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思惑2


    ▲  ▲  ▲


 ぴたん、ぴたん……と、奇妙な音が鈴音の耳朶を打っていた。

 その奇妙な音は、思いのほか近くで聞こえている。

 音の正体を知ろうとまぶたを押し上げた鈴音は、思わず悲鳴を上げた。


「な……、なに。何がどうなって……っ」


 目の前に真っ赤な血だまりがあった。そこに深紅のしずくが新たにいくつも落ち、ちいさな飛沫を生んでは床を毒々しい色で侵食していた。

 鈴音はとっさに後退ったが、すぐにバランスを崩しておかしなかたちで倒れそうになる。そのときになって、ようやく自分が床に座り込んでいたことに気づく。


 血だまりから逃げるように限界まで踵を自分の身に寄せ、落ちてくる深紅のしずくをたどって視線を上げた鈴音は息を呑んだ。もはや悲鳴は喉の奥でつぶれ、声にならなかった。

 天井から、ひとりの幼い少女が吊るされていた。

 ぐったりとうなだれている少女の顔は、長い黒髪に隠れて見えない。その黒髪も血に濡れているのか、艶はなく、異様に重々しかった。


 部屋は薄暗かったが、天井近くの小さな明かりとりから、わずかに白い光が差し込んでいた。

 縄で縛られている少女の手が、ぴくりと動いた。


(生きてる!?)


 鈴音はとっさに立ち上がり、少女に手を伸ばした。


「ねぇっ、あなた、もう少しがんばって。いま助けてあげるから!」


 少女を束縛している縄に手をかけようとした鈴音の手は、しかし、するりと空を切った。


「え?」


 今度はゆっくりと慎重に縄に触れようとしたが、やはり鈴音の手は縄をすり抜けた。


「まったく、まだ生きているのか。おまえのそのしぶとさには、いいかげん辟易するね」


 ハッと振り返ると、そこには見知らぬ女が血まみれの剣を片手に立っていた。

 鈴音は恐怖で身がすくんだ。

 女の声には苛立ちが混じっていたが、その顔は愉しげに笑っていた。その視線は、天井から吊るされている少女一点に注がれている。


「そろそろ本当に死んでもらおうか。おまえが死ねば、あの子は本物になれる。いずれあの子は誰よりも強く美しい、立派な魔族の王となろう。マーヤ、おまえさえ死ねばな」


 え? と、とっさに鈴音は少女を振り返った。

 この今にも事切れそうな幼い少女がマーヤだというのか。


(……ああ、私はまた夢を見ているのね。だから、私の姿は彼女たちには見えないんだわ)


 その考えが正しいとでもいうかのように、女の視線はちらりとも鈴音に向けられることはなかった。

 女はそのまま剣を振り上げ、ぴたりと少女の左胸に突きつけた。


    ▲  ▲  ▲


 力がモノを言う世界であり、気まぐれな魔族にとって、家族という感覚は希薄だ。

 だいたいは男も女も、ほんのひととき時間を共に過ごし、気儘に離れてゆく。

 盲目的にひとりの相手に執着することがあるのも魔族のさがのひとつではあったが、それはけっして家族になりたいなどという思いに結びつくものではなく、ただ己の所有物として手に入れたいという思いによるものでしかない。

 それゆえ子供になどまるで興味がなく、生まれた子供が捨てられることなど珍しくはなかった。

 子供も、親に捨てられたからといって、なんら親を恨むことはない。まわりが子供を憐れむこともない。魔族の間では、それがふつうのことだからだ。

 生き残れないのであれば、それはその子供に力がなかっただけのこと。生きる価値がなかっただけのこと。

 魔族の子供は生まれたときからものを理解し、自力で立つことができる。

 生き残れるか否かは、弱者を狙って襲ってくる者を退けるだけの力があるかないかにかかっている。


 マーヤも生まれてすぐ親に捨てられたが、彼女には力があった。たとえ幼かろうとも、生き抜くには十分だった。

 それに、マーヤはひとりではなかった。いつも傍らには双子の兄、リーンがいた。

 だが、それがまた同胞から迫害される理由でもあった。

 魔族の双子は、すなわち出来損ないを意味するからだ。

 本来、魔族は紅い瞳を有しており、それを封じることで力の暴走を防いでいる。

 ところが、魔族の双子は例外なく黒い瞳をもち、力の暴走を防ぐためには、常に二人がある一定の距離にいなければならない。

 それが煩わしいと、黒い瞳で生まれた者は、幼い頃に片割れを殺すのだ。

 そうして片割れの力を手に入れることで、紅い瞳をもつ完全な魔族となることができる。じつに簡単なことだ。

 けれど、マーヤとリーンは、いつまでたっても二人のまま──黒い瞳の、不完全な魔族のままだった。


「そろそろ本当に死んでもらおうか」


 幼いマーヤとリーンを拾い、育てていた女が、マーヤに剣を突きつける。

 マーヤが身体を縛めている縄をいくら引きちぎろうとしても、縄に何か術でも編み込まれているのか、まったく力が出なかった。

 さんざんに痛めつけられ、すでに意識は朦朧としていた。流れる血が目に入り、左目はかすんでもうよく見えない。


「おまえが死ねば、あの子は誰よりも強くて美しい完全な魔族になれる。考えるだけで胸が高鳴るわ」


 どこかうっとりした様子で女が言う。

 女が自分たち出来損ないの兄妹を手もとに置いたのは、リーンのためだということは薄々気づいていた。

 出来損ないとはいえ、二人は魔族のなかでもかなり強い力を持っていた。力を二分している状態でそうなのだ。それがひとつとなり、ひとりの完全な魔族となれば、まさに王となるに相応しいだけの力を持ち得る。

 リーンもマーヤも力量はまったく同じ。

 魔族の王は単純に力の強い者がなるため、性別など関係なかったが、力量がまったく同じとなれば、他者を惹きつける不思議な空気をまとうリーンのほうを選んで当然と言えた。


 マーヤさえ死ねば、リーンは行動を制限されることなく、完全な魔族として生きられる。

 こんな女にこんな無様な殺され方をするのは不愉快だったが、それでも兄が自由に生きられるのならば、このまま死んでもいいかと、マーヤはうつむいたままわずかにくちびるの端を引き上げた。

 左胸に突きつけられていた冷たい白刃が、勢いよく心臓を喰らうためにわずかに引いた。


「待てっ!!」


 部屋の扉が勢いよく開け放たれたかと思うと、目の前に立っていた女がふいに倒れた。

 カチャンと、剣が床に落ちる音が異様なほど大きく響いた。


「マーヤ! なんてことを……っ!!」


「……にいさ、ま……」


「いい。喋らなくていい。いま助けるからっ」


 縄が断ち切られ、宙に投げ出されたマーヤをリーンがしっかりと抱きとめる。

 この世でいちばん安心できる場所。

 思わずリーンの背に腕をまわそうとしたマーヤは、己の腕をつたう血を目にして我に返った。


「兄さま、だめ。汚れてしまう」


「なに言ってるんだ、こんなときに! いいからここで少しじっとしてて」


 ふと、マーヤはリーンの身体が小刻みに震えていることに気づいた。


「兄さま?」


「──まったく、動けたなんて驚きだね。あれは一滴でどんな大男でも動けなくする薬なんだがね。やはりおまえは王になるにふさわしいよ」


 起き上がった女が、笑いながらリーンを見ていた。


「おまえ……!」


「いい。大丈夫だ、マーヤ。落ち着いて」


 力いっぱいマーヤを抱きしめるリーンは、彼女の耳もとで「ここにいて」と囁きを残し、女のほうへと歩み寄った。


「誰であろうと、マーヤに手を出すことはぼくが許さない」


 険しい声でリーンが言う。

 女は肩で切り揃えた蜂蜜色の髪を耳にかけ、床に転がっている剣を拾い上げた。


「リーン、目をお覚まし。その娘が死ねば、おまえは自由になれるんだよ。その娘の存在など気にせず、いつでも好きなときにどこでも思う場所へ行ける。王になれるだけの力も手に入るんだよ」


「それが? ぼくは自分が不自由だなんて思ったことはない。行きたい場所にはマーヤと行く。王にもなりたいと思ったことなんてない。忘れた? あなたのもとに留まる条件を。ぼくたちふたりでいること。それは〈黒の種〉ゆえの条件じゃない。あくまでもマーヤに害を為すつもりなら、あなたに死んでもらう。脅しではなく、ぼくにならそれくらいできると分かるよね」


「おまえは思考まで不完全なのかい? 理解できないね。完全な魔族になれば、おまえは魔族の頂点に立てる存在なんだよ!」


 女は勢いよく剣を薙いだ。空気の刃が床をえぐりながらまっすぐにマーヤに向かう。

 足にうまく力が入らず、目を見開いたまま動けないでいるマーヤを、横から力強い腕がさらう。

 後ろで派手に壁が崩れる音がした。


「ぼくはさっき言ったよね。マーヤに害を為すなら、死んでもらうと」


 マーヤが横を見ると、リーンは冷静そのものの表情で女を見上げていた。いつも穏やかな光をたたえているリーンの目が、別人のように鋭かった。


「どうしてあなたたちはぼくらの邪魔をするの? ぼくにはあなたたちの思考のほうが理解できないよ」


 マーヤを脇に抱えたまま、リーンは女の懐に入り込むと、その手首をつかんだ。とたんに女の身体が幻ででもあったかのように、塵となって消える。

 返り血が飛ばないようにすべてを蒸発させたのだと、マーヤは漠然と理解した。


「兄さま、ごめんなさい……」


「どうしてマーヤが謝るの? 謝るのはぼくのほうだ。こんな目にあわせてごめん。もう行こう。今度はちゃんとふたりだけで」


「兄さま、ほんとうにいいの? ほんとうに私がいていいの? 私さえいなければ、兄さまは……」


「マーヤ。それ以上言ったら怒るよ。マーヤを失って得られるものに何の価値がある? ぼくはそんなもの欲しくない。ぼくらは今のままでも十分に自由だ。それとも、マーヤはぼくがいると不自由だと思ってる? ぼくの存在が邪魔かい?」


 マーヤはあわててリーンの肩口の服をつかみ、必死にかぶりを振った。


「そんなわけない! そんなこと、一度も思ったことない!」


 ふっとリーンは口もとをほころばせた。

 マーヤをしっかりと横抱きに抱えなおすと、額と額をくっつけて、リーンが囁く。


「だったら、ぼくも一緒だ」


 ──そう、言っていたのに。

 いっしょだと、言っていたのに……。


 


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