ⅩⅩⅩⅡ
ゆきちゃんに後ろから抱き締められていた。
いつも抱き締めるのは僕ばかりだったから、慣れないことに戸惑った。
瞬きをした瞬間、涙が零れたがそんなことは気にならなかった。
僕を抱き締めるゆきちゃんの手が震えていたのだ。
彼女は何も言わず、僕を引き止めるかのように強く抱き締めていた。
この震える手を振り払うことは僕には出来なかった。
「行かない。どこにも行かないから、離して?」
ゆきちゃんは恐る恐る僕から手を離した。
僕はゆきちゃんと向かい合ったが、目を合わせることはなかった。
「詩晴、歯を食い縛りなさい。」
次の瞬間、僕の左頬に強い衝撃があった。
ゆきちゃんに殴られたのだ。
しかも、グーパンチで。
人を殴るのは初めてだったようで、彼女の右手は赤くなっていた。
僕はすぐに冷凍庫へ保冷剤を取りに行った。
彼女の手を軽くタオルで巻くと、その上から保冷剤を当てた。
「ゆきちゃん、駄目だよ。君に傷がつくのは僕も、廉士さんも許さない。」
僕はゆきちゃんの目を正面から見つめて言った。
僕と目があった彼女は、ふわりと微笑んだ。
慌てて彼女に触れていた手を離したが、その手をゆきちゃんが掴んだ。
「私はね、赤のアネモネの意味を知ったとき、嬉しかったのよ。
他でもない貴女がこんな私を好きでいてくれたこと。神様に感謝さえしたわ。」
ゆきちゃんは僕の頬にそっと触れた。
僕は頬から伝わる彼女の体温が、張り詰めていた僕の心の糸を解きほぐしてくれた気がした。
「詩晴、私も貴女のことが好きよ。
いいえ、好きでは足りないわ。
私は、上條詩晴を心から愛しています。私の特別になってくれませんか?」
僕は溢れ出した涙を止める術を知らない。
みっともなく泣き続ける僕の頭をそっと撫でる君。
あぁ、これは夢なのか。
もういっそのこと、夢でもいいや。
こんな僕に都合の良い夢なら、ずっと醒めないで。
この日、僕らは恋人になった。
あぁ、一瞬でも神様に感謝した僕は馬鹿だった。
こんな、こんなことって。
まだ、僕らは何も、なんで、どうして。
想いを通じ合えた僕らを嘲笑うかのように、死神が微笑んだ。




