君想う2
恐る恐る探るようにして歩く昌輝だったが、いつまでたっても障害物らしきものには行きあたらなかった。
いったいどこにどんな結界があるのか、さっぱり分からなかったが、ある場所を境に明らかに空気が変わった。
それまでもけっして澱んだ不快な空気が流れているわけではなかったが、まるで森林の中にいるかのような、澄んだ清涼な空気に変わったのだ。
奥には、いちだんと白さが際立っている石柱が四本と氷柱石の集まりがあった。それは天蓋のあるベッドを思わせた。
びくりと、そこで昌輝の足が止まる。
柱の陰に、誰かが座りこんでいた。
その人物が、ゆっくりと昌輝を振り返る。
黒髪の秀麗な顔立ちの青年だった。無表情で、虚ろな瞳を向けられ、昌輝は心にぽっかりと穴が開いたかのような感覚をおぼえた。
立ち尽くす昌輝にむかって、青年は何か言葉を紡いだ。
それは声として昌輝の耳に届くことはなかったが、彼が何を言っているのか、なぜかすんなりと理解できた。
「来い」と言ったのだ。
昌輝はゆっくりと青年に歩み寄った。
昌輝が目の前まで来ると、青年は目を伏せた。同時に、その姿が消える。
ただの幻だったと、昌輝はそのときになってようやく理解した。
幻の青年が座っていた場所を改めて見ると、そこにはちいさな光の珠が複数あった。数えてみると、全部で六つ。
これがメルクリーズというひとの魂だろうかと考えながら、昌輝はかがみ、光の珠に手を伸ばす。
触れたとたん、昌輝の手もとに透明なしずくが落ちてきた。
思わず天井を見上げる。その拍子に目もとと頬に冷たさを感じた昌輝は、落ちてきたしずくが自分の涙だったと知る。
「なんで……」
そう呟きはしたが、どこかで理解もしていた。
自分はこのひとに会いたかったのだと。
ずっとずっと、会いたくてたまらなかったのだと。
理屈も何もなかった。
ただ胸が痛かった。
胸の奥底から突き上げてくる感情を呑み下すことができず、それは涙となってこぼれ落ちる。
会いたかったのに……、やっと会えたのに、相手はもの言わぬ魂の欠片になり果てていた。
もう話すことも、触れることもできない──。
胸や喉をえぐられるような感覚に苛まれるいっぽうで、昌輝はそんなことを思う自分自身に戸惑いもおぼえた。
こぼれる涙をすこし乱暴にぬぐう。
今はとにかく早くキルクのところへ戻らなければと自分に言い聞かせ、昌輝は六つの珠をそっと拾い上げると、魂の白い寝床をあとにした。
ただ一度だけ、幻の青年が座っていた場所を振り返る。
メルクリーズの魂に寄り添うようにしていたあの青年が、シエルという魔族の王なのだろうかと考えながら。
▲ ▲ ▲
川面に浮かぶ白い靄。その向こうに見えるのは、ただ緑ばかりだった。
岩や樹の幹にまでコケがびっしりと生えている。
冷たい空気は肌を刺すようだったが、桜子は寒いと思う余裕もないほど、いま自分がおかれている状況を把握することに精いっぱいだった。
「さあ、ここから先は二人で行ってらしゃい」
桜子の目の前には、見知らぬ女がいた。
金髪碧眼のその女は顎をそびやかし、楽しげに笑っている。
「いいこと? どのような術を使っているのかは知らないけれど、キルクを呼ぶことは許さなくてよ。ここから先は落命の地と呼ばれている場所。踏み入れば、特殊な胞子がその身に巣食い、命を奪う。おまえがキルクをここに呼べば、彼は死ぬことになってよ。死ぬのはおまえ一人でいいでしょう? 誰も道連れになどせず」
女が何を言っているのか、桜子は理解しかねた。
人数合わせで参加した合コンでワタルという青年に酷い目にあわされ、キルクを呼び、強制的に眠らされたところで桜子の記憶は途切れていた。
目が覚めたら、いま目の前にいる金髪碧眼の女がいて、訳が分からないままだだっ広い広間に連れて行かれ、そのままどこだか分からない森の中に連れて来られていた。
いくら思い返しても、状況を理解するのに必要な材料など見つからなかった。
それどころか、混乱は深まるばかりだ。
桜子はちらりと、金髪碧眼の女の隣に立つ青年に視線をやった。
桜子が目覚めてすぐ引っ張って行かれた広間に、彼はいた。銀髪の青年と共に。
闇色の髪に榛色の瞳をもつその青年は、桜子のよく知る青年だった。
見間違えるはずなどない。桜子の恋人が唯一の主と慕う相手。
だが、彼は桜子を見ても何の反応も示さず、今もまた沈黙を守ったまま金髪碧眼の女の隣に立っている。
声をかけることは躊躇われた。
冷たい光しか宿していない彼の瞳が、桜子の声を喉もとで消し去る。
桜子の知る榛色の瞳をもつ青年も冷たい雰囲気をまとっていたし、話しかけても一瞥すらせず、問いかけに返事をしないことはよくあった。けれど、桜子が本当に困っているときや、本当に心から彼の答えを求めているときは、必ずきちんと応じてくれた。
彼はいつもその判断を誤ることはなかった。
それは彼が相手を無視しているのではなく、的確に観察しているからできることだと桜子は理解していたし、だからこそ彼の冷たい雰囲気にも挫けることなく話しかけることができていたのだ。
なのに、いま桜子の目の前にいる青年は、完全に桜子を無視していた。まるでどうでもいい虫けらがそこにいるだけとでも言うかのような、何の関心もない態度。
彼は姿形こそ桜子の知っている青年だったが、根本的なところで何かが決定的に違っている、そんな気がした。
誰も何も教えてはくれなかったが、ここが人界ではなく魔界なのだろうということだけは、桜子もなんとなく予想がついた。
広間にいたもう一人の銀髪の青年が、榛色の瞳をもつ青年──シエルのことを『シエルさま』と呼び、臣下の礼をとっていたからだ。
シエルが当たり前のように王として遇される場所といえば、魔界しか考えられなかった。
とはいえ、なぜ自分が魔界などにいるのか桜子には分からなかったし、そこで唐突に死ぬだの何だの言われても、理解不能なのは当然のことだったろう。
「どうして私が死ななきゃいけないのよ」
桜子が噛みつくように言うと、女は鋭い目つきに相反して、口もとにうっすらと笑みを浮かべた。
「それはおまえが不要な存在だからに決まっているでしょう」
「は? なに勝手なこと言ってるのよ。そんな理不尽な話、納得できるわけないでしょ」
「理不尽?」
ぎらりと、女の目が危険な光を宿す。
「理不尽なのはどっち? 納得できないのは私のほうでしてよ。私からキルを奪おうとするうえに、彼の命を危険にさらす存在なんて、不要以外の何ものでもないでしょう。もはや害悪だわ」
「雪人を奪う? “私から”……?」
女が急に饒舌になったことに驚きながら、桜子は女の言葉を鸚鵡返しにしていた。
女はすっと自分の胸に手をあてた。白い手首を飾っている何連もの金のブレスレッドがシャラリと涼やかな音を立てる。
「そうよ。キルは私のもの。そして、私はキルのもの。幼い頃からそうしてずっと一緒に過ごしてきたのよ。おまえの入り込む隙など、どこにもないの。そもそも人間のおまえなんて、彼の目に触れるだけでも許されないのよ」
桜子は鼓動が速くなるのを感じながら、目の前の女を凝視した。




