第3話 ラーメンと暮らす日々
メンちゃんとの共同生活は、甘くて、濃くて、かなり重い。
だが、どれほど美味しいものでも、毎日無理に食べ続ければ身体は悲鳴を上げる。
今回は、健康診断という現実的な問題がやってくる。
それをきっかけに、主人公とメンちゃんの関係は、ただのドタバタから、笑いごとではすまない選択へ変わっていく。
赤い食券の意味はまだ分からない。
けれど、メンちゃんの身体はすでに湯気のように揺らぎ始めている。
メンちゃんとの生活にも、少しずつ慣れてきた。
慣れというものは恐ろしい。
最初は朝から家系ラーメンを出されるだけで、本気で絶望していた。
なのに最近は、起きた瞬間に豚骨醤油の香りがしないと、逆にちょっと不安になる。
人間の適応力はすごい。
そして、たぶん少し怖い。
その朝も、目を開けるより先に、鼻のほうが起きた。
濃厚な豚骨醤油。そこへ今日は、青くさい葉っぱの匂いが一枚、重なっている。
ああ、今日はほうれん草多めだな――香りだけで献立が分かってしまう自分に、我ながら少し引く。
キッチンから飛んでくる「ご主人様、起きてー」を背中で聞きながら、俺はもう身体を起こしていた。呼ばれる前に目は覚めているし、丼の中身まで嗅ぎ当てている。慣れとは、たぶんこういうことだ。
食卓に着くと、丼は確かに今日はほうれん草が多い。
多いというより、山だった。
いや、山を通り越して、もはや森だった。
丼のふちから、ほうれん草がわさわさとはみ出している。
「……メンちゃん」
「なあに?」
「これはラーメンか?」
「家系ラーメン健康増進スペシャルだよ♡」
「ほうれん草で罪をチャラにしようとするな」
「罪じゃないよ。愛だよ」
「愛はカロリーを消してくれない」
「あ、そうだ。家系法度、第三条を追加しました」
「勝手に条項を増やすな」
メンちゃんは、どこからともなく取り出した巻物を、しゃっと広げた。
「家系法度・第三条。ほうれん草は野菜なので、いくら乗せても健康。よって罪は帳消しとする」
「その理屈が一番危ない」
「第四条。鶏油は液体なので、飲み物としてカウントする」
「もはや科学に喧嘩を売ってる」
「第五条。ご主人様は毎朝、丼に向かって『いただきます』と言うべし」
「五条だけ急にまともだな」
そう言いながらも、俺は箸を取った。
悔しいが、うまい。ほうれん草の青みが、少しだけ罪悪感を薄めてくれる。
「どう?」
「……うまい」
「やったぁ!」
嬉しそうに笑うその顔を見ると、文句が半分くらい消えるのだから、本当にずるい。
だが、現実はそれだけでは済まない。
その日の午前中、会社の健康診断の結果が返ってきた。
封筒を開けた俺は、数秒固まった。
総合判定、要注意。
俺はそっと封筒を閉じた。
見なかったことにしよう。
そう思った瞬間、隣の席の後輩が覗き込んできた。
「先輩、健康診断どうでした?」
「普通」
「本当ですか?」
「普通に要注意だった」
「それ普通じゃないですよ」
うるさい。
分かっている。
紙には、塩分やら脂質やら、聞きたくもない項目に容赦ない数字が並んでいた。
ようするに、食べすぎだ。
しかも、数字がどれもおかしかった。
塩分の欄には、本来ありえない桁の数字が印刷されていた。
「先輩、この数値……単位、合ってます?」
「合ってないと、信じたい」
「脂質の欄、印刷が追いつかなくてインクがにじんでますよ」
「紙が悲鳴を上げてる」
その日の午後、俺は保健室に呼び出された。
「ちょっと、再測定させてもらえます? 機械の故障かもしれないので」
看護師さんが、困った顔で言った。
俺はおとなしく、血圧計に腕を通した。
ピッ、と音が鳴る。
数字がぐんぐん上がっていく。
上がる。
まだ上がる。
止まらない。
血圧計の液晶が、豚骨スープみたいな色に染まった。
「え、うそ、これ……こんな数字、見たことない」
看護師さんの声が裏返る。
機械が、ピーッ、ピーッ、と警告音を鳴らし始めた。
そして最後に、液晶に一言だけ表示された。
『家系』。
「……なんて?」
「家系、って出てますね」
「機械が家系って言うな」
血圧計は、ぷすん、と音を立てて煙を吐き、静かに沈黙した。
なぜか、ほのかに豚骨醤油の匂いがした。
「あの、先輩」
「なんだ」
「先輩の血、スープでできてません?」
「できてないと、信じたい」
続けて測った体重計は、俺が乗った瞬間に針が一周して、鶏油の脂っこい音を立てて壊れた。
体温計には、なぜか『濃いめ』と表示された。
「濃いめってなんだよ。体温に濃いめはないだろ」
保健室の先生は、俺をしばらく見つめてから、静かに紙にペンを走らせた。
医者のコメント欄には、短くこう書かれている。
「食生活の改善を推奨します」。
その下に、なぜか手書きでもう一行、追加されていた。
「あと、麺類を控えてください(切実)」。
改善したい。
できることなら改善したい。
だが、俺の家には家系ラーメンの化身——ラーメンそのものが女の子の姿になったやつが、住んでいるのだ。
この事情を医者に説明したところで、たぶん精神科を紹介される。
昼休み。
俺は健康診断の結果を見つめながら、コンビニで買ったサラダチキンとおにぎりを食べていた。
ラーメンではない。
非常に正しい昼メシである。
だが、なぜか罪悪感があった。
メンちゃんの顔が浮かぶ。
「ご主人様、今日はラーメン食べなかったね」。
あの寂しそうな声が、頭の中で再生された。
「……何やってんだ、俺」
俺はおにぎりをかじりながら、ため息をついた。
健康のためには、ラーメンを減らすべきだ。
それは間違いない。
だが、メンちゃんは俺のラーメン愛から生まれた存在だ。
俺がラーメンから離れるたびに、彼女は少し不安そうな顔をする。
そして、以前見たあの透けるような姿。
気のせいだと思いたかったが、心のどこかで分かっていた。
あれは、たぶん気のせいではない。
仕事を終えて帰宅すると、玄関まで迎えに来たメンちゃんが、俺の顔をじっと見た。
「おかえりなさい、ご主人様♡ ……何かあった?」
「何で分かるんだよ」
「分かるよ。スープの表面みたいに、顔に出てるもん」
「俺の顔をスープで例えるな」
俺はカバンから健康診断の結果を取り出した。
「これ」
「なに?」
「健康診断」
「けんこうしんだん」
メンちゃんは初めて聞く言葉のように首をかしげた。
「ご主人様の美味しさを測る紙?」
「違う。俺の体がどれくらい危険かを測る紙だ」
「危険!?」
メンちゃんは慌てて紙を受け取った。
文字を読みながら、だんだん顔色が変わっていく。
紙を持つ手が、少しだけ震えていた。
その瞬間、部屋の空気が、ふっと変わった。
キッチンの方から、しゅうしゅうと湯気が立ちのぼり始める。
流しの下から、いつのまにか業務用の寸胴が一つ、また一つと増えていく。
換気扇が、きゅるきゅると悲しい音を鳴らした。
メンちゃんの不安に合わせて、部屋が勝手に家系空間になろうとしている。
「メンちゃん、落ち着け。寸胴が増えてる」
「え、あ、ごめんね……」
メンちゃんが深呼吸すると、湯気が少しだけ引いた。
寸胴も、しゅん、と一つ消える。
けれど、部屋のどこかが、まだそわそわしていた。
「ご主人様……」
「うん」
「しょくせいかつのかいぜんをすいしょうします、って書いてある」
「そうだな」
「食生活って……」
メンちゃんの声が小さくなる。
「ラーメンのこと?」
俺は答えに詰まった。
嘘をつくのは簡単だ。
でも、ここでごまかしても仕方がない。
「まあ、たぶん」
メンちゃんの表情が曇った。
「私のせい?」
「いや、お前だけのせいじゃない。俺も食べすぎてたし」
「でも、私が毎日作ったから」
「メンちゃん」
「ごめんね」
彼女は紙を胸に抱きしめた。
「私、ご主人様に喜んでほしかっただけなのに」
その声は、思ったより弱かった。
胸が痛くなった。
責めたいわけじゃない。
むしろ、俺はメンちゃんのラーメンに何度も救われてきた。
会社で嫌なことがあった日、疲れて帰ってきた夜、一人でいるのが少ししんどい日。
メンちゃんの「おかえり」と、湯気を立てる一杯に、確かに救われていた。
でも、それとこれとは別だ。
俺は人間で、身体があって、限界がある。
「メンちゃん、俺さ」
「うん」
「ラーメンは好きだよ」
「……うん」
「でも、毎日はきつい」
言った瞬間、部屋の空気が少し冷えた気がした。
メンちゃんは黙った。
金色の髪が、肩の上で小さく揺れる。
「……そっか」
「嫌いになったわけじゃない」
「うん」
「ただ、俺も仕事とか健康とか、付き合いとか、色々あるから」
「うん」
「人生、ラーメンだけじゃないんだよ」
その言葉を口にした瞬間だった。
メンちゃんの身体が、ふっと揺らいだ。
「え?」
俺は目を疑った。
彼女の指先が透けていた。
いや、指先だけじゃない。
髪の先、肩、エプロンの輪郭。
少しずつ、湯気のように薄くなっている。
「メンちゃん!」
叫んでから、気づいた。
消えるのが怖かったのは、ラーメンじゃない。
こいつだ。
その区別が何を意味するのか、この時の俺にはまだ分からなかった。
彼女は自分の手を見て、困ったように笑った。
「……やっぱり、もう隠せないね」
「何だよ、それ」
「ごめんね、ご主人様」
「謝る前に説明しろ!」
俺は立ち上がり、メンちゃんの肩を掴もうとした。
だが、指先が少しだけすり抜けた。
完全に触れないわけではない。
けれど、感触が薄い。
そこにいるのに、どこか遠い。
背筋が冷えた。
「お前……何なんだよ」
「私は」
メンちゃんは静かに言った。
「ご主人様の、家系ラーメンへの愛でできてるの」
「それは前にも聞いた」
「うん。でもね、それは例え話じゃないの」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「ご主人様がラーメンを好きでいてくれるから、私はここにいられる。ご主人様がラーメンを食べて、美味しいって思ってくれるから、私は形を保てるの」
「じゃあ、俺が食べなかったら……」
言いたくなかった。
けれど、答えは見えていた。
メンちゃんは小さくうなずいた。
「少しずつ、消えちゃう」
頭の中が真っ白になった。
「何だよ、それ」
声が震えた。
「そんなの、おかしいだろ。俺、契約した覚えないぞ。ラーメンが好きだっただけだぞ。何でそれで、お前の命まで背負わなきゃいけないんだよ!」
言ってから、しまったと思った。
メンちゃんが、少しだけ目を伏せたからだ。
でも、言葉は止まらなかった。
「俺がラーメンを食べなきゃ、お前が消える。食べ続けたら、俺の体が壊れる。しかも今日、会社の血圧計が煙を吐いて『家系』って表示したんだぞ。何だよそれ。理不尽すぎるだろ」
「ごめんね」
「謝るなよ!」
「でも、ごめん」
メンちゃんの声は、今にも消えそうだった。
「私、生まれてきたかったわけじゃないのかもしれない。でも、ご主人様が美味しいって言ってくれて、笑ってくれて、それが嬉しくて……ここにいたいって思っちゃった」
胸が締めつけられた。
メンちゃんは悪くない。
勝手に現れて、勝手に住み着いて、勝手に俺の生活をラーメン色に染めた。
それは確かに迷惑だった。
でも彼女は、俺を困らせるために生まれたわけじゃない。
俺の「好き」という気持ちから生まれて、俺の「美味しい」という一言で存在している。
そんなの、ずるい。
「……メンちゃん」
「なあに?」
「今、どれくらい危ないんだ」
「うーん」
彼女は無理に明るく笑った。
「ご主人様が明日からずっとラーメンを嫌いになったら、たぶんすぐ消えちゃう」
「嫌いにはならない」
「でも、無理して食べたら、ご主人様がつらくなる」
「……」
「それは嫌」
メンちゃんは、俺の手に自分の手を重ねた。
感触は薄い。
けれど、確かに温かかった。
「私、ご主人様に幸せになってほしくて生まれたんだと思う。だから、私のために苦しむのは嫌」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「分からない」
メンちゃんは首を横に振った。
「私も、分からない」
その答えは、あまりにも頼りなかった。
でも、それが本当なのだろう。
ラーメンの化身だからといって、何でも分かるわけではない。
彼女も、自分が何なのか分からないまま、ここにいる。
俺は深く息を吐いた。
「とりあえず、今日は寝ろ」
「え?」
「顔色が悪い」
「私、ラーメンだけど?」
「ラーメンでも顔色くらい悪くなるんだよ、たぶん」
「ご主人様、適当だね」
「お前の存在自体がだいぶ適当だからな」
そう言うと、メンちゃんは少しだけ笑った。
俺は押し入れから予備の布団を出した。
だが、メンちゃんはソファの端に座ったまま動かない。
「どうした?」
「……一人で寝ると、消えちゃいそうで怖い」
その一言で、俺は固まった。
卑怯だ。
本当に卑怯だ。
そんなことを言われて、放っておけるわけがない。
「じゃあ、ソファで寝るか。俺も近くにいる」
「ほんと?」
「ああ」
「手、握っててもいい?」
「……少しだけな」
メンちゃんは嬉しそうに頷いた。
俺はソファの横に座り、彼女の手を握った。
細い指、薄い感触。
でも、温かい。
メンちゃんは安心したように目を閉じた。
部屋の明かりを落とす。
暗くなったワンルームに、まだ少しだけ豚骨醤油の香りが残っていた。
「ご主人様」
「何だ」
「今日、怒ってた?」
「ああ」
「私のこと、嫌いになった?」
「なってない」
「ほんと?」
「本当だ」
「ラーメンのことは?」
「好きだよ」
「よかった」
メンちゃんは小さく息を吐いた。
「私ね、ご主人様がラーメンを食べてる顔、好き」
「前にも聞いた」
「何回でも言うよ」
「恥ずかしいからやめろ」
「ご主人様が美味しいって思ってくれると、私の中が温かくなるの。スープみたいに、ぽかぽかするの。だからね、ご主人様には、美味しいって思って食べてほしい」
その言葉が、妙に胸に残った。
美味しいと思って食べる。
それは、当たり前のことのはずだった。
でも最近の俺は、メンちゃんを消さないために、宿題みたいにラーメンを食べていた。
義務みたいに。
どこかで、そうなりかけていた。
それではダメなのかもしれない。
ラーメンが好きだから食べる、美味しいから食べる、幸せになれるから食べる。
その気持ちがなければ、たぶん意味がない。
「なあ、メンちゃん」
「ん?」
「お前が消えないために必要なのって、量なのか?」
「量?」
「毎日食べるとか、大盛りにするとか、そういうことなのか?」
メンちゃんは少し考えた。
「分からない。でも……」
「でも?」
「ご主人様が無理して食べたときは、あんまり温かくならない」
俺は黙った。
「逆に、一口だけでも、本当に美味しいって思ってくれたときは、すごくあったかくなる」
「……そうか」
少しだけ、光が見えた気がした。
メンちゃんの存在を支えているのは、ラーメンの量ではない。
たぶん、気持ちの濃さだ。
スープと同じで、薄めたら台無しになるやつ。
毎日いやいや食べる一杯より、心から美味しいと思える一口。
それなら、まだ可能性がある。
「メンちゃん」
「なあに?」
「明日から、毎日家系ラーメンはやめよう」
彼女の手がぴくりと動いた。
「……やめるの?」
「ラーメンをやめるんじゃない。無理して食べるのをやめる」
「無理して?」
「ああ。俺はラーメンが好きだ。でも、毎日食べたら体を壊す。体を壊したら、お前と一緒にいられなくなる」
メンちゃんは黙って聞いていた。
「だから、ちゃんと美味しく食べられるようにする。週に何回か、本当に食べたい日に食べる。家でも店でも、ちゃんと楽しんで食べる」
「それで、私は消えない?」
「分からない」
正直に言った。
「でも、無理して食べ続けるよりは、きっといい」
メンちゃんは不安そうに俺を見た。
「私、ラーメンしか作れないよ」
「なら、練習すればいい」
「ラーメン以外を?」
「そうだ」
「でも、私、家系ラーメンの化身だよ?」
「だったら、家系ラーメンに合うものから始めればいい」
「家系ラーメンに合うもの……」
メンちゃんは真剣な顔で考え込んだ。
「白飯?」
「それはもうやってる」
「餃子?」
「いいな」
「チャーハン?」
「いい」
「油そば?」
「麺から離れる気はないんだな」
「だって、麺は大事だよ」
その瞬間だった。
メンちゃんの身体が、ふわりと淡く光った。
「え?」
俺とメンちゃんは同時に声を上げた。
彼女の髪が湯気のように揺れ、身体を包む淡い光が少しずつ強くなる。
そして、部屋の中に新しい香りが広がった。
豚骨醤油ではない。
香ばしいソースの匂いだ。
「……何だ、この匂い」
メンちゃんは目を丸くした。
「分かんない。でも、頭の中に浮かんできた」
「何が?」
「焼きそば」
「焼きそば?」
「うん。ソース焼きそば。キャベツと豚肉と、紅しょうがを乗せるやつ」
メンちゃんは自分の胸に手を当てた。
「私、作れる気がする」
その言葉が、合図だった。
メンちゃんを包む光が、ぶわっとふくれ上がった。
「わ、わっ、なにこれ!?」
「メンちゃん!?」
光は部屋いっぱいに広がって、天井にぶつかって跳ね返った。
そして、部屋のあちこちで、ぼん、ぼん、と小さな音が鳴り始めた。
流しの横に、湯気だけでできたうどんの丼が、ゆらりと浮かび上がる。
テレビの上には、半透明のパスタが、フォークに巻かれた状態でくるくる回っていた。
押し入れの隙間から、そばのざるが、するすると顔を出す。
「うわ、なんだこれ、麺が! 部屋中に麺が実体化しかけてる!」
「私の中の麺料理たちが、勝手に出てこようとしてる!」
「押さえろ! どうにか押さえろ!」
俺は浮かんでいるうどんの丼をつかもうとしたが、手はすり抜けた。
まだ半分しか実体化していないのだ。
そばのざるが、ふわふわと宙を泳いで俺の顔に迫ってくる。
「ちょっ、そばが、そばがこっち来る!」
「ご主人様、それ、天ぷらそば! えびが乗ってる!」
「解説してる場合か!」
パスタは勝手にくるくる回りながら、部屋を一周した。
換気扇が、ぶおおお、と全力で悲鳴を上げる。
寸胴が、ぼこん、ぼこんと湧いて出て、部屋の隅にタワーを作り始めた。
理不尽な麺の洪水だった。
「メンちゃん、集中しろ! 焼きそば! 今は焼きそばだけでいい!」
「や、やってみる……!」
メンちゃんはぎゅっと目をつぶって、自分の胸を両手で押さえた。
「焼きそば、焼きそば、焼きそば……ソース、キャベツ、豚肉、紅しょうが……!」
すると、宙に浮かんでいた麺たちが、しゅるしゅると光にほどけていった。
うどんが消え、そばが消え、パスタがフォークごと空気に溶けた。
寸胴のタワーも、ぽふん、と一つずつしぼんでいく。
最後に、香ばしいソースの匂いだけが、部屋にふわりと残った。
「……終わった?」
「終わった、と思う」
俺とメンちゃんは、床にへたり込んだまま顔を見合わせた。
換気扇が、ほっとしたように、ふう、と止まった。
「今の、何だったんだ」
「わかんない。でも、たぶん……」
メンちゃんは、まだ少し光っている自分の手を見た。
「私の中に、麺料理が全部つまってて、焼きそばの扉を開けたら、みんな一緒に出てこようとしたんだと思う」
「行儀の悪い麺たちだな」
「ふふ、ごめんね」
でも、と俺は思った。
騒ぎのわりに、メンちゃんの輪郭は、さっきよりはっきりしている。
新しい味の扉が開いた分だけ、彼女の存在が少し濃くなったように見えた。
俺は言葉を失っていた。
ラーメンの化身だったメンちゃんが、焼きそばを作れるようになる。
それは小さな変化かもしれない。
でも、俺たちにとっては大きな希望だった。
「ご主人様」
メンちゃんは恐る恐る俺を見た。
「私、ラーメンじゃなくなっちゃうのかな。ラーメン以外も作れるようになったら、私は何になるの?」
俺はすぐには答えられなかった。
家系ラーメンの化身、それがメンちゃんだった。
でも、もし彼女がラーメン以外の麺料理も作れるようになったら。
それは進化なのか、それとも別のなにかに変わってしまうことなのか。
彼女自身が、彼女じゃなくなってしまうのか。
分からない。
だが、ひとつだけ言えることがあった。
「メンちゃん」
「うん」
「お前が何になっても、今ここにいるのはお前だろ」
メンちゃんは息を呑んだ。
「ラーメンでも、焼きそばでも、何でもいい。俺は……」
そこまで言って、言葉が止まった。
好きだ、と言うにはまだ早い。
でも、ただのラーメンの化身だと言い切るには、もう遅すぎる。
俺はごまかすように咳払いした。
「とにかく、明日は焼きそばを作ってみよう」
「……うん」
メンちゃんは小さく笑った。
「あ、それと。家系法度、第六条を追加します」
「この状況で増やすのか」
「第六条。麺は、いっぺんに出てこない。順番を守る」
「……それは、まあ、賛成だ」
「やった。ご主人様に初めて賛成された」
「ご主人様、食べてくれる?」
「ああ」
「美味しいって言ってくれる?」
「うまかったらな」
「じゃあ、絶対美味しくする」
彼女の輪郭は、さっきよりはっきりしていた。
完全に戻ったわけではない。
けれど、消えそうな不安は少しだけ薄れていた。
翌朝。
部屋には、いつもの豚骨醤油ではなく、ソースの香ばしい匂いが漂っていた。
俺は目を覚まし、思わず笑ってしまった。
「……本当に焼きそば作ってる」
キッチンには、真剣な顔でフライパンを振るメンちゃんがいた。
「ご主人様、起きた?」
「ああ」
「今日の朝ごはんは、焼きそばだよ!」
「朝から焼きそばもまあまあ重いな」
「でもラーメンじゃないよ!」
「そこは進歩だ」
メンちゃんは皿に焼きそばを盛りつけた。
ソースの香り、豚肉、キャベツ、紅しょうが、青のり。
見た目は普通の焼きそばだった。
ただ、メンちゃんはなぜかその横に小さな海苔を添えていた。
「なぜ海苔」
「落ち着くから」
「お前が?」
「うん」
俺は苦笑しながら箸を取り、一口食べた。
「……うまい」
素直にそう思った。
ソースの香ばしさと、麺のもちもち感、キャベツの甘み、豚肉の旨味。
ラーメンではない。
でも、確かにうまい。
「本当?」
メンちゃんが身を乗り出す。
「本当だよ」
「やった……!」
彼女は胸を押さえた。
その身体が、昨日より少しだけはっきりして見えた。
「ご主人様」
「何だ?」
「あったかい」
メンちゃんは嬉しそうに笑った。
「ラーメンじゃなくても、じんわりする」
俺は箸を止めた。
それは、俺たちにとって大きな発見だった。
家系ラーメンだけじゃない。
メンちゃんはラーメン愛から生まれた存在だが、その愛は形を変えられる。
好きなものを好きでいるために、同じ形に閉じ込め続ける必要はない。
広げればいい。
変えればいい。
一緒に、新しい味を見つければいい。
「メンちゃん」
「なあに?」
「次は、何作る?」
彼女は目を輝かせた。
「えっとね、うどん! それからパスタ! あと油そば! つけ麺! 冷やし中華!」
「昨日みたいに全部いっぺんに出そうとするなよ」
「大丈夫。第六条、守るもん」
「結局、麺からは離れないんだな」
「だって、私はメンちゃんだもん」
そう言って、彼女は笑った。
その笑顔は、昨日よりずっと明るかった。
けれど、俺はまだ安心しきれなかった。
メンちゃんが消えかけた事実は変わらない。
彼女の命が、俺の気持ちひとつで揺れてしまうことも。
彼女自身が、自分が何者なのか分からなくなり始めていることも。
ラーメンから、麺へ。
それは希望であると同時に、新しい不安でもあった。
メンちゃんは進化している。
だが、その先に何があるのかは、誰にも分からない。
俺たちの共同生活は、ただラーメンを食べるだけの日々ではなくなった。
好きなものをどう愛し続けるのか。
その愛が形を変えたとき、相手をどう受け止めるのか。
そして、メンちゃんをただの「家系ラーメンの化身」としてではなく、ひとりの存在として見られるのか。
俺は焼きそばを食べながら、向かいで笑うメンちゃんを見た。
少し前まで、俺は彼女を理不尽な存在だと思っていた。
いや、今でも思っている。
勝手に現れて、勝手に住み着いて、勝手に消えそうになって、勝手に麺を部屋中に実体化させて、勝手に俺の心を揺らしてくる。
でも、そのむちゃくちゃな日々を、もう手放したくないと思い始めている自分がいた。
「ご主人様?」
「何だ?」
「焼きそば、おかわりする?」
「朝から?」
「半玉だけ」
「……半玉なら」
「やった♡」
メンちゃんは嬉しそうに立ち上がった。
その後ろ姿を見ながら、俺は小さく笑った。
人生はラーメンだけではできていない。
でも、ラーメンから始まったこの生活は、確かに俺の人生を変え始めていた。
湯気の向こうで笑う彼女と、これからどこへ向かうのか。
その答えは、まだ分からない。
ただ、今日の朝食は焼きそばで、それは確かに美味しかった。
食器を片づける時、シンクの水面が少しだけ揺れた。
水面の向こうに、長い髪を結んだ少女の影が見えた。
「近すぎれば、味は濁る」
声がした気がした。
俺が振り返ると、誰もいない。
メンちゃんはフライパンを洗いながら、不安そうに水面を見つめていた。
「今の、聞こえた?」
「ああ」
「誰?」
「分からん」
ただ、その言葉だけは妙に残った。
近すぎれば、味は濁る。
まるで、つけ麺みたいな距離の話だと思った。
ついに現実が数字で殴ってきた。
健康診断、要注意、食生活の改善。
どれも家系ラーメン好きには重い言葉だ。
けれど、メンちゃんを守るために無理して食べる一杯は、彼女を本当には温めてくれない。
焼きそばの朝は、逃げではなく一歩目だった。
ただし、その一歩は、メンちゃん自身の輪郭を揺らし始める。
家系ラーメンの擬人化である彼女が、家系以外の味を知った時。
彼女は、何者でいられるのか。




