運命の血3
石造りの廊下は、窓からたっぷりと陽光が入りこんでいるにもかかわらず、なぜか冷気が腕や背筋を這うようだった。
それは廊下全体が白い石で造られており、冷たい雰囲気を醸し出していたせいかもしれない。天井は複雑な彫刻と絵画で飾られていたが、その絵画も青を基調としたものばかりで、まるで雪の降りつもる冬を思わせた。
そもそもここは今、冬の入口なのか、陽が昇っても肌寒かった。
必要以上に寒く感じられるのは、身の内に巣食った胞子のせいか。
キルクがいれば、迷惑そうな顔をしながらでも、いつも上着を貸してくれるのだが、ここにはそんな心遣いをしてくれる者はいなかった。
仕方がないので、桜子は先ほどまでいた部屋の小卓を飾っていたテーブルクロスを拝借して肩に掛けていた。
それを見たアリシアは明らかに馬鹿にしたように鼻で笑ったが、桜子は気にしなかった。
カツカツと、いくつもの靴音がゆっくりと、そして高く響きわたる。
(どうしよう。このままじゃ、メルクリーズはシエルに殺されてしまう。なんとかしなくちゃ)
前を歩くアリシアとメルクリーズの背中を見つめながら、桜子はギリリと奥歯を噛みしめた。
メルクリーズは鎖で後ろ手に縛めを受けていた。その足取りはどこかぎこちなく、時折、立ち止まることがあった。一度など、そのまま後ろに倒れかけ、あわてて桜子が支えたほどだ。そんなときのメルクリーズの目は何も映しておらず、まるでガラス玉のようだった。
「もう、面倒ね。歩くくらいまともにできないの?」
「仕方あるまい。ひとつの肉体に無関係な複数の者の魂を入れているのだ。互いに鬩ぎ合って、精神や肉体に異常をきたして当然だ」
こともなげにマーヤが言う。
「まったく……鬱陶しいわね。どこまで手間をかけさせるのかしら。これだから力無き者は嫌いなのよ」
アリシアは自らの黒い衣装の袖口を美しく彩っているターコイズブルーのリボンを引き抜くと、そのままメルクリーズに向かって手首を返した。
リボンはまるで蛇のようにするするとメルクリーズの腰に巻きついた。リボンの先端は、アリシアが握ったままだ。
「次に気を失ったら、そのまま引きずって行ってあげるわ。どうせおまえには泥だらけの姿がお似合いなんだから、ちょうどいいでしょ」
そう言うと、アリシアはもうメルクリーズには見向きもせずに、前へと進んでいく。
桜子はこの状況を打開するために役に立ちそうな情報を求め、必死に魔族に関する記憶と知識を振り返った。
キルクがあまり話したがらなかったため、桜子が魔族に関して知っていることはそう多くない。それでも、何とか有効そうな知識を引き当て、桜子は口もとを引き結んだ。
(私に出来ることは二つ。ひとつは雪人を呼ぶこと。もうひとつは……)
桜子は髪を梳くふりをして、気づかれないように右耳のピアスを外した。長い髪が耳もとを隠してくれるので、それはさほど難しいことではなかった。
シエルの力を宿しているメルクリーズとは違い、死が目前に迫っている無力な人間など取るに足りないと思っているのか、後ろにぴったりとマーヤが付いてはいたものの、直接的には桜子は何の縛めも受けてはいなかった。
どこまでも続くように思えた廊下にも、やがて終わりが見える。
重厚なオークの扉の前で、アリシアが立ち止まる。同時に、それまで後ろからついてきていたマーヤが前に出た。
(今だわ!)
桜子は手にしていたピアスでマーヤの腕を一直線に掻いた。素早く反対の手で、その腕に触れる。
軸がまっすぐなスタッドピアスは、皮膚に傷をつけることができる。そして、マーヤの血はミギリの血。魔族を殺すことができる血。
桜子はそのまま腕を大きく横に薙ぎ、アリシアの手の甲にも傷をつけ、マーヤの血が付いた手で素早くアリシアの手をつかんだ。
「なに? 薄汚いネズミが、最後のつまらない抵抗?」
不快そうな顔をしてアリシアが手の甲のかすり傷を舐める。
「アリシア! おまえ忘れたのか! 私のこの身はミギリの肉体だ。私の血はおまえにとってそのまま毒だぞ!」
「……っ!」
アリシアが驚愕の表情で己の手の甲を眺め、そして、桜子を睨みつける。
だが、そのときにはもう桜子はメルクリーズを連れて走りだしていた。途中にある曲がり角を右に左に、でたらめに走る。
「キルクっ!」
走りながら、けれど、はっきりとその名を呼ぶ。
どんっと、そのまま勢いよく桜子は何かにぶつかった。とっさに身体を引き、体勢を整えようとした桜子は、なぜか逆に身体が前方に引き寄せられた。抗うひまもなかった。
「おまえ、呼ぶの遅い!! 何やってたんだ!」
「ゆきと……」
自分を力いっぱい抱きしめているのが、たった今、己が呼んだそのひとだと知る。
「バカ桜。心配しただろ」
耳もとで囁かれるその声は、今にも消え入りそうだった。
桜子はぎゅっとまぶたを閉じ、彼の背に腕をまわした。しがみつくように。
お互いの体温が交わり、ゆっくりと溶けていくのを感じる。
──会いたかった。
胸の奥底から強烈に突き上げてくる想いは、もはや声にすらならなかった。言葉の代わりに、抱きしめる腕に力がこもる。
「あの……ふたりとも、水を差すようで悪いんだけど、再会を喜ぶのはあとにしたほうがいいんじゃないかな。誰かがこっちに来る」
キルクの背後から遠慮がちに声をかけてきた少年を見て、桜子は目を瞠った。
「まーくん!? どうしてあなたがここに──」
「それはこっちのセリフだ。……なんで、リーズがここにいる?」
桜子を腕に抱えたまま、キルクが信じられないといった様子で、呆然とメルクリーズを見つめていた。
「話はあとよ! 後ろからアリシアたちが追って来てるの!」
怒りの形相で追ってきていたアリシアが、今まさに床を蹴り、桜子たちに向かって跳躍するのが見えた。
チッと舌打ちし、キルクは天井に向けて力を放った。とたんに天井が崩れ落ち、道を塞ぐ。同時に、舞い上がる粉塵が煙幕の役割を果たした。
「来い。こっちだ」
「雪人、私よりメルクリーズを! 身体が自由にならないみたいなの!」
「わかった。おい昌輝、はぐれんなよ!」
キルクは素早くメルクリーズを縛めている鎖を断ち切ると、そのまま抱え上げた。そして、三人は城のなかをひたすらに駈けるのだった。