エピローグ
「それで、シドのやつは、人界にばらまいたカシュインの種子、ぜんぶ回収したのかよ?」
「ああ。もう不要だと言ってな」
シエルの答えに、ソファに腰かけているキルクは、伸びをするようにして頭の後ろで手を組み、天井を見上げた。
「まったく……とんでもないやつだよな。アリシアの仮初めの命を維持するために、人間の命を使ってたなんて」
「魔界にあるカシュインのエネルギーは使いたくなかったんだろう。世界を維持する力を他のことに使うなど、シドにとっては言語道断だろうからな」
開け放している窓の外は、すでに深い闇につつまれていた。
夜風が、その場を満たしている甘い香りをさらっていく。
シナモンが混じったようなその甘い香りは、キッチンに立っている桜子とメルクリーズが作っているものから漂っていた。
「だけど、おまえはよかったのかよ? せっかく王の刻印が消えたのに、また刻印を復活させるなんて」
「やつに要求を飲ませるには、それしかあるまい。俺の影は、最後にリーンが意識を乗っ取っていたせいで、次の王に刻印をつけないまま消えてしまったからな。あれの力も、永久にはもたない。たとえ今は必要なくても、刻印を残しておくことはシドにとって無駄なことではない。刻印は影から傷を受けた者にしかつけられないから、俺がいなくなれば、その時点で完全に王というシステムは崩壊する。それよりはマシだと、シドも思ったのだろ」
シエルが刻印を復活させる交換条件として提示したのは、桜子の命を助けること、そして、今後いっさいメルクリーズと桜子に干渉しないことだった。
シドから教えられ、落命の地の胞子で侵されていた桜子の身は、アリシアの核に使われていた紅い石──カシュインの実を煎じて飲むことで、すでに元通りに癒えていた。
「そういえば、あのミギリの娘は、自分の家に戻ったのか?」
「ああ」
頷きながら、シエルは前日の、鈴音とのやりとりを思い出す。
『私、あなたの言っていたことが、少しだけわかった気がする。ミギリは魔族にしてみれば裏切りの一族だけど、その血をつくったマーヤには、彼女なりの理由があったのよね。それが正しかったかどうかは別だけど、末裔である私が、むやみに彼女を悪者にするのは、なんか違うわよね。私だから、彼女の気持ちを理解しようとしてあげられるのよね』
うつむきながら訥々(とつとつ)と話していた鈴音は、意を決したように、ふいに顔を上げた。
『あなたが兄さんを殺したのは事実だし、それは赦せないけど、兄さんは私に復讐してくれなんて言わなかったし、実際そんなこと言わないと思う。この先もミギリというだけで、私や私の周囲の人間が魔族から命を狙われることがあるかもしれない。だから、私が人とふつうに関わることはできないかもしれないけど、感情がないふりをするのはやめるわ。だってそんなの、嘘だもの。自分に嘘をつくから、本当の自分が消えそうで怖くなるんだわ』
まっすぐに己を見てくる鈴音に、シエルはふんと顎を上げた。
『ひとつ教えておいてやろう。おまえは今も変わらず俺の契約者だ。言ったろう。おまえのこの先の人生をもらうと。おまえはこの先もずっと俺の契約に縛られて生きる』
『それは……どういうこと?』
『魔族の中で、俺の契約者に手を出そうと考える輩などおらん。万一、そんな輩がいたら、俺が始末する。俺の名に傷がつくからな』
鈴音が呆けたように目をしばたたく。
『もうひとつ。おまえの兄は、俺が手を下したときには、すでに人ではなくなっていた。それをしたのがマーヤなのかシドなのかは分からんがな。まあ、いずれにせよ、おまえはおまえの好きに生きるがいいさ』
黙って頭を下げ、出ていった鈴音の後ろ姿が、とても凛としていたことをシエルが思い出していると、キルクが肘かけに肘をついて、気だるげにシエルに視線を向けた。彼はどこからか取り出した小さな置き物のようなものを左手の指先で転がしていた。
「だけどおまえ、なんでまた人界で暮らすことにしたんだよ? べつに俺に付き合ってくれなくていいんだぞ? 心配しなくても、俺は時がくれば魔界に帰るし、必要があるなら、いつでもシエルのところに駆けつける。ややこしい体質抱えてるのに、おまえがわざわざ人界で不便な生活することないだろ?」
「勘違いするな。俺はべつにおまえに付き合っているわけではない。メルクリーズが桜に懐いているから、それに付き合っているだけだ。どうせ魔界にいても、メルクリーズが行くところなどないしな」
「あー、なるほどね」
ふたりはキッチンで真剣な顔をして鍋の中を覗き込んでいる桜子とメルクリーズを見やる。
「記憶を消してやろうとしたら、メルクリーズが嫌がってな。落命の地に帰してやると言ったら、自分に死んでほしいのかと泣きそうな顔をするし、訳が分からん。ひとりで静かに死にたいと言っていたのはメルクリーズ自身だろうに」
「おまえ、それ本気で言ってる?」
「何がだ?」
「いや......うん。俺はふたりの馴れ初めを知らないし、俺が言うのも何だけど、おまえ、もうちょっとちゃんとリーズと話をしたほうがいいよ」
そう言って、困ったような顔でキルクは左手を握った。その手の甲には、ひとすじの傷痕があった。
キルクが魔界で受けた傷は、シドから貰い受けたカシュインの樹液とやらの一滴できれいに完治していた。それは一定量を超して身体に入れると、よほど身体をバラバラに切り刻まないかぎり、永久に身体が自己修復されるという代物なのだという。
それをもってしても消えない傷ということは、キルクが自ら魔力をこめて刻みつけたものなのだろうと、シエルは考えた。だが、いちいち尋ねるようなことはしない。
「ところで、それは何だ? おまえがそんなものを持っているなんて珍しいな」
「ああ…、これ?」
キルクが左手を開いて、手の中にあるものを見せる。
それはキラキラと光る透明な石でできた猫の置き物だった。縁側で丸くなって眠っているような小さな猫だ。その愛らしさはたしかにキルクに似つかわしくなかった。
「これは桜の友人の遺灰を結晶化させて作ったんだけど……、桜にどう言っていいやら。なかなか渡せないんだよな」
「おまえらしくないな」
キルクは黙って肩をすくめた。
「ほら、ここでこのミキサーを使って中身の半分をつぶすのよ。ああ、そんな持ち方ではダメよ。こうするの。まーくんは、ああ見えて食べ物には無頓着だからね。放っておいたら、果物なんてすぐ腐らせちゃうんだから。ちゃんと見といてあげないとダメよ」
厳しい口調で話す桜子の声が聞こえてくる。
「完全に嫁と姑みたいになってるな」
キルクは小さな猫の置き物をポケットにしまい、くすくすと笑った。
「どうでもいいが、わざわざこんな時間に料理などしに来なくていいだろう。桜に無駄に夜歩きをする癖をつけさせるな。あいつは無鉄砲が過ぎる。そのうち本当に死ぬぞ」
「そんなの、俺が今までに何回も言ってるよ。まあ、これからは夜におまえとリーズの魂を捜してまわることもないし、俺が桜のそばにいるから、心配いらない」
とはいえ……と、キルクは壁にかかっている時計を見やる。
「桜、そろそろ帰らないか。おまえ、明日も朝早いんだろ? 俺は起こさないぞ」
「ちょっと待って。もうすぐ出来るから。──ほら、メルクリーズ。あとはもう一度火にかけて……って、ちょっと、よそ見しないで。水分を飛ばし過ぎたらダメなんだからね!」
桜子に指摘され、あたふたと鍋をかきまぜるメルクリーズは、まさに姑に仕込まれる嫁のようだった。
「まあ、たしかにリーズはこっちにいたほうが退屈はしないだろうな。桜も世話を焼く相手がいたほうが楽しいだろうし」
そう言うキルク自身の目も楽しげに細められていた。
相変わらず見送りはいらないというキルクが、桜子を伴ってリビングを出ていったあと、シエルはまだキッチンにいるメルクリーズのもとに歩み寄った。
シエルに気づいたメルクリーズは鍋の中身をかき混ぜる手をとめ、振り返る。
「お料理って、たくさんの手順があって複雑なんですね」
それでもメルクリーズの若葉色の瞳はきらきらと輝いていた。
「見てください。私にもジャムが作れたんですよ。今度は桜子さんがこのジャムを使ったパウンドケーキというものの作り方を教えてくださるそうです。昌輝さんの好きなものだそうで。......シエルさんはお好きですか?」
「さあ、食べたおぼえがないから分からんが......」
「でも、昌輝さんはシエルさんですから、きっと味覚も同じですよね。私、たくさんお料理をおぼえますね」
「ずいぶん楽しそうだな」
「はい。私、今までまともに料理ができなくて、いつも申し訳ないと思っていたんです。シエルさんに美味しいものを召し上がっていただきたかったのに」
メルクリーズは握っていた木べらから手を離し、シエルのほうに向きなおった。そうして、真剣なまなざしで口を開く。
「シエルさん。私、あなたに言ってなかったことがあるんです。私は魔族としての力を持っていなくて、心も弱くて、いつも逃げてばかりで……。でも、死を目前にしたあのとき、やっと気づいたんです。とてもとても後悔しました。どうせ死ぬなら、誰を敵にまわしても、あなたにきちんと言っておくべきだったと」
メルクリーズは顔を上げ、シエルの瞳をまっすぐに見つめた。それはふたりが出逢ってから、およそ初めてのことだった。
「私はあなたが好きです、シエルさん」
シエルは咄嗟になにを言われたのか理解できなくて、何の反応もできずに立ち尽くした。
「私、ずっと......ずっと訊きたかったことがあるんです。シエルさんはどうして私といっしょに暮らしてくれたんですか? 私が知らないだけで、終生契約にはそういう制約でもあったんでしょうか? だとしたら、私はあなたに謝らないといけません。あなたを窮屈な生活に縛りつけてしまって......」
息をすることを思い出したかのように、シエルはゆっくりと息を吐きだした。
メルクリーズの肩にかかる髪をそっと後ろに払い、シエルは静かに言葉を紡ぐ。
「いや、そんな制約はないぞ。俺は最初から契約になんて縛られちゃいない。そんなもの、端から関係ない。ただ死んでほしくないと思ったから……、だから俺は、あのときおまえに心臓をやったんだ。終生契約などただの副産物だ。そんなものがなくても、俺はおまえと一緒にいた。俺がそれを望んで、おまえを生かしたのだから」
メルクリーズはゆっくりと瞬きを繰り返した。
「契約は、関係ない?」
「ああ」
「あなたは契約に関係なく、こんな私のそばにいたいと思ってくれていたのですか?」
「だから、そう言っている。おまえこそ終生契約のことなど気にしなくていい。もう城護たちから目をつけられることもないし、人界でなら他の魔族に怯えることもなかろう。もしもおまえが契約を破棄しての自由を望むなら、今度は俺の命をおまえにやろう」
「なにを......」
メルクリーズは言葉を失ってシエルを見つめた。
やがてその眼差しがふっと穏やかになり、口もとが優しく弧を描いた。
「私の望みは、あなたのそばで生きることです」
まっすぐにシエルを見つめ、メルクリーズが微笑む。
シエルは金縛りにでもあったかのように動けなかった。メルクリーズの澄みきった瞳に完全に心がとらえられる。ずっと絶対的な王として他者を圧倒して生きてきたシエルにとって、それはおよそ経験のないことだった。
気がつけば、シエルはメルクリーズを抱きしめていた。
胸の中から限りなく澄んだ液体があふれ、全身を包んでいくようだった。
「あのとき守ってやれなくてすまなかった」
口をついて出たのは謝罪の言葉だった。
ずっと胸につかえていた思い。
悔いても悔いても、シエルの肺腑を掻きむしりつづけた消えない後悔。
「謝る必要なんてないです。シエルさんはいつも出来るかぎりのことをしてくださっていました。むしろ私はあの瞬間があったから大切なことに気づけたんです。おまけに、私は今こうして生きています。すべてシエルさんが守ってくださったからです。シエルさんには感謝の気持ちしかありません」
メルクリーズの腕がそっとシエルの背中を包み込む。
抱きしめ返されて、シエルは無意識に瞼を閉じた。自然と呼吸がゆっくりになり、初めて肺の奥深くまで酸素が行き渡った気がした。
腕のなかにある温かさを、今度こそ離したくない。
焼けつくように思い、まるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。
シエルを抱きしめているメルクリーズの腕に力がこもる。そうして、腕のなかにいるメルクリーズがシエルの胸に顔を埋めたまま囁いた。
「シエルさん、愛してます」
シエルは言葉を返せなかった。
ただ強くメルクリーズを抱きしめる。
何もないのに、息ができなくなる。
なぜかは分からない。
けれど。
生まれてはじめて涙がこぼれた。
《了》
ここまでお読みくださって本当にありがとうございます。最後はやや長いエピローグになってしまいました。
この小説は、もともとは高校生のときに書いたものでした。夏だったのを憶えています。(だから主人公が高校生で、物語の冒頭シーンが夏なんです・笑)
大筋は変わっていませんが、ずっと心に引っかかっていることがあったので、それぞれの人物をより掘り下げるかたちで、大人になってから加筆修正した次第です。
ノートに3冊だったか5冊だったか……正確には忘れましたが、授業中にこっそりノートに書いていたような小説ですし、Web小説としては文章も構成も適さないものだったと思います。それでも最後まで自分が納得する作品を書き上げたかったんです。ずっと心に生きづらさを抱えた子供だった自分を忘れないために。そして、これからを強く生きていけるように。
そんな作品にもかかわらず、このような日陰に隠れまくっている小説に目をとめてくださった方には、ただただ感謝しかありません。
お読みくださった方の心に少しでも何か残るものがあれば幸いです。
『白い月』の物語としてはこれで完結になりますが、後日談のような物語もありますので、私の心が折れなかったら(笑)執筆したいと思います。
後日談とも言うべき物語はメルクリーズが主人公になりますので、『緑翠の妃』という別作品として掲載したいと思っています。
このような駄文にまで最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。