第139話 川面を駆ける
エイルの右足が深層河川の水面へ触れる直前、足裏から放たれた衝撃が浅い円形の窪みを作り、その底へ集まった水が押し返す力によって、身体を下流側へ運んだ。
空気を相手に《空衝歩》を使う時より反力は強いものの、水面全体を踏みつけるように衝撃を広げれば、大量の飛沫が上がるだけでなく、足首や膝へも重い反動が戻ってくる。だからエイルは最初の一歩から出力を上げず、足裏の前半分へ細い圧力を作り、身体が前へ進む方向だけへ水を押した。
水面が僅かに沈み、エイルの身体が6メートルほど進む。
次の一歩では左足から同じように衝撃を放ったが、右足とは水の流れ方が違い、予想より強く身体が上方へ浮いた。川は見た目以上に流れが複雑であり、水面近くでは西から東へ進んでいても、その下では川底の岩や赤い鉱脈へ当たった水が斜めに巻き上がっている。
地面へ使う歩法のように、同じ力を左右へ繰り返すだけでは安定しない。
エイルは3歩目を急がず、落下しながら《近域感知》を足元へ集中させた。
水面の高さだけではなく、流れの向きと密度、さらに直前の一歩によって生まれた波の広がりを拾い、その中で最も強い反力を返す場所へ右足を向ける。
足裏から衝撃を放つ。
今度は身体が大きく浮かず、水面とほぼ平行に前へ進んだ。
「これなら続けられそうだな」
川底へ設置された水上標杭は、およそ80メートルから120メートルほどの間隔で並んでいた。
赤い鉱物を埋め込まれた杭の上部は水面から僅かに出ているだけだが、魔力を流せば次の杭から反響が返るため、暗い地下河川でも経路を見失うことはない。
もっとも、すべての杭が残っているわけではなかった。
《深河甲蛇》が活動していた付近では根元から折れ、川底へ沈んでいるものも多く、次の杭まで200メートル以上離れている区間もある。そのたびに水面を走り続ける必要があったが、エイルは一歩ごとの距離を伸ばそうとはせず、流れへ合わせて必要な反力だけを受け取った。
力を強くすれば、1歩で10メートル近く進むこともできる。
しかし反動と魔力消費も増え、水面へ送る振動も大きくなる。
長距離移動として使うなら、速度よりも、どれだけ小さな出力で身体を支えられるかの方が重要だった。
エイルは川面を進みながら、左右の岸と頭上の岩壁を地図へ書き込める程度の速度まで歩調を落とした。水上標杭へ着くたび数分だけ足を止め、次の反響を確認し、崩れた河岸や水中にある大岩の位置を記録していく。
深層河川の上を歩き始めて2時間ほど経つ頃には、最初のように一歩ごと大きな水飛沫を上げることはなくなっていた。
足裏へ作った圧力が水面から数センチだけ沈み、身体を前へ送った直後には、ほとんど跡を残さず流れへ戻る。
遠くから見れば、膝丈の長衣を揺らす17歳の少年が、沈むことなく暗い川の上を歩いているようにしか見えなかった。
◇
最初の異変は、水上標杭を7本通過したところで起きた。
エイルが右足を水面へ置き、次の一歩へ移ろうとした瞬間、足元から細長い影が突き上がってきた。
《危機感知》が反応するより先に《近域感知》が水圧の変化を拾っていたため、エイルは足を引くのではなく、そのまま水面へ衝撃を放ち、身体を斜め前方へ逃がした。
直後、黒い刃のような背鰭が水面を切り裂き、先ほどまで足があった場所を通過する。
現れた魔物は全長2メートル半ほどの魚に似た体型を持ち、細長い頭部の左右から、剣のように硬く尖った鰭を伸ばしていた。暗紺色の鱗は水中の赤い光をほとんど反射せず、背中と腹部にも長い刃状の鰭があるため、獲物の下から跳び上がり、身体ごと擦れ違うことで切り裂く種類らしい。
1匹目は攻撃を外して水中へ戻った。
しかし《魔力感知》には、同じ大きさの反応が周囲へ幾つも増えている。
10匹。
15匹。
さらに下流側からも近づいてくる。
先ほどまで小魚や水流へ紛れていたため、群れ全体を1つの反応として区別できなかったらしい。
エイルは水上標杭へ戻らず、そのまま下流へ歩き続けた。
立ち止まれば周囲を囲まれ、同じ場所へ何度も攻撃を重ねられる。反対に移動を続ければ、群れはエイルの進路を予測し、前方へ回り込まなければならない。
2匹目が右側から水面へ飛び出した。
エイルは長剣を抜き、硬い背鰭へ刃をぶつけるのではなく、露出した腹部へ斜めに入れた。
魚の速度が斬撃へ加わり、身体が半ばまで断たれる。
血が水面へ散った。
その瞬間、群れ全体の動きが変わった。
離れていた反応が一斉に集まり、傷ついた個体へではなく、その周囲にいるエイルへ向かって速度を上げる。
血へ引き寄せられたのではない。
仲間が攻撃を受けた場所を共有し、獲物の現在地を把握したように見える。
エイルは3歩連続で《空衝歩》を使い、群れが集まる中心から離れた。
ところが次の着地点へ足を下ろすより早く、真下から2匹が同時に飛び出してくる。
エイルが水面を蹴るたび、その衝撃が水中へ伝わり、魔物たちへ次の位置を知らせていた。
「歩く音を読んでるのか」
水上での《空衝歩》は、地上を走るよりも強い振動を周囲へ広げる。
群れにとっては、暗闇の中で自分から位置を知らせ続けているようなものだった。
エイルは左右から迫った2匹のうち、右側へだけ長剣を向けた。
細い《遠衝斬》を至近距離から放ち、口から尾までを縦へ切り開く。
左側の個体については斬ろうとせず、空中で身体を捻り、背鰭の平らな側面へ右足を触れさせた。
足裏から衝撃を放つ。
魔物の身体が水中へ押し戻され、その反力でエイルは上方へ逃れた。
しかし高度を上げただけでは、次に水面へ戻る場所を再び読まれる。
エイルは空中で《近域感知》を広げ、流れる水の中に残っている自分の足跡を探った。
一歩ごとに水面へ作った圧力は、波として外側へ広がっている。
その波へ群れが触れるたび、魚の身体から別の細かな反響が返ってきた。
魔物たちが足音を読めるなら、自分も同じ振動から群れ全体の位置を拾える。
エイルは着地の前に足裏へ圧力を集めたものの、今度は真下へ放たなかった。
斜め後方へ流れる自然な水流へ、衝撃を薄く重ねる。
水面は大きく沈まず、周囲へ広がる波も小さい。それでも流れそのものが足裏を押し、身体を前へ運んだ。
強く蹴るのではなく、流れを一瞬だけ足場へ変える。
着水音はほとんど生まれなかった。
水中の魚たちが、それまでと同じ間隔を予測して一斉に飛び出す。
しかし魔物が刃を交差させた場所に、エイルの姿はない。
すでに10メートル以上先へ進んでいた。
◇
水面へ伝える振動を抑えたことで、群れの攻撃精度は明らかに落ちた。
魔物たちは赤い鉱脈の光や水流の変化からエイルを探しているものの、次の一歩がどこへ置かれるのかまでは読めず、飛び出す位置が数メートルずつ外れている。
エイルはそのまま逃げ切ろうとはせず、水上標杭のない区間を下流へ進みながら、群れの配置を確かめた。
周囲にいるのは23匹。
どれも2メートルから3メートルほどで、単独ならA級冒険者が苦戦するような魔物ではない。ただし水中では地上の剣士より遥かに速く、四方から時間差で跳び出してくるため、足場のない旅人なら数匹を倒す前に川へ引きずり込まれるだろう。
さらに、群れの奥には別の反応がある。
川底近く。
他の個体より3倍以上大きく、ほとんど動かない。
周囲の魚たちが無秩序に襲っているように見えて、実際にはその大型個体が尾や鰭を動かすたび、群れ全体の進路が変わっていた。
群れの中心。
あれを倒さなければ、何度数を減らしても攻撃は続く。
ただし大型個体は水面へ上がってこない。
《遠衝斬》を水中へ放っても、深い位置へ届くまでに形が崩れる。
自分から潜れば、群れ全体に囲まれた状態で水中戦をしなければならない。
エイルはすぐに決め手を使わず、残る小型個体の動きを観察した。
彼らは水中から直接噛みつかず、必ず一度水面より上へ身体を出し、速度と刃状の鰭を使って攻撃してくる。
水中では自在に曲がれる代わりに、硬い鰭を最大の速度で振るには、水面を破って身体を回転させる必要があるらしい。
そして跳び出す位置は、大型個体から送られる水流によって決められている。
ならば群れを1匹ずつ追う必要はない。
水の流れそのものを崩せばいい。
エイルは次の水上標杭へ向かわず、川の中央へ進路を変えた。
周囲の魔物が一斉に追う。
10匹近い反応が左右へ分かれ、前方で弧を作るように並び始めた。
背後からも残りが近づいている。
逃げ道を狭め、水面へ出る瞬間を揃えるつもりだった。
エイルは川の中央で速度を落とした。
今までより小さな《空衝歩》を連続させ、ほとんど同じ場所へ留まる。
足元から伝わる微かな振動を餌として、魔物たちが円形へ集まってくる。
最初の背鰭が水面へ現れた。
続いて左右。
正面と後方。
23匹が、僅かな時間差を残しながら一斉に跳び出す。
エイルは長剣を振り回さなかった。
右足を水面へ置き、今度は振動を隠さず、《衝界》を川面へ広く通した。
強い一撃ではない。
水を吹き飛ばすためでもない。
自分を中心に、円形の薄い衝撃を水面から水中へ沈める。
波が周囲へ走り、跳び出そうとしていた魔物たちの腹部へ下から触れた。
刃状の鰭を最大の速度で使うには、水面へ出る角度を正確に揃えなければならない。
そこへ僅かな横揺れが入る。
最初の1匹が予定より早く身体を傾け、隣の個体へ背鰭をぶつけた。
続く2匹も軌道を外し、群れの中央で互いに衝突する。
水上へ作られかけていた刃の輪が崩れ、23匹の巨体がエイルの周囲へ無秩序に跳ね上がった。
エイルはその中心で長剣を両手へ持ち替えた。
正面へ広く《遠衝斬》を放つ。
飛ばした衝撃は1本の刃ではなく、幅を持った弧となって水面を走り、姿勢を崩した4匹の腹部をまとめて切り開いた。
右から来た個体の背へ足を置き、反力を使って上へ出る。
空中で身体を回し、左側へ細い《遠衝斬》を2本続けて放つと、重なっていた魚の頭部と尾が同時に断たれた。
背後から跳びついた3匹へは振り向かず、《警戒圏》で位置を拾ったまま、足裏から空気を蹴ってさらに高度を上げる。
魔物たちが空中で交差し、その刃状の鰭が互いの身体を裂いた。
血と水飛沫が、赤い鉱脈の光を受けて暗い地下空間へ舞い上がる。
エイルはその上へ立っていた。
地面も岩もない。
それでも《空衝歩》を使い、水面から10メートル近い高さで身体の向きを変えると、残る魔物たちが落下する中心へ向けて長剣を振り下ろした。
3本目の広い《遠衝斬》が水平方向へ走る。
魔物の硬い背鰭と衝突するたび威力を失いながらも、傷ついた個体をさらに切り、群れの半数近くを水中へ落とした。
倒し切れなかったものもいる。
しかし隊列は完全に崩れ、川面へ落ちた血と仲間の身体によって、水中の視界と流れまで乱れている。
エイルはその混乱の中へ降りず、空中で大型個体の位置を見た。
川底に留まっていた反応が、初めて大きく動いている。
◇
群れの中心だった個体は、仲間を失って逃げようとはしなかった。
長い尾を川底へ叩きつけ、周囲の水を円形へ巻き込み始める。
水面に大きな窪みが生まれ、死骸も生き残った魚も、その中心へ引き寄せられていった。
渦。
エイルを空中から水中へ落とし、残った群れと共に飲み込むつもりらしい。
大型個体の姿が、巻き上がった赤い光の中へ浮かび上がった。
全長は7メートルを超え、他の個体より胴体が太く、背中には左右へ2枚ずつ大きな刃鰭がある。頭部の先端は槍のように尖り、その根元から伸びた管状器官が水流を吸い込み、尾へ送り込んでいた。
群れへ攻撃位置を伝えていたのも、その水流だったのだろう。
渦が強まる。
空中にいるエイルの長衣まで下方へ引かれ始めた。
《空衝歩》で上へ逃げ続けることはできるが、大型個体は水中から出ないまま渦を維持しているため、距離を取るだけでは決着しない。
エイルは落下へ逆らうのをやめた。
渦の中心へ向かい、身体を真っ直ぐ下へ落とす。
水面へ近づくにつれて、周囲を回る水と魔物の死骸が壁のように立ち上がった。
大型個体はその底で、尖った頭部を上へ向けている。
落ちてくる獲物を貫くつもりだった。
エイルは長剣を下へ向け、最後まで相手の正面から外れない。
頭部との距離が20メートルを切る。
大型個体の左右にある刃鰭が開き、渦の回転がさらに速くなった。
そこでエイルは《遠衝斬》を放った。
大型個体へではない。
渦を作る左右の水壁へ、2本を続けて斜めに入れる。
水を完全に切断することはできなくても、同じ方向へ回り続けている流れへ逆向きの衝撃を通せば、短い時間だけ回転を崩せる。
左右の水壁が内側へ倒れ、渦の中心へ大量の水が流れ込んだ。
大型個体の身体が横へ押され、上へ向けていた槍状の頭部が僅かにずれる。
エイルはその瞬間に《空衝歩》を使った。
足裏から渦の中心へ圧力を放ち、水と空気が混ざった流れを押し返す。
落下方向が横へ変わり、大型個体の頭部を紙一重で外れた。
すれ違いざま、エイルは尖った頭部の側面へ左足を置いた。
硬い鱗が反力を返す。
そのまま魔物の背中へ向かって身体を押し出す。
大型個体が首を振り、エイルを水中へ落とそうとするものの、渦はすでに崩れ始めており、以前ほど自由に流れを動かせない。
エイルは背中の刃鰭へ着地しなかった。
その直前に足裏から短い衝撃を放ち、刃を避けて鰭の付け根へ移る。
長剣を振る。
硬い鰭の途中を斬るのではなく、胴体へ接続している柔らかな部分へ刃を入れた。
深く入る。
しかし大型個体は身体を回し、反対側の刃鰭をエイルへ叩きつけてきた。
エイルは剣を抜きながら空中へ逃れたものの、完全には避け切れず、刃の先端が長衣から左脇腹を浅く切った。
熱い痛みが走る。
血が水面へ落ちる。
大型個体は傷ついた鰭を動かしながら水中へ潜ろうとした。
渦を失っても、水中へ戻れば再び距離を取れる。
逃がせば、群れを立て直して同じ攻撃を繰り返す可能性があった。
エイルは水面へ着地せず、空中から長剣を大型個体へ向けた。
通常の《遠衝斬》なら、硬い背中へ弾かれる。
だから狙うのは、先ほど切り開いた鰭の付け根だった。
魔物が潜り、傷口が水面へ隠れる。
見えなくなっても位置は分かる。
流れへ混じる血。
傷ついた鰭が水を押す不規則な反響。
エイルは細く圧縮した《遠衝斬》を水面へ放った。
斬撃は水へ入った瞬間から形を崩し始める。
それでも完全に消える前に、《衝界》で傷口から漏れる振動へ経路を重ねた。
真っ直ぐ深く進ませるのではなく、魔物が動く方向へ僅かに曲げる。
水中で衝撃の刃が鰭の切れ目へ入った。
付け根が完全に断たれる。
大型個体の身体が片側へ傾き、水中から再び浮き上がった。
その瞬間、エイルは最後の《空衝歩》を使い、魔物の頭上へ降りた。
足元へ水面しかなくても、今は踏み込める。
右足へ《高密度強化》を重ね、水面へ細い圧力を作る。
ふくらはぎから太腿へ力を渡し、腰、背中、肩へ繋げた。
水面を蹴る。
足元で大きな爆発を起こすのではなく、深く細い水柱だけを下へ押し込み、その反力を身体と剣へ集める。
エイルの身体が前へ出た。
大型個体が無傷の刃鰭を振り上げる。
その軌道へ長剣を合わせ、《衝界》で力を上方へ流しながら、自分は魔物の懐へ入った。
槍状の頭部の根元。
群れへ水流を送っていた管状器官が集まる場所へ、剣先を突き込む。
実体の刃が止まったところから、《遠衝斬》を刀身の内側へ保持する。
見えない刃がさらに奥へ伸び、尾へ続く水流器官と脳を繋ぐ組織を断った。
大型個体の身体が大きく反った。
刃鰭が空を切る。
最後に尾が水面を叩いたものの、群れを動かしていた流れはもう生まれなかった。
巨体が横倒しになり、暗い川へ沈み始める。
残っていた小型個体たちは中心からの指示を失い、傷ついた身体を翻して下流や岩陰へ逃げていった。
エイルは追わず、沈む大型個体の背を一度だけ踏み、《空衝歩》を繋いで近くの水上標杭へ着地した。
赤い鉱物を埋め込まれた細い杭の上へ、濡れた靴底が静かに触れる。
背後では20匹を超える刃鰭の群れが崩れ、血と水飛沫によって荒れていた川面が、少しずつ本来の流れへ戻り始めていた。
◇
エイルは杭の上へ片膝をつかず、立ったまま呼吸を整えた。
左脇腹の傷は浅いものの、長衣の下へ血が滲んでいる。群れの中心で何度も《空衝歩》と《遠衝斬》を使ったため魔力消費も大きく、右脚と肩には圧縮出力を通した熱が残っていた。
それでも関節や魔力経路に損傷はない。
《自己治癒》を働かせながら周囲を確認し、生き残った小型個体が戻ってこないことを確かめる。
【水上における長距離連続移動を確認しました】
【水面振動を抑制した反力歩法が安定しました】
【群体水棲個体の統率中枢を単独で撃破しました】
【《空衝歩 Lv.3 → Lv.5》】
【《遠衝斬 Lv.3 → Lv.4》】
【《振動感知 Lv.68 → Lv.69》】
【《衝界 Lv.49 → Lv.50》】
【水面および流体を利用した連続反力制御の効率が上昇しました】
【放出衝撃の水中経路維持時間が僅かに延長されました】
《空衝歩》が2段階上がっている。
ただ水面を強く蹴ったからではなく、最初は位置を読まれていた足音を消し、自然な水流へ圧力を重ねることで、少ない出力でも長距離を進めるようになった影響だろう。
戦闘中には水面、空気、魔物の身体、崩れた渦まで足場へ使い、ほとんど地面へ触れないまま群れの中央を突破した。
《衝界》も50へ届いた。
以前なら単純に押すか、硬い物体の内部へ衝撃を通す使い方が中心だったものが、今は流れ続ける水の中で経路を作り、広げ、反転させ、必要な場所だけへ力を残せるようになっている。
エイルは右足を水面へ下ろし、先ほど覚えた振動を抑える歩き方を試した。
足裏の下へ薄い圧力が作られる。
水面は僅かに沈むだけで、飛沫も大きな波も上がらない。
そのまま重心を移すと、身体は滑るように前へ進んだ。
1歩。
2歩。
3歩。
杭から離れても高度を失わず、川の流れへ沿って速度を上げられる。
まだ何時間でも続けられるほど魔力効率が良いわけではない。それでも途中に標杭や岩があれば、休息を挟みながら河岸より速く下流へ進めそうだった。
エイルは倒した大型個体の姿と群れの特徴を地図へ記録し、仮に《刃鰭魚》、中心個体を《統鰭》と記した。
素材の採取は最小限に留める。
大型個体の水流器官へ使われていた硬い管と、刃鰭の付け根から薄い膜を切り出した。特に水流器官は《深河甲蛇》の鰓膜とは構造が異なり、大量の水を圧縮するのではなく、細い流れを遠くまで保つ働きを持っている。
《遠衝斬》を水中へ通す際の補助や、水上で《空衝歩》を使う時の圧力経路を安定させる素材として利用できるかもしれない。
◇
その日の夕方、エイルは川の中央に残された小さな人工島へ到着した。
直径20メートルほどの岩盤へ金属杭を打ち込み、周囲を石壁で補強した場所であり、かつては水上路を進む測量者たちの休憩所として使われていたらしい。
建物は残っていない。
それでも中央には屋根付きの石台があり、その下へ薪の代わりに使える乾燥した油石と、密閉された古い水瓶が幾つか保管されていた。
水瓶の中身は飲める状態ではなかったが、容器そのものは使える。
エイルは島の周囲に魔物の反応がないことを確認し、傷を洗ってから新しい布を巻き、1人分の野営を整えた。
川の中央では周囲の水音が絶えず、完全に静かな場所ではない。
それでも《刃鰭魚》の群れを倒してからは、水中へ大きな反応が近づいてくる様子もなく、安心して休めそうだった。
夕食を終えたあと、エイルは石台へ腰を下ろし、今日の移動経路を地図へ加えた。
河岸沿いの道は途中で失われている。
しかし水上標杭を結べば、第50標から下流へ続く新しい線を引ける。
今日だけで進んだ距離は、河岸を歩いた場合の倍近かった。
水面を長く移動できるようになったことで、地形に左右されない経路が1つ増えている。
エイルは自分用の技能帳へ、《空衝歩》の水上運用について書き込んだ。
強く踏まない。
足裏へ作る圧力を薄くし、自然な水流へ同じ方向の力を重ねる。
停止する時だけ垂直の反力を使い、移動中は前方へ流れを作る。
敵に位置を読まれたくない場合は、波を外へ広げず、足裏から後方へ細く流す。
戦闘中には出力を上げる必要があるものの、長距離移動なら今までの半分近い魔力で進める可能性がある。
書き終えた頃、下流から赤い反響が返った。
水上標杭ではない。
もっと大きく、深層脈へ直接繋がった人工物。
第51標。
距離はまだ1日ほどある。
ただし、今日の移動速度なら記録にあった2日を待つ必要はなさそうだった。
◇
翌朝、エイルは日の光が届かない深層河川で時間を確認し、魔導時計の針が朝を示すと同時に人工島を出た。
前日より水面へ立つ動きは滑らかになっている。
最初の一歩から大きな飛沫を上げず、標杭と標杭の間を流れるように進み、崩れた場所では川底に残る赤い鉱物を《魔力感知》で拾いながら経路を補った。
途中で小型の水棲魔物に狙われることはあったものの、《刃鰭魚》のように群れで襲ってくる相手はおらず、飛び出してきた2匹についても、着水位置へ細い《遠衝斬》を置くだけで追い払えた。
昼前には河岸の形が変わり始めた。
左右の岩壁が少しずつ低くなり、天井も遠ざかっている。
さらに下流から自然光が入り、水面へ赤以外の色が戻ってきた。
深層河川は完全な地下を抜け、下層大地の西側へ流れ出ようとしている。
川幅も50メートル近くまで広がり、流れの中央には小さな岩島が幾つも現れた。
そのうち最も大きな島へ、人工的な塔が立っている。
高さは10メートルほど。
外壁には赤い鉱物が螺旋状に埋め込まれ、塔の上部から深層脈の反響が周囲へ広がっていた。
第51標。
エイルは最後の水上標杭を踏み、そこから《空衝歩》を3歩繋いで岩島へ渡った。
塔の根元へ刻まれた文字は、長い年月を経てもはっきり残っている。
『第51標 下層河岸西口』
『以西、深層脈露出帯』
『魔力濃度、標準域の3.4倍』
最後の数字を読み終えた直後、エイルは島の西側へ目を向けた。
深層河川は岩壁の間を抜け、その先にある広大な盆地へ流れ込んでいる。
盆地の地面には、赤い鉱脈が川のように何本も露出し、草木や岩を内側から照らしていた。空気へ漂う魔力もここまでとは比較にならないほど濃く、遠くに見える森の上には、魔力が霧となって淡く揺れている。
そして、その霧の中で。
巨大な影が立ち上がった。
距離は数キロ以上離れている。
それでも背中は周囲の木々より高く、ゆっくり首を持ち上げただけで、森の枝と葉が広い範囲へ波打った。
こちらへ気づいた様子はない。
ただ歩いているだけなのに、一歩ごとに深層脈を通して重い振動が第51標まで届いてくる。
第50標の記録に残されていた、単独測量を禁じた大型個体の活動域。
その意味を、エイルはようやく目で確かめた。
それでも、恐怖だけが先に立つことはなかった。
《脈冠獣》を倒し、《深河甲蛇》を水中から引きずり出し、今は20匹を超える《刃鰭魚》の群れを、水面から一度も岸へ逃げずに崩したばかりだった。
遠くへ届かなかった剣は《遠衝斬》となり、足場のなかった空中と水面には《空衝歩》で道を作れるようになっている。
現在の自分で、あの影へどこまで通じるのか。
足りないなら、何を伸ばせば届くのか。
エイルは第51標の位置を地図へ書き込み、その先に広がる深層脈露出帯へ新しい線を引いた。
大きな影は森の奥へゆっくり消えていったが、地面へ残る振動は長く途切れなかった。
17歳になったエイルの成長は、もう以前と同じ速度ではない。
そして地図のさらに西には、その加速した力さえ試すに足る相手が、何体も息づいていた。




