彼女の願い
「司の声聞いたら涙出るよ……。 さっきまで止まってたのになぁ……」
「泣かせてごめん……」
「お母さん、大丈夫だった?」
涙を拭きながらそう言った。
こんな時でも母さんの事を気遣ってくれる。
実咲は本当に優しい人。
「大丈夫だよ」
母さんの話をした後も続けてさっきの話をしなければいけない。
決心した事なのに実咲を目の前にするとその決心も鈍る。
コーヒーを注文し運ばれてくるのを待った。
「実咲は? コーヒー、注文し直す……?」
「……ううん。 これでいいよ……」
何とも言えない沈黙。
目の前の実咲を見つめても、実咲はテーブルに目をやったまま何かを考えてる感じだった。
好きなのに別れる事を選択するなんて事が自分の人生の中であるなんて思ってもみなかった。
沈黙の中、コーヒーが運ばれてきた。
今は辛いけど、続ける事はこの先もっと辛くなる。
それだけを考えて実咲に話を続けた。
「俺はね、実咲が好きなんだよ。 俺が幸せにするつもりだったよ。 隣に実咲がいて欲しいと思う。 実咲との未来を思い描いたんだよ。 実咲が大切、それは変わらず強く思うんだ。 でもね、母さんを一人にはできない……。 俺と一緒じゃ実咲は笑顔になれない。 そう思ったから別れようと思ったんだ」
「母さんには俺しかいない。 息子の俺は母さんを看る義務もある。 今まで育ててくれた恩もある。 だから看なきゃいけない。 俺と一緒になっちゃったら実咲までその苦労に付き合わせる事になる。 俺はそれを望んでないんだ……。 そんな苦労は俺一人で充分。 実咲には未来がある。 隣にいるのが俺じゃなくても幸せになれる。 今は俺じゃないといけないって思ってるかも知れない。 でもね、きっと俺じゃない人の方が実咲は楽しく毎日を過ごせると思うよ……。 いろんなところ行って、いろんな体験をしていろんな事を感じて欲しい。 実咲にはいつも笑ってて欲しい。 あの時、あんな人と付き合ってたな……って過去の話になるよ、きっと……」
俺の話を聞いた実咲は止まる事ない涙を手で拭いながらゆっくり話し始めた。
「……何かね、違和感はあったの……。 司、何で水族館なんて言い出したのかなぁって思ってた。 車の中でずっとずっと思ってた……。 沖縄の事でしょ……? 沖縄に行けなかった事、気にしてたの?」
その通りだった。
最後の約束を果たせないけど、行こうとしていた水族館とは違うけど、少しでも叶えてあげたかった。
「そんなの、何にも思ってなかったのに……。 司は優しいね。 そこも好きなとこの一つだよ。 司はさ、優しいからお母さんも私も守ろうとしてくれてるんだよね。 でもね、その優しさが今は悲しい……。 私はその優しさを好きになったのにね……」
「俺がね、カップルが普通にできる事をしてあげられなくて実咲が我慢してるのを見るのが辛いんだ……。 好きな人に我慢させてさ、そんな事、いい訳ないよ……」
「期間もいつまでなんてわからない。 だから実咲に待っててなんて言えない。 実咲が好きだから、実咲には幸せになって欲しい。 いつも笑ってる毎日を送って欲しい……」
どれくらい沈黙があっただろうか……。
実咲がお店を出ようと言った。
会計を済ませ外に出る。
朝から変わらない雨……。
勢いは朝より増していた。
車まで走ったが、雨は激しく体に打ち付ける。
たった数秒なのにずぶ濡れだった。
実咲がポンポンと頭から持っていたタオルで拭いてくれる。
実咲の長い髪からポタポタと雨が落ちる。
実咲の手からタオルを取り、実咲の髪を拭いた。
「司、優しくしないで……」
「いっその事、嫌いになったとか、好きな人できたとか言って欲しい。 その方がずっと楽なのかなって思う……」
「……無理だよ……そんなの……。 嘘はつけないよ……」
「もう、私たち別れなきゃいけないんだね……」
「司のお母さんを看なきゃいけないって気持ちもわかる。 優しいし、ちゃんと責任は果たそうとしてる、だから別れる事を選んだんでしょ……?」
「私から最後にお願いがある。 最後に抱いて欲しい……」
実咲は涙でいっぱいの目で真っ直ぐ俺を見てそう言った。




