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「まったく……、桜には敵わないな」


 キルクは桜子を抱き寄せながら、遠くにいるシエルを思わずにはいられなかった。

 心を持たない人形同然のメルクリーズを、シエルはどんな思いで守っているのだろう。


 シエルはメルクリーズの悲惨な亡骸を目の前にしたとき、ひとしずくたりとも涙をこぼさなかった。

 陶器の人形を高いところから床に叩きつけても、もう少しマシな割れ方をするだろうというくらいの亡骸。

 首から上だけが、これ見よがしに綺麗に残っていた。真っ赤な海の上で。

 キルクの脳裏にですら、いまだに吐き気と共に蘇る光景。

 あれが桜子だったらと思うと、体が震えた。

 可能性がないことではないのだ。

 自分が桜子と結ばれた途端、メルクリーズの運命は桜子の運命になる。

 そう思うと、桜子に触れるたびに突き上げてくる歓喜は、胸が詰まるような息苦しさに取ってかわり、キルクはいつも歯噛みした。

 一度タガが外れてしまえば、歯止めなど利かなくなるのは目に見えていた。

 たった一度の理性の敗北がすなわち、桜子の死を意味する。


 王と呼ばれ、絶大な力を持つあのシエルですらメルクリーズを守りきれなかったのに、彼より劣る力しか持たない自分が、桜子を守りきれるとはとても思えなかった。

 桜子をあんなふうに喪ったら、自分は気が狂うのではないか。

 その恐怖こそが、常にキルクに理性を繋ぎとめさせていた。

 実際、シエルはメルクリーズを喪ったとき、涙をこぼさない代わりに、ただ無感動に、表情ひとつ変えず、次々と自分の配下たちや己の前に立ち塞がろうとする者たちを殺していった。

 最後の一人を殺すまで返り血をぬぐうことすらしなかった彼は、結果としてメルクリーズ以上に血に染まっていった。

 その姿はこの世のものとは思えないほど凄惨さを極め、魔界中の誰をも震撼させた。


 だが、キルクは知っている。

 リーンの命が絶たれた瞬間の、胸をえぐられるようなシエルの悲鳴。

 メルクリーズの死を知った瞬間の、今にも慟哭どうこくしそうな、それでいて虚無に満ちたシエルの表情。

 あまりにも大きすぎる痛みのせいで、シエルが感情を凍らせてしまったことを、キルクは知っているのだ。

 どうして彼をおいて、自分だけ安穏と暮らすことなどできるだろう。


 シエルの大切にしていた者の死と引き換えに出逢った相手だからこそ、シエルを裏切るようで、このまま自分だけ桜子のそばにいることを選択するなど、キルクにはできなかった。


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