第140話 刃を纏う
第51標の岩島から西へ広がる盆地を見渡したエイルは、遠くの森へ消えていった巨大な影をすぐに追わず、まず河川の出口と露出した深層脈、それから安全に上陸できる場所を地図へ記した。
川は岩島の西側で3本に分かれており、最も太い流れは盆地の中央へ向かい、残る2本は南北の森林へ吸い込まれている。川底にあった赤い鉱脈も水路に沿って分岐し、その一部は地面から完全に露出したまま、炎の消えかけた熾火のような光を放っていた。
空気へ含まれる魔力は、第51標に刻まれていた通り、これまでの場所とは比較にならないほど濃い。
呼吸するだけで身体へ魔力が流れ込むわけではないものの、《魔力感知》を広げれば、草木や岩、生物の反応が何重にも重なって返ってくる。遠くまで感知を伸ばそうとすると、濃い魔力の霧に輪郭を塗り潰され、反対に近距離へ絞れば、今まで見落としていた細かな魔力の揺れまで拾えた。
この土地では、感知範囲の広さより、必要な情報だけを抜き出す精度の方が重要になる。
エイルは岩島から水面へ降り、《空衝歩》を小さく連続させながら、盆地側の河岸へ渡った。
前日の戦闘で水上移動の効率は大きく上がっており、自然な流れへ足裏の圧力を重ねれば、ほとんど飛沫を上げずに進める。最後の一歩だけ出力を強め、河岸から2メートルほど高い岩棚へ身体を運ぶと、周囲へ《警戒圏》を広げた。
すぐ近くに大型魔物の反応はない。
ただし、地面へ露出した深層脈からは一定の間隔で魔力が噴き上がっており、そのたび周囲の植物が葉を開き、空気へ漂う光の粒を吸収していた。
エイルは露出した鉱脈へ直接触れず、長剣の鞘の先を近づけて反応を確かめた。
鉱脈から溢れる魔力は強いものの、三裂谷の深部で見たような生物を侵食する性質はない。むしろこの盆地に暮らす生物は、深層脈から放たれる魔力を長い時間かけて取り込み、身体や感覚器を強化しているようだった。
先ほど森の上へ現れた巨大な影も、その一例なのだろう。
エイルは第51標から1キロほど離れた岩丘を最初の野営候補として記録し、川を右手に見ながら西へ歩き始めた。
◇
盆地の草は高原上のものより背が低く、代わりに葉の一枚一枚が厚かった。
踏みつけても簡単には折れず、靴底が離れるとすぐ元の形へ戻る。葉の内部には細い魔力経路が何本も走り、深層脈から噴き上がった魔力を受けるたび、表面へ赤紫色の模様が浮かんだ。
低木の実や地面へ残る足跡を調べながら進んでいると、遠くの森から重い振動が届いた。
先ほど第51標から見た巨大な生物が、再び移動を始めたらしい。
エイルは岩丘へ登り、木々の間へ視線を向けた。
森の上から姿を現したのは、首と背中へ無数の樹木を生やした四足獣だった。
全高は30メートル近い。
脚は城壁の塔ほど太く、表面を覆う灰褐色の皮膚には苔や蔓が張り付き、その上へ本物の木々が根を下ろしている。頭部は牛や鹿に似ているものの、角の代わりに平たい岩盤が左右へ広がり、そこからも細い草木が垂れていた。
巨大な獣が一歩進むたび、森の木々が左右へ倒される。
しかし破壊されたようには見えなかった。
獣の背から落ちた種や土が地面へ広がり、その跡へ小型の動物や鳥が集まっている。歩くことで森を荒らしているのではなく、移動しながら新しい植物を運んでいるらしい。
魔力反応は、これまで戦ったどの魔物より大きい。
それでも《危機感知》は強く反応しなかった。
エイルが進路を塞がない限り、襲ってくる種類ではないのだろう。
巨大な獣はエイルへ気づく様子もなく、森の南側へゆっくり姿を消した。
その後方には、踏み固められた広い地面と、折れた枝、巨大な足跡が残っている。
移動速度は遅いが、岩盤が動く土地で長距離を進むなら、あの獣が通った経路は比較的安定している可能性が高い。
エイルは仮に《森背獣》と記録し、移動方向と足跡の幅を地図へ書き込んだ。
戦う必要のない相手へ剣を向けるつもりはなかった。
だが、あれほど巨大な生物が普通に歩いている土地なら、それを狙う捕食者や、同じ魔力濃度へ適応した敵も存在する。
その予想は、森へ入ってからそれほど経たないうちに正しいと分かった。
◇
最初に見つけたのは、6本脚の草食獣の死骸だった。
高原下層の草原で見た個体に似ているが、成体よりさらに大きく、背中の帆も赤黒く発達している。死んでから半日も経っておらず、血の匂いも強く残っていた。
死骸の腹部は食い破られていない。
首の骨が一撃で折られ、胸部の一部だけが深く陥没している。
巨大な牙で噛まれたのではなく、強い打撃によって殺されたらしい。
周囲には幅の広い足跡が残っている。
後脚が2本。
前方には人間の手に似た跡が4つ。
足跡の深さから考えれば、体重は《脈冠獣》以上だった。
エイルは死骸へ近づかず、《近域感知》を周囲の木々へ通した。
地上には反応がない。
上方。
木の枝が密集している場所へ、生物の魔力が紛れている。
エイルが顔を上げるより先に、《危機感知》が鋭く反応した。
地面を蹴る。
直後、頭上から巨大な岩塊が落ち、死骸の隣へ立っていたエイルの残像を押し潰した。
岩塊は自然に崩れたものではない。
人間の胴体より太い手が上空から伸び、落下した岩を掴むと、そのまま横へ薙ぎ払った。
エイルは《空衝歩》でさらに距離を取り、長剣を抜きながら敵の姿を捉えた。
黒い木々の間から降りてきたのは、全高5メートルを超える四腕の獣だった。
体型は猿に近い。
ただし背中から肩、胸部、前腕にかけて、濃灰色の甲殻が何重にも重なり、頭部の左右からは短い角のような骨が伸びている。上側の腕は脚よりも長く、拳はエイルの上半身ほどあり、下側の腕は短い代わりに指が太く、物を掴むことへ適した形をしていた。
獣は2本の後脚だけで立ち、上腕で落とした岩を持ち上げたまま、下腕の指へ草食獣の血を付けて舐めている。
視線はエイルから離れていない。
死骸を餌として残し、近づいた生物へ上から岩を落とす狩りをしていたらしい。
エイルは長剣を正面へ構えた。
四腕の獣は咆哮しなかった。
代わりに上腕で掴んでいた岩を、地面へ叩きつけるような動きから投げ放った。
岩の大きさは2メートルを超えている。
避けるだけなら難しくない。
しかし岩の後ろへ、獣自身が隠れていた。
エイルは正面へ《遠衝斬》を放ち、飛んできた岩を縦へ切り開いた。
左右へ分かれた岩の間から、四腕の獣が突進してくる。
上腕の2本が外側へ広がり、逃げ道を塞ぐように地面を削っていた。
下腕は胸部の前へ畳まれている。
剣を受け止めるための構えだった。
エイルは後退せず、相手の右側へ踏み込んだ。
上腕の拳が横から迫る。
長剣で受ければ、重量差によって身体ごと吹き飛ばされる。
エイルは拳へ刃を正面から当てず、甲殻の表面へ滑らせながら《衝界》で力を斜め後方へ流した。
拳が地面へ落ち、岩と土が大きく弾ける。
その腕を足場として肩へ上がろうとした瞬間、畳まれていた下腕の1本が伸びた。
エイルの長剣を狙っている。
獣の太い指が刀身の中ほどを挟んだ。
エイルはすぐに剣を引いたが、指の表面にも細かな甲殻があり、刃を握ったまま血すら流さない。
さらに反対の下腕が、エイルの右手首へ伸びてくる。
剣と腕を同時に固定し、残る上腕で身体を潰すつもりだった。
エイルは手首を掴まれる前に剣を離し、《空衝歩》で相手の胸元から後方へ抜けた。
長剣は獣の手に残る。
四腕の獣は奪った剣を眺めることもなく、下腕の指で刀身を折ろうと力を込めた。
刀身が僅かに曲がる。
それでも脈晶鉄と《響殻》を重ねた長剣は簡単には折れず、内部の魔力経路が負荷を逃がして元の形へ戻った。
獣は剣を壊せないと判断すると、後方の木へ向かって投げた。
長剣が幹へ突き刺さる。
エイルと武器の間へ、四腕の巨体が立った。
◇
武器を奪えば人間は弱くなる。
そのことを理解している相手だった。
四腕の獣は上腕を地面へつき、前傾姿勢のまま一気に距離を詰めた。
最初の拳を避けても、下腕が逃げた方向へ伸び、身体を掴もうとする。さらに残る腕が地面や木を叩き、足場と視界を同時に崩してくるため、長剣へ戻ろうと進路を変える余裕がない。
エイルは《身体強化》を全身へ通し、相手の懐から離れずに動いた。
大きな拳ほど、肘より内側には届きにくい。
上腕の振り下ろしを左へ避け、下腕が腰へ回る前に掌底を胸部へ打ち込む。
《衝界》を接触点から内部へ通す。
重い衝撃が甲殻の下へ入った。
それでも四腕の獣は僅かに上体を揺らしただけで、後脚を踏み替え、反対の上腕を肘から横へ振った。
エイルは両腕で防御し、《高密度強化》を肩と背中へ繋いだ。
太い前腕が身体へ当たる。
衝撃を受け流し切れず、エイルは地面を滑りながら10メートル近く押された。
両腕の骨に異常はない。
ただし皮膚と筋肉へ鈍い痛みが残っている。
相手の甲殻は斬撃を防ぐだけではなく、打撃を加える武器にもなっていた。
四腕の獣が追ってくる。
エイルは後方へ跳び、近くの木を足場にして上へ逃れた。
獣も上腕を幹へ掛け、一度の跳躍で同じ高さまで登ってくる。
木の上でも遅くない。
むしろ4本の腕を使える分、狭い枝の間では相手の方が自由に動いていた。
上腕が左右の幹を掴み、巨体を振り子のように運ぶ。
下腕の拳がエイルへ迫る。
エイルは枝を蹴り、《空衝歩》を繋いで空中へ出たが、獣は自分が掴んでいた幹を引き倒し、倒れる木ごとエイルへぶつけた。
空中で大きな障害物を避ければ、着地先を読まれる。
エイルは回避せず、木の幹へ両足を向けた。
接触の瞬間、《空衝歩》の衝撃を幹へ放つ。
倒れてくる木の力を完全に止めるのではなく、反力として利用し、身体を獣の頭上へ押し出した。
エイルは空中から踵を振り下ろした。
《高密度強化》を脚へ重ねた一撃が、獣の頭部を覆う甲殻へ当たる。
鈍い音が森へ響き、巨体の片膝が地面へ沈んだ。
だが甲殻は割れていない。
獣は膝をついた姿勢のまま上腕を伸ばし、エイルの右脚を掴んだ。
太い指が足首からふくらはぎへ食い込む。
そのまま地面へ叩きつけようと腕が振られた。
エイルは空中歩法で逃げられない。
掴まれている箇所へ衝撃を放しても、甲殻を通して力が広がり、指を外すほどの威力にはならなかった。
拳なら打撃。
剣なら斬撃。
長剣がなければ、自分の身体から生み出せる攻撃は、基本的に相手へ力を押し込むものになる。
だが、魔力を身体の内側へ通すだけでなく。
外側へ沿わせたらどうなる。
エイルは掴まれた右脚の表面へ、《魔力圧縮》で薄い膜を作った。
防具のように全体を覆うのではない。
脛の外側から足首へ向かって、幅数センチの細い魔力を伸ばし、その先端だけを刃のように薄くする。
魔力の膜が5センチほど体表から浮いた。
不安定に震える。
それでも獣の指が食い込んでいる位置へ脚を捻ると、薄い魔力の縁が甲殻の隙間へ入った。
黒い血が散る。
獣の指が僅かに緩んだ。
エイルはその隙間へ《衝界》を通し、足首を一気に引き抜いた。
身体が地面へ投げ出される前に《空衝歩》を使い、数メートル先へ着地する。
四腕の獣は傷ついた指を見た。
甲殻そのものは深く切れていない。
しかし指の付け根には、刃物で斬られたような細い傷が残っていた。
エイルも自分の右脚へ目を向けた。
魔力の刃はすでに消えている。
長時間維持できるほど安定せず、身体を動かしただけで形が崩れた。
それでも可能性はあった。
「剣から離さなくても、刃にはできるな」
◇
四腕の獣が再び突進した。
今度は右手の指を守るように下腕を畳み、無傷の3本でエイルを囲もうとする。
エイルは長剣へ向かわなかった。
相手の正面へ踏み込み、右手の外側へ薄い魔力を集める。
手首から小指へ沿わせ、指先の先へ短く伸ばす。
最初は形が揃わず、魔力が指の間へ散った。
そこへ《魔力圧縮》を重ね、厚みを消し、長さではなく薄さだけを作る。
透明に近い魔力の刃が、手刀の外側へ7センチほど伸びた。
獣の下腕が掴み掛かる。
エイルは指を避けるように手刀を振り下ろした。
魔力の刃が甲殻の継ぎ目へ入り、直後に手の側面そのものが指の付け根へ当たる。
切断と打撃が同時に入った。
黒い血が走り、太い指の1本が途中から垂れ下がる。
獣が腕を引くより先に、エイルは左の掌底を肘関節へ打ち込んだ。
掌の下側から手首へ短い刃を作り、接触の瞬間だけ前へ伸ばす。
外側の皮膚と筋へ切れ目が入り、その奥へ《衝界》の打撃が押し込まれた。
関節が逆方向へ曲がる。
下腕の1本が力を失った。
四腕の獣は痛みに上体を反らしたものの、残る上腕を左右から振り下ろしてくる。
エイルは後退せず、右側の拳へ肩からぶつかった。
右肩の表面へ魔力を薄く纏わせ、前方へ刃のような突起を作る。
拳と肩が衝突した。
重量では相手が上だったが、甲殻の表面へ短い切断線が入り、その隙間から《高密度強化》を重ねた打撃が内部へ届く。
獣の腕が外側へ弾かれた。
反対から来た拳へは左肘を向ける。
肘の先へ三角形の魔力刃を作り、拳の側面へ打ち込む。
刃が甲殻を完全には貫けなくても、衝突点へ深い傷を残し、その内側へ打撃が重なることで、獣の指が大きく開いた。
エイルは腕の間を抜け、相手の腹部へ潜り込んだ。
胸から腹へ続く甲殻は厚い。
しかし身体を曲げるため、下端には横向きの隙間がある。
右膝を持ち上げる。
膝頭から脛へ魔力を沿わせ、前方へ短い刃を作った。
《身体強化》と《高密度強化》を腰から脚へ繋ぎ、甲殻の隙間へ膝を叩き込む。
打撃が巨体を持ち上げる。
同時に魔力刃が柔らかな腹部へ入り、黒い血を横一線に散らした。
四腕の獣が後退する。
それまで何度攻撃を受けても踏み止まっていた巨体が、初めて自分から距離を取った。
エイルは追いながら、自分の腕と脚へ作った魔力刃の感覚を確かめた。
身体全体を覆おうとすれば制御が散る。
長く伸ばせば、《遠衝斬》として放つ前より不安定になる。
今作れるのは、体表から5センチから10センチ程度までの短い刃だけだった。
それでも接触する直前だけ形成すれば、魔力消費は少ない。
拳や掌底の威力を失わず、打撃では通りにくい外皮へ切れ目を入れられる。
剣術と素手の間にあった距離が、少しだけ繋がった。
◇
四腕の獣も、同じ攻撃を受け続けるほど鈍くはなかった。
エイルが体表へ魔力を集める瞬間を見ていたのか、次に踏み込むと、甲殻の隙間を守るよう4本の腕を重ねた。
さらに地面へ落ちていた岩を下腕で掴み、至近距離からエイルへ投げる。
視界を塞ぎ、その後ろから上腕の拳を重ねるつもりだった。
エイルは岩を避けず、右手へ作った魔力刃で斜めに切った。
長剣ほどの長さも重さもないため、岩全体を両断することはできない。
それでも表面へ切れ目を作り、直後に掌底から《衝界》を入れると、岩は切断線に沿って砕けた。
飛び散る破片の向こうから拳が来る。
エイルは左前腕を縦へ立て、腕の外側へ細長い刃を纏わせた。
拳と正面からぶつからず、振り下ろされる軌道へ沿って前腕を滑らせる。
甲殻に長い傷が走る。
相手の力は斜め下へ抜け、エイルは拳の内側へ入った。
しかし四腕の獣はそれを待っていた。
残る3本の腕が同時に閉じる。
上腕が背後から肩と腰を挟み、下腕が両手首を掴んだ。
巨体の胸部へ押しつけられ、両腕を動かせなくなる。
甲殻の隙間から獣の口が開いた。
大きな牙はない。
代わりに岩を砕くための平たい歯が並び、エイルの頭部を噛み潰そうと近づいてくる。
力だけで腕を引き抜くには、相手の握力が強すぎる。
《衝界》を流しても、4本の腕へ力を分散される。
圧縮強化を全身へ使えば振り解ける可能性はあるが、これほど密着した状態で急激に出力を上げれば、自分の肩や肘へも大きな負荷が返る。
エイルは腕を動かそうとするのをやめた。
魔力刃は、振らなければ斬れないとは限らない。
掴まれている両前腕へ《魔力圧縮》を通す。
皮膚の表面から外側へ。
獣の掌と触れている部分を避けず、その内側で薄い刃を形作る。
最初は甲殻へ押され、魔力が潰れた。
エイルは出力を上げるのではなく、刃の方向を相手の指の隙間へ合わせた。
両腕の外側へ、細い魔力の線が現れる。
そのまま肘を僅かに内側へ引いた。
魔力刃が獣の指と掌の継ぎ目を裂く。
握力が緩む。
エイルは両手を完全に抜かず、右手だけを獣の胸元へ返した。
手刀を作る。
これまでより長く。
指先から肘の手前まで、1本の刃として魔力を繋げる。
体表から伸びる長さは10センチ程度でも、腕そのものが刀身になる。
噛みつこうと迫っていた獣の首には、頭部を動かすための太い筋と、胸部甲殻の間へ僅かな隙間があった。
エイルは腰を落とせない姿勢のまま、《身体強化》を背中から肩へ集めた。
獣が口を閉じる。
その直前。
右の手刀を首の隙間へ打ち込んだ。
最初に魔力刃が皮膚と筋肉を切り開く。
続いて指先から手の側面が傷口へ入り、打撃の力が首全体を横へ押した。
切断と衝撃が同じ経路へ重なる。
太い首の半分近くまで、魔力の刃が沈んだ。
それでも四腕の獣は倒れず、残った力でエイルを胸部へ押し潰そうとする。
エイルは右腕を引き抜かなかった。
傷口へ入れた手刀を支点にして、ふくらはぎへ圧縮魔力を作る。
脚。
腰。
背中。
肩。
肘。
これまで剣へ繋いでいた全身の出力を、今度は自分の右腕へ通した。
圧縮が順番に解放される。
手刀がさらに奥へ進む。
最後に《衝界》を魔力刃の先端から首の内側へ広げ、骨と太い魔力経路だけへ衝撃を通した。
硬いものが断たれる感触があった。
獣の4本の腕から力が抜ける。
エイルは拘束を外し、巨体の胸を蹴って後方へ着地した。
四腕の獣は首を押さえることもできず、2歩、3歩と前へ進んだあと、膝から地面へ崩れた。
倒れた巨体が森を揺らし、周囲の枝から赤紫色の葉が雨のように落ちる。
その中でエイルは剣を持たず、血に濡れた右手だけを下げて立っていた。
指先から肘へ沿って伸びていた魔力の刃は、戦闘が終わると同時に薄く崩れ、濃い魔力の霧へ溶けていった。
◇
エイルは倒れた獣へ近づく前に、木へ突き刺さっていた長剣を抜き、刃と内部の魔力経路に損傷がないことを確かめた。
指で挟まれた部分には僅かな擦れがあるものの、刀身は歪んでいない。
剣を鞘へ戻してから、自分の両腕と右脚へ意識を向ける。
魔力刃を形成した皮膚には傷がない。
ただし右前腕から手の外側には強い熱が残り、魔力経路も細かく震えていた。
薄くするほど刃としての切断力は上がるが、体表へ密着させ過ぎれば、自分の魔力経路まで傷つける可能性がある。反対に外側へ離せば安定性を失い、相手へ触れる前に形が崩れる。
現状では、身体から数センチ離れた位置へ短時間だけ形成し、攻撃が当たる瞬間に最も薄くするのが安全だった。
【上位近接個体の単独討伐を確認しました】
【武器喪失状態における新規攻撃手段の構築を確認しました】
【体表面における圧縮魔力刃の安定形成に成功しました】
【新規技能《纏刃》を獲得しました】
【《纏刃 Lv.1》】
【《魔力操作 Lv.87 → Lv.89》】
【《魔力圧縮 Lv.68 → Lv.70》】
【《身体強化 Lv.51 → Lv.52》】
【《近域感知 Lv.65 → Lv.66》】
【Lv.108 → Lv.111】
複数の強敵を連続して倒し、深層脈露出帯という高密度の魔力環境へ適応した経験が、まとめて基礎成長へ変わったらしい。
3つ上がったレベルだけでなく、《魔力操作》と《魔力圧縮》も大きく伸びている。
《遠衝斬》は、剣から衝撃の刃を放ち、離れた相手へ届かせる技能だった。
新しく得た《纏刃》は、それとは反対に魔力を身体から離さず、拳や手刀、肘、膝、脛、肩といった体表へ短い刃を作る。
射程はほとんど増えない。
長剣の代わりになるほど刃も長くない。
その代わり、打撃の勢いを保ったまま相手の外皮へ切れ目を作り、剣を振れない密着状態でも斬撃を加えられる。
手刀だけでなく、拳の前面へ短く作れば、殴った瞬間に甲殻へ穴を開けられるかもしれない。肘や膝へ纏わせれば、接近戦で関節や装甲の隙間を狙いやすくなり、足裏へ作る形を変えれば、《空衝歩》の着地と同時に相手を切る使い方も考えられる。
ただし全身へ常時纏わせるのは、今の制御では魔力消費が大きすぎる。
刃同士が干渉し、自分の動きを妨げる可能性もある。
まずは一箇所ずつ。
接触する瞬間だけ形成する。
エイルは右手の外側へ低出力の《纏刃》を作り、倒れた獣の甲殻片へ軽く触れさせた。
刃を振っていないにもかかわらず、表面へ細い線が入る。
そこから掌底を押し込むと、切れ目を起点に甲殻が内側へ割れた。
「これなら、剣を持ってても使えるな」
右手で長剣を振り、左手へ《纏刃》を作れば、剣を受け止めようとした相手へ手刀や掌底を重ねられる。
剣を掴まれても、空いた腕や脚をそのまま刃にできる。
これまで以上に、相手の懐へ入る意味が増えた。
◇
倒した四腕の獣は、肩と胸部の甲殻へ深層脈の赤い鉱物を取り込み、内側の筋肉まで通常の魔物より高密度に発達していた。
エイルは仮に《四腕甲猿》と記録し、体格、攻撃方法、武器を奪おうとする知性について地図帳へ書き込んだ。
死骸の近くには、以前にも同じ場所で狩りをした痕跡がある。
木の上へ運ばれた骨。
岩で潰された小型魔物。
剣や槍ではないものの、獲物が持っていた硬い角や牙を集めた窪みまであった。
道具を作るほどではない。
それでも獲物の武器や攻撃手段を理解し、先に奪う程度の知能は持っていた。
甲殻と指の一部を素材として切り出し、残りは他の生物が近づく前に周囲の地形と共に記録する。
戦闘が終わってから1時間ほど経つと、森の奥から複数の小型魔物が死骸の匂いへ集まり始めた。
ここへ長く留まる理由はない。
エイルは装備を整え、深層脈の露出へ沿って西へ進んだ。
右手へ《纏刃》を作りながら歩くことはしない。
必要な瞬間だけ使う方が、魔力も制御も無駄にならない。
ただ、木の枝が進路を塞いだ時には長剣を抜かず、手刀へ短い刃を作って切り払った。
拳より自然に。
剣を抜くより速く。
魔力の刃が枝を断ち、エイルが通り過ぎると同時に消える。
新しい技能を覚えた直後とは思えないほど、その動きはすぐ身体へ馴染み始めていた。
《越境》がLv.7へ上がってから、新しい技術は完成を待たず、使うたび次の形へ繋がっていく。
遠くへ届かなかった剣は《遠衝斬》となった。
足場のない空と水面には《空衝歩》で道を作った。
そして剣を奪われ、斬る手段を失った瞬間には、自分の身体そのものへ刃を纏った。
森のさらに西では、地表へ露出した深層脈が3本へ分かれている。
第52標へ続く正しい流れがどれなのかは、まだ分からない。
その向こうには、《四腕甲猿》より強い魔物も、森を背負って歩く巨大な獣もいる。
エイルは新しく得た《纏刃》の感覚を右手へ残しながら、誰もいない深層脈露出帯を1人で進んだ。
剣を握っている時だけが、剣士の間合いではなくなった。




