思惑1
振り返ると、楕円に切り取られた森の景色が見えた。
降り注ぐ木漏れ日は穏やかだったが、目を細めて大きく深呼吸するような気持にはならなかった。
足もとは苔むした岩だらけで、少しでも気を抜けば、そのまますべって何メートル先まであるかも分からない洞窟の奥へと転げ落ちてしまいそうだ。
額に浮かぶ汗をぬぐい、桜子は前を歩くシエルに視線を戻した。
「ねえっ、もうちょっとゆっくり歩いてよ。それに、明かりがないと、私はこれ以上あなたについていけないわ」
すでにシエルの後ろ姿も闇に溶けようとしていた。
だが、シエルは立ち止まる様子も、歩く速度を落とす様子もなかった。
「シエルってば! ちょっと待ってよ。私がはぐれたら、探す手間ができて面倒なのはあなたなんじゃないの? なにも抱えて行ってほしいとか言ってるわけじゃないんだから、少し待つくらいのことはしてくれてもいいでしょ! 魔族の王さまって、ずいぶんと心が狭くて器が小さいのねっ」
ぴたりと、シエルが足をとめた。
ゆっくりと振り返る。
「貴様、そんなに死にたいか」
「あら。私、以前あなたに言わなかったかしら。死にたいと思ったことなんかないって。忘れたの? 私に自殺願望なんてものはないわ。だけど、だからって他人の顔色をうかがって生きるのも私の性に合わないの」
シエルに追いついた桜子は、まっすぐにシエルの目を見た。まったく恐ろしくないといえば嘘になるが、それ以上の怒りが桜子を支配していた。
同時に、確信する。いま目の前にいる青年は、昌輝という人格を擁していたシエルとは別人であると。
シエルは、これまでに桜子に死をにおわせたことなど、たったの一度もないからだ。
それは桜子自身がシエルにとって特別な存在だったからではなく、彼の腹心であるキルクの恋人という立場ゆえ。
つまり、いま目の前にいるシエルは、キルクすら迷いなく殺しにかかるということを示唆している。
「ねえシエル。ひとつだけ教えて。あなたは雪の上でうずくまって泣いている少年に、何を思う?」
「べつに。何も思わん」
「……そう。わかった。とにかく明かりをつくって。あなたならそれくらい出来るでしょ」
真っ白な雪の上にうずくまり、泣いていた少年。名前のないその少年に、桜子はかつて名前を付けた。
──雪人、と。
キルクに人間としての名を与えたのは、他ならぬ桜子だった。
目的の場所は、そう遠くはなかった。洞窟に入ってから、おそらく十五分も歩いてはいないだろう。足元に注意してゆっくり歩いていたことを考えれば、距離自体は入り口からさほどないと言える。
それでも陽の光は届かず、桜子のごく近く以外は暗闇に包まれていた。
桜子は頭上から降ってくる朱色の光に目をやった。
(こんなことができるなら、ケチケチせずに最初からやってなさいよね)
桜子は思わず鼻を鳴らしていた。
闇を払拭するようにして光を放ち、優雅に飛んでいるのは、炎の鳥だった。いや、炎を身にまとった鳥なのか、鳥の形をした炎なのか、実際のところは分からない。ただ、それが元はシエルの髪を結わえている組み紐だったことは間違いない。
シエルが立ち止まった目的の場所。炎のやわらかな灯りが照らし出しているものを目にしたとたん、桜子は息を呑んだ。
(このひとがメルクリーズ……)
メルクリーズはそれほど美人ではなかったと聞いていたが、それを言ったキルクの目は節穴なのではないかと思った。
そこには、束の間の午睡に身をゆだねているようにしか見えない白薔薇の精霊がいた。
そうとしか思えなかった。
微睡むようにおだやかな様子で伏せられているまぶた。うすく開いた小さなくちびる。優しい曲線を描く輪郭に、無垢な幼子を思わせる顔立ち。少しの乱れもないほどに整えられた長い髪は、まるで絵画を眺めているかのようだった。
(ああ、そうか……。容姿がとくべつ優れているとかではなくて、彼女のこれは……)
彼女の眠る姿、そのすべてに護り人の愛情がにじんでいた。髪も、おそらくシエルが手櫛で何度も梳いたのだろう。
シエルの想いが、メルクリーズに最大限の清らかさと美しさを添えているのだ。
シエルが己の力の半分を割いて守っていたというのは、まぎれもない事実なのだとすんなり信じられた。
さて、ここからどうすべきか……。
桜子が考えていると、ふいに空気が動いた。
「ちょっ、何するのよ!」
「見たままだ。行くぞ」
無造作にメルクリーズをつかみ、肩に担いだシエルは、そのまま踵を返して来た道を戻る。
「ちょっと待ちなさい! 何なの、あなた。シエルのフリをして、いったい何を企んでるの!?」
振り返ったシエルの瞳には剣呑な光があった。
「フリだと? まるで俺が偽物だとでも言いたげだな」
「言いたげなんじゃなくて、偽物だって言ってるのよ。本物のシエルはメルクリーズをそんなふうに扱ったりしないはずよ! それくらい、彼女のその姿を見れば分かるわ」
「ふん。見当違いも甚だしいな。魔族の王たる俺の偽物など存在するわけがなかろう。王とは、魔族の中でもっとも力ある者のこと。人間のおまえには分からんだろうが、魔族なら力を読める。同族の間で王を騙ることなどできん」
「そんな理屈なんて知らないし、どうでもいいのよ。言ったでしょ。メルクリーズをそんな乱暴に扱うのはシエルじゃない。本物とか偽物とかなんて関係ない。ただ単純にシエルじゃない、それだけなのよ!」
「何を言っているのか理解できんな。おまえと訳の分らぬ問答をする気はない。気に入らぬなら、ひとりでそこにいろ。俺はかまわん」
何の迷いもなく背を向けて暗闇の向こうに消えようとするシエルに、桜子は歯噛みした。
彼はシエルではない。たとえそれが真実であったとしても、だからどうだというのだろう。現実として、いま目の前でメルクリーズが連れて行かれているのだ。
このままではメ ルクリーズが今度こそ本当に死んでしまう。
そして、このままでは桜子自身も死を免れない。
いま自分が為すべきことは何なのだろう。
桜子はぎゅっと、両の拳を強く握りこんだ。
爪が手のひらに食い込む。
だが、足りない。こんな痛みでは到底足りない。
何の力もない人間。それでも前に進む力が。
シエルのあとを追って遠ざかっていく炎の鳥は、桜子の周囲にはっきりと闇を残していく。
桜子は目を閉じ、ゆっくりと細く息を吐きだした。
メルクリーズはシエルの大切な存在。
そのシエルは、キルクの大切な主。
そして、キルクは桜子にとって──。
(もう二度と雪人にあんな姿させたくない。そんなこと、私が赦さない)
たったひとり、降り積もる雪の上にうずくまって泣いていた少年の姿が、桜子の脳裏をよぎる。
彼が誰を思って泣いていたのか、桜子は知っている。彼は、シエルを守れなかったと泣いていたのだ。
シエルの何を守れなかったのかも、今ならなんとなく分かる。
(絶対に、メルクリーズを助けなくちゃ)
遠ざかっていく炎の鳥を睨みつけ、桜子は鉛のように重い足で、ゆっくりと一歩を踏み出した。
(私は人間。どうしたって雪人より先に死ぬ。そんなことは雪人だって承知の上のはず。だったら、私がやることはひとつだわ)
すすんで死ぬつもりはないが、もしものことがあっても取り乱したりはしない。
それより、これから先も長い時間を生きていく彼に、少しでも重荷がかからないように。
少しでも彼が笑っていられるように。
(大丈夫。私があなたの大切なシエルを……、メルクリーズを助けるわ)
それが己の生きた証として、彼のなかに残されるのならば。




