユキさんがあたしに窺う様な視線を送ってくる。あたしは目を合わせ、にっこりと笑って見せた。
「あたしも、食べちゃおう。実は昨日味見で結構食べたんだけど…太っちゃうかなぁ」
少しわざとらしくなってしまったけれど構うまい。
「…果歩」
「んー美味しいっ」
こうして笑っていないと。
笑ってないと、涙が零れてしまいそうになる。
「果歩…聞けて」
「ん? もう食べない?」
「…あんなぁ…果歩、俺な」
其処で電子音が鳴り響いて、二人して身体がビクリと跳ねた。音の発信源はあたしのバッグの中からで、あたしは「ごめん」と席を立ち、彼の視線から逃れる様にキッチンの方へと移動する。珍しい父からの着信にあたしは首を傾げながら通話に応じた。
「もしもし? お父さん?」
『果歩っ、か、母さんが倒れたって!』
お母さんが、倒れた…――――?
『センターで、倒れたって! T病院に今から行くからっ』
病院? ホントなの…?
「わ…解った、T病院ね? あたしも直ぐ行くっ」
あたしは通話を終えると直ぐにリビングに駆け込み「お母さんが倒れたって」とユキさんに向かって叫んでいた。
それからユキさんは、焦るあたしを宥め、励ます様に病院まで付き添ってくれた。母は、母が以前勤めていた総合病院の応急処置室に居た。ベッドに横たわる母は点滴をしながら、「大袈裟ねー」と暢気に笑っていて腰が抜けてしまった。
「だ、だってお父さんが…すっごい焦ってるから…」
父も思ったよりも元気だった母を見て安心した様で、パイプ椅子に座り大きく息を吐いた。
「吃驚、するじゃないか…母さんが、倒れるなんて…」
「あら、和田さん迄来てもらっちゃって、何だかごめんなさいね」
「いえ、お義母さんが元気そうで良かったです。じゃ僕は此れで」
あたしの肩を支えてくれていたユキさんの手がそっと離れて、その手はあたしを安心させる様に頭を一度撫でた。
彼の体温を感じていた肩に手をやって、あたしは去って行くユキさんを見つめる。
「良いのよ果歩、行って。点滴終わったら帰って良いって言われてるんだから」
「…え…」
ベッドの中の母は、少し顔色が良くなかった。父も何処か頼りなさげに見えて、あたしは頭を振る。
「ううん、お母さんの傍に居る」
「そう?」
母は弱弱しく笑った。
自分ももう直ぐ三十で、当たり前だけれどそれだけ両親も歳を重ねている。母が幾ら看護師だからと言って病気と無縁な訳が無い。父だって、幾ら母が健康に気を遣っていてあげたって病気になる事だって有り得るのだ。
頭はそうやって理解していたのに、いざ其れを目の当たりして酷く動揺した。
あたしは母の傍らに立ち、指先だけをそっと重ね言った。
「無理、しないでよ」
「…そうね…其れが良いわね」
その晩、あたしは母が「特上寿司を食べたい」なんて駄々捏ねたのよと、ユキさんに電話で話した。
『ほんでお義父さんも買いに走ったんやろ?』
「そうそう走った走った」
あたし達は回線上で繋がって同時に笑った。昼間のあの気まずさを思い返すと不安になったけれど、こうして何時もの様に軽口が叩ける事にホッとした。
『ほんま難しい病気やのうて良かったなぁ、過労だけなんやろ?』
「うん。働き過ぎなのよね」
『自分は人の事言えへんやろ』
あたしが苦笑いした後、会話が途切れて訪れた沈黙にあたしは思わず構えてしまった。其れを感じ取ったのか、『自分も今日は早よ寝えや』とユキさんは優しく言うと電話を切った。
携帯を握ったまま、あたしは後方へと倒れる。其処は馴染んだ布団の上で、シーリングライトは既に常夜灯だけの灯だ。フリース素材の大きめパーカーを着ているし、足元もモコモコのルームソックスで寒くは無い。
けれど、隙間風が吹いている。
あたしが考え過ぎなのかもしれない、色んな事。
ユキさんと一緒に居たいからって、その先に結婚を夢見る事は短絡的だ。
ユキさんは未だ東京に来て一年も経っていないのだし、今はきっと仕事を頑張る時なのだし…そもそも『結婚』…するつもりはないのかもしれないのだし。
あたしはきつく目を閉じた。
◇
それからのユキさんは相変わらずで、あたしを甘やかしてからかって、強引にご飯を食べさせた。けれど二人っきりで居る時に、遠くを見つめるユキさんを見ていると何故だか落ち着かなかった。
デスクの上で内線を知らせる着信に、又剣持主任かしらと受話器を上げた。
『…今日お昼、外で食べよ、良い? エントランスで待ってるから』
此方が名乗る前に相手は其れだけ言うと一方的に電話を切ってしまい、あたしは左手に残った受話器を暫し見つめ、目を瞬かせた後其れを静かに置く。
シバ…今の電話は友達相手でも些か失礼ではないだろうか。
午前の仕事を終えてエントランスに降りるや否や、あたしはシバに猛烈な勢いで腕を引かれ、会社から割と距離のある和食屋さんに連れ込まれた。少し上がってしまった息を整えながら、抗議の声とばかりに彼女の名前を呼んだ。けれどシバの方は、同じ様に浅い呼吸をしていても何処かあたしに責める様な目付きを向けて居る。
「主任、大阪に戻るって本当なのっ?」
大阪?
「え?」
あたしはシバの声が聞こえなかった訳じゃないのに、もう一度そんな風に訊ねた。
「え……知らなかった…の…?」
近々、大阪支社の副支社長と営業部長が東京にやって来て、ユキさんを大阪に戻す話を進める予定になっているのだと、シバが職権乱用をしてまで教えてくれた。
そうか……此れ、だったのだ。
ユキさんがあたしに伝えたかった事は自分が大阪に戻ってしまうと言う事だったのだ。
東京にずっと、居られない事。
いつだったか覚えた違和感の訳。ユキさんが電話口で何気なく言ったのは『業績アップの為に本社来とんのに、大口やっとや』そんな台詞だった。”来てるのに” その言い回しが頭に残った。
「果歩…?」
シバは、そんな大事な話 ―― ユキさんが大阪に戻る事 ―― を何故自分に話してくれないのかと憤りを感じていたらしいのだが、あたしもその事実を知らなかったと知って余計な事を言ってしまったとバツが悪そうな顔をしていた。身体を縮めて此方を窺う姿は、捨てられた子犬みたいだ。あたしは笑みと共に小さく息を零した。そんなあたしを見てシバは顔を上げ「ごめん」と言った。
「有難う教えてくれて…知らなかったから、吃驚したけど…」
「…そうだったんだ…でも、どうするの? 遠距離、とか?」
混み合う店内で店員さんが歩き廻っている。あたしは立てかけられたクリアケースを手に取って其処に視線を落とした。
「…どうなのかな…ユキさんが、どう考えてるのか解んないし……シバ、何食べる? 此処親子丼美味しかったよね」
シバにメニューが見える様に向きを変えて差し出すと、あたしの心情を慮ってか彼女は眉を下げて何かを言い掛けた口を噤む。
ユキさんは黙っていた訳じゃない。
これまで何度かあたしに切り出そうとしてくれていたんだ。この前、母が突然倒れた日の様に。あの日は事情が事情だったのだけれど、それまではあたしが切り出させない雰囲気にしてしまっていたんだろう。
ユキさん、貴方はどう思ってる?




