君に捧ぐ4
どこにそんな気力があったのか。それと意識する前に、昌輝は闇の化身と言うべき青年に飛びかかっていた。
力の使い方なんて分からない。けれど、感情の爆発に呼応したのだろうか。何かが昌輝の内から迸り、王の意識を昌輝に向けさせた。同時に、メルクリーズをつかんでいた右腕を断ち切ろうとするかのように襲いかかる見えない刃から逃れようとして、闇の王は後ろに飛びすさぶ。
投げ出されたメルクリーズは、人形のようにどさりと床に落ちた。
「大丈夫?」
昌輝がメルクリーズに手を差し伸べる。メルクリーズはじっとその手を見つめていた。
「…シエルさん……?」
ぽつりと呟き、メルクリーズの視線がおもむろに昌輝の瞳へと移される。
ツキンと、昌輝の胸が痛んだ。
「シエルさんなの?」
「俺は……」
差し出したままの手をぎゅっと握りこみ、昌輝はうつむいた。
「キルクは俺がシエルだって言うけど、俺自身はなにもおぼえてないんだ。だから……ごめん。キミのことも分からないんだ」
「それはそうだろう。おまえは俺ではないからな」
落ちてきた声に、肌が粟立った。
ぎこちない動作で後ろを振り返る。
「俺は憶えているぞ。その女のことも、その女が死んだあとのことも。俺がその女の肉体を蘇生し、魂を集めたのだ。我が過ちを償うために。もともとは俺が与えた命。俺自身の手でその命を摘み取り、力を世界へと返すためにな!」
闇の王が手を振り下ろすと同時に、風が鋭く唸りを上げる。
「ああぁぁ──ッ!!」
とっさにメルクリーズを抱えこんだ昌輝の右肩に、燃えるような熱と痛みがはしる。
「ふん。寿命を縮めたければ、好きなだけ邪魔をするがいい。どうせ無駄だがな。……おまえが宿す俺の力も、返してもらうぞ」
痛みで右腕にまったく力が入らなかった。
必死に立ちあがろうとするが、片手ではどうしても床に倒れたままの状態でいるメルクリーズを抱え上げることができない。
もうダメかと、覚悟を決めて、昌輝はメルクリーズをかき抱き、かたく目をつぶった。
だが、いつまでたっても覚悟した痛みは襲ってこなかった。かわりに、どんっと、何かが鈍く昌輝の背中にあたった。
おそるおそる目を開けた昌輝の視界の端に、何か栗色のものがちらつく。
それが何であるかを認識したとたん、昌輝は呼吸の仕方を完全に忘れた。
「桜子さん──!」
「ちっ。また邪魔か。鬱陶しいやつらだ」
「桜子さん! なんで……っ。桜子さんっ! しっかりして!」
腹部から大量の血が出ていた。見る間に、昌輝の膝もとが血の海に染まっていく。
「桜子さん! おねがいだよ。目を開けて! おねがいだからっ」
「……まー……く、ん……」
「なんでこんな無茶なことするんだよ! なんで……!」
「……あなた…は、ゆき…の、大事な……だから……」
喘ぐようにしていた桜子の呼吸がふっと途切れる。
「桜子さん!? 桜子さんっ! やだよ。死んだら嫌だ! 桜子さんっ!!」
ふぅと、細い息が桜子のくちびるからこぼれた。
「──キル……ク」
ふるえるくちびるで、桜子はたったひとつの名を紡ぐ。
それは、彼女の大切な存在を、あらゆる縛めから解き放つ呪文。
桜子だけに許された力。
ひとりの青年を、他のあらゆる縛めから解き放ち、桜子だけへと繋ぎなおす鎖の言葉。
「さくらっ!」
それはまさに瞬きの間だった。昌輝が気づいたときにはもう、マーヤの手から逃れたキルクが桜子を抱きかかえていた。
「この馬鹿っ! さっきの俺の話を聞いてなかったのか! 生きることを考えろって言っただろうがっ。なんでこんな無茶苦茶をするんだっ!」
「前に言ったで……しょ。あなたのいちばんは、シエルでいい、って……。さきに死ぬ、私じゃ……なくて」
「馬鹿っ! なんだよそれ。一番とか二番とか、何なんだよっ。桜がいなくてシエルがいればいいとか、そんなわけあるか! 桜は桜だろっ。俺にとっておまえは一人しかいないんだ! 代わりなんていないんだ!」
「キルク……。ごめん、俺が……俺のせいで……」
キルクの着ている白いシャツが真っ赤に染まっていく。
血のにおいに、胸がやける。
「大丈夫だ。おまえが謝る必要はない。桜は死なせたりしない。絶対、こんな死なせ方はさせない。たとえ俺の命に代えても」
「ならば、言葉どおり、あなたの命に代えていただきましょう」
落ち着き払ったシドの言葉に呼応するかのように、無数の何かが床を突き破り、目にもとまらぬ速さでまっすぐにキルクを貫いた。
「キルク……っ!!」
「…な……に……っ!」
キルクを貫いたそれらは、そのままキルクの身を絡め取り、縛りつける。
「こ、いつは……」
「そう。それはカシュインの母体。この世界を支える根幹の大樹です。生身ではエネルギー吸収の効率が悪いのですが、この際仕方ありません」
「こ……の…、ふざけんじゃ……っ!!」
キルクの言葉は、それ以上紡がれることがなかった。床下から伸びてきた触手がキルクの胸を刺し貫いていた。
「死んでしまってはエネルギーになりませんからね。少々苦しいでしょうが、カシュインがあなたの力をすべて吸収し尽くすまでお待ちなさい。すべて終われば死ねますから」
ぽたぽたと、昌輝の目の前で血の雨が降る。
「…………やめろよ」
昌輝の目は呆然と虚空を見つめる。
「なんでだよ」
足もとには血に染まった桜子が横たわっていた。彼女の目は閉じられたままだ。
「なんで、こんなこと……」
──いつも、そうだ。
いつも、みんな死んでいく。
自分のせいで。
昌輝の脳裏に、昌輝の記憶にはない光景が次々と浮かんでは消えていく。
それはすべて凄惨な血の記憶。
生まれ落ちた瞬間から、全身に鮮血を浴びた赤子。そばにいる女の顔は見えなかった。真っ赤な血に染まっていたから。
近寄る者は、すべて一様に深紅に染まった。
いつしか、血のにおいが染みついて離れなくなった。
王と呼ばれ、向かってくる者たちを切り捨てる日々。
やがて、なにも感じなくなっていく。耳をつんざくような悲鳴も、血のにおいも、肉を裂く感触も。
なにも、心を動かさなくなっていく。
心が、少しずつ、壊れていく──。
「シエルさん!」
ぐいっと、誰かが強く昌輝の腕を引いた。
「しっかりしてください。あなたはこんなところで呆けて立ち止まる方ではないはずです。誰よりも繊細で傷つきやすいけれど、誰よりも強い方です。シエルさんは冷酷な心ない者じゃない。心ある者だから、いつも私に手を差し伸べてくれたんです。本当のシエルさんは、あの青年みたいにキルクさんが傷ついているのを前にして、平然と立って眺めてたりしません。絶対です。私は、本当のシエルさんを知っています!」
「キミは……」
自分の腕をつかみ、力強いまなざしを向けてくる女性を、昌輝はぼんやりと眺める。
(──ああ、知っている)
昌輝は無意識のうちに、メルクリーズの手に自分の手を重ねていた。
(俺は、この手のぬくもりを知っている。この手が、いつも俺の手を握りかえしてくれた)
けれど、頭の中に靄がかかっていて、それ以上のことは思い出せなかった。
いま目の前にいる女性の名前は知っている。自分と終生契約を結んだ……つまりは、婚姻関係にあった女性であったことも知っている。でもそれは、キルクから教えられた知識でしかない。
いったい彼女は自分自身にとってどんな存在だったのか。
知識ではなく、言葉ではなく、もっとあやふやで、もっと確かなもの──彼女への想いが、なにも思い出せない。
微動だにしない昌輝を叱咤するように、メルクリーズが反対の手で昌輝の肩をつかんだ。
「これはあなたの力です。あなたに返します」
昌輝は目を瞠った。
拒否する間もなく、メルクリーズのくちびるが昌輝のそれと重なる。
とたんに、何かが昌輝の身体のなかに流れ込んできた。それはまさに力と呼ぶべき形なきもの。
頭の中で、何かが組み換えられていく。昌輝としての記憶が、感情が、薄れていく。
まるで布にインクが染みていくかのように、じわじわと溢れてくる何かが滲んで広がり、やがて昌輝としての意識を覆いつくす。
意識が闇に沈む最後の瞬間まで昌輝のなかに残っていたのは、腕をつかんでいるメルクリーズの手のぬくもりだけだった。