運命の血2
「雪人ってさ、なんで桜子さんが好きなんだ?」
「はあ? いきなり何だよ」
「いや、なんとなく。おまえって人間じゃないんだろ? 種族違うのに、ほんとに本気で桜子さんが好きなのかなって思っただけ」
キルクは昌輝から顔を背け、見るからにムスッとした顔になった。
「本気だったら悪いかよ。なんでかなんて、俺のほうが訊きたい」
「人間じゃないおまえと一緒になるって、どうなんだよ。桜子さん、それで幸せになれんの?」
「何が言いたい?」
横目で睨まれたが、昌輝はふしぎなくらい平静に、キルクのきつい視線を正面から受け止めていた。
「同じ人間同士でもなかなか分かりあえないものなのに、魔族のおまえが人間の桜子さんを幸せにしてやれるのか?」
魔族というものがどんな生き物なのかは分からなかったが、昌輝のなかで、そんな疑念が湧いていた。
桜子には幸せになってほしい。彼女には、溌剌とした笑顔こそが似合う。
だから、昌輝は確かめたかった。キルクの真意を。
桜子が彼といて幸せになれるのかどうかを。
ふつうの人間ならば、竦みあがるような冷酷な視線にも少しも怯む様子がない昌輝に、キルクは観念したように大きく息をついた。
うつむいたキルクの横顔は、艶やかな漆黒の髪に隠されて見えなかった。
「……答えは、限りなくノーに近いだろうな。俺と一緒にいても、いろんな意味で、桜はリスクを負うばっかりだ。けど、それは俺も同じなんだよ。お互い、良いことなんて一つもありゃしねえ。こんなの……やめられるものなら、今すぐにでもやめたい。気持ちを離す方法があるなら、心底教えてほしいよ。まあ、おまえに訊いたって意味ないだろうけどな」
「どういう意味だよ」
キルクが顔を上げる。その口もとには皮肉げな笑みが浮かんでいた。
「おまえは俺に偉そうに説教できる立場じゃないってことだよ。……いや、おまえだからこそできる忠告か? どっちにしろ、ひとつだけ言っておく。桜は誰かから幸せを与えてもらおうなんて考える女じゃない。あいつは、そんな安い女じゃない。それに俺は……」
右足を引き、昌輝に正面から向き合うかたちをとったキルクの瞳には、力強い光が宿っていた。
「桜と出逢ったことを無かったことにしたいとは、思わない。思えないんだよ。まったく、嫌になるな。矛盾だらけだ」
最後は苦笑いで言う。
「おまえ……」
悲しいのな。
声にせず、昌輝が呑み込んだ言葉。無意識のうちに、今度は昌輝のほうがうつむく。
沈黙がふたりの間に横たわる。
……と、ふいにキルクが空を見上げた。
「──できた」
「え?」
ぐいっと、キルクが昌輝の腕をつかむ。
「標ができた。桜が呼んでる。行くぞ!」
▲ ▲ ▲
彫刻のほどこされた大理石のマントルピース。その奥でオレンジ色の光が揺らめいていた。時折、ぱちぱちと薪の爆ぜる音が、天井の高いその部屋で静かにとける。
「おかえり。無事に帰って来たようね」
部屋の中央にある木製の椅子に腰かけ、物憂げにテーブルに肘をついていたアリシアが、クスクスと笑いながら視線を上げた。
「ふぅん。その女が王の? 随分とつまらない女ね」
立ち上がり、アリシアは部屋に入ってきた女たちに歩み寄る。その足音は、毛足の長い絨毯に完全に吸い込まれた。
まるで重さなどないかのように軽々とメルクリーズの肉体を肩に担いでいるマーヤには目もくれず、アリシアはメルクリーズの顔を覗き込んだ。
「力はないと聞いていたけど、容姿まで平凡じゃないの。こんなのあんた以下ね。視界に入れる価値もない」
そう言って、ちらりと桜子に目をやる。
「あんたたち、メルクリーズに手を出したら承知しないわよ」
「ほう? いったいどうするつもりだ? そんなザマで」
嘲るように、マーヤが桜子を見る。
ギリッと、桜子は奥歯を噛みしめた。
「どうやら人間だと胞子のまわりも早いようだな。あと二日……いや、一日もつかな」
「まったく人間っていうものは本当に脆弱ね。先にその娘に死なれては困るわ。マーヤ、早く魂を移してしまって。王はどこ? 処刑を執行する者がいないのでは始まらないわ」
「まあ、そう急くな。シエルはシドのところだ」
マーヤは絨毯の上にメルクリーズの身を下ろした。
「だが、シドから埋め合わせの魂は預かってきている。どんなやつらの魂かは知らんがな。雑多な魂を混ぜて外見が化け物同然にならなければいいが」
マーヤが笑う。
「まあ、大方人間の魂だろうから問題ないだろう。核となる魂は私が持っているしな」
メルクリーズはウエストをリボンで絞っただけのシンプルな純白のワンピースを身にまとっていた。無造作に転がされたメルクリーズの長い赤銅色の髪が、乳白色の絨毯の上にひろがる。
それがまるで血を連想させ、桜子は思わず両腕を抱えた。
マーヤがメルクリーズの傍らに屈みこむ。
「やめなさい! あんたたち、自分が何をしているか分かっているの!?」
「もちろん分かっていてよ。おまえこそ、自分が何をしているか分かっているの? おまえがいるかぎり、キルは死を免れないの。シドさまがお許しにならないからね」
後ろから羽交い絞めにされ、桜子は身動きがとれなくなる。
「あの女も、おまえと同じ。身の程をわきまえない者は、己の我儘のツケを周囲に払わせようとする。でも、そんなの間違っていると思わなくて? ツケは、自分で払うべきでしょう」
アリシアが話している間にも、マーヤは黙って手をかざし、メルクリーズの肉体に魂を移していた。その形のよいくちびるに、酷薄な笑みがはっきりと刻まれていく。
「さて、気分はどうかな?」
ぴくりと、メルクリーズの指先がわずかに動いた。それを見て、桜子は全身から力が抜けていくのを感じた。縛めでしかなかったアリシアの腕が、今は桜子の身を支えるものとなっていた。それがなければ、きっと床にへたりこんでしまっていたことだろう。
ゆっくりとメルクリーズがその身を起こす。
「……だれ? わたし……どうしたの……」
弱々しい声だった。
小川のせせらぎのように心地よい声は、すこしの雑音にも掻き消されてしまいそうなほど、まったく己の存在というものを主張することがなかった。
(なんて愛らしいひと……)
桜子は絶句した。
容姿はたしかにとくべつ優れているというものではない。洞窟で眠っている姿を見たときも、彼女の容姿そのものではなく、シエルの想いが彼女に美しさを添えているのだと思った。
けれど……、けれど。
実際に目覚めたメルクリーズを目にして、桜子は自分の考えが半分誤りだったと知る。
純白のワンピースは、メルクリーズが生前から好んで着ていたものなのか、シエル自身が彼女ために選んだものなのかは分からなかったが、まさにメルクリーズのもつ雰囲気にこれ以上ないほど調和した衣装だと思えた。
風に揺れる小さく可憐な白薔薇に寄り添う精霊がいるとしたら、このような姿なのではないだろうか。
やさしく、穏やかな雰囲気は硝子細工のようで、その繊細さと脆さは、目にする者に愛しさを抱かせる。
手を伸ばし、そのやわらかそうな頬に触れたいと、笑った顔を見てみたいと、無意識に思ってしまう。
「ここは……、どこ?」
ゆっくりと瞬きを繰り返し、おもむろに周囲を見まわすメルクリーズに、マーヤが笑いを含んだ声で答える。
「ここは王城だ」
「おうじょう……?」
メルクリーズの目は、まだどこか虚ろだった。
「おまえ、私のことは憶えていような? よもや忘れたとは言わせんぞ。我が兄上を傷つけた身で」
「あに……? 傷つけた? ……ああっ!」
メルクリーズは両手で口を押さえた。その目がはっきりとマーヤの姿をとらえる。
「あなた、まさかリーンさんの、妹の……。マーヤさん? でも、姿が……」
「ふん。私はおまえらのおかげで一度死ぬハメになったゆえな。これは違う者の肉体だ」
「いったい何がどうなってるの? 私は……そう、私は死んだはずよ。あのとき、シエルさんの配下たちが来て……。シエルさん……シエルさんは……? 彼は!?」
メルクリーズが身を乗り出す。
「案ずるな。すぐに会える。やつもおまえに会うのを楽しみにしているだろうさ。ようやく長年の憂いを消し去ることができるのだからな」
「これで役者がそろったわけね。さあ、ショーを始めましょう。この娘が生きているうちに」
アリシアは羽交い絞めにしていた桜子を放し、楽しげな笑みを浮かべた。
マーヤも酷薄な笑みを口もとに飾ったまま扉へと足を向ける。
「さあ、行こうか」