第137話 第50標の獣
黒い林の根元に隠されていた石蓋を開き、螺旋階段へ足を下ろしたエイルは、地上から差し込む光が届かなくなる前に魔導灯を腰へ固定し、壁へ埋め込まれた赤い鉱物の反応を確かめた。
階段は人間2人が並べるほどの幅を持ち、外周には低い手摺まで残っているものの、長い年月で石の角は丸く削れ、場所によっては天井から落ちた岩片が足元へ積もっている。それでも地表の《未定着路》とは違い、ここでは階段も壁も同じ深層岩盤へ固定されているため、目に見える距離と実際の位置がずれる感覚はなかった。
下へ進むほど、深層脈から返る魔力の反響は強くなっていく。
第49標から採取した赤い鉱物片へ魔力を通すと、階段の先にある同質の鉱物が順番に応え、そのさらに奥から、今までで最も明確な反応が返ってきた。
第50標は近い。
ただし、そこへ重なるようにして別の魔力も存在している。
生物。
しかも小さくない。
エイルは歩調を落とし、《警戒圏》を階段の先へ広げた。
反応は動いていない。
壁や床へ身体を触れさせたまま、長い時間を同じ場所で過ごしているらしく、魔力の輪郭が周囲の赤い鉱物層へ半ば溶け込んでいる。地上で倒した《潜板獣》とは違い、地中を移動している様子もなく、第50標の近くへ留まる理由があるようだった。
螺旋階段をさらに30メートルほど下ると、壁の一部が大きく破壊されていた。
内側からではない。
階段の外側にある自然空洞から、何かが石壁を打ち抜き、通路へ侵入した痕跡だった。
穴の縁には古い爪傷が残り、床には赤い鉱物の破片が散らばっている。そのうち幾つかは角を削られ、表面へ歯形に似た凹みが付いていた。
「鉱物を食べるのか」
エイルが破片へ触れると、奥にいた生物の反応が僅かに動いた。
こちらが赤い鉱物へ流した魔力を拾ったらしい。
階段の下から、硬いものがゆっくり擦れ合う音が返ってくる。
エイルは破片を置き、長剣の柄へ手を添えたまま先へ進んだ。
◇
螺旋階段の終点には、直径50メートルほどの円形空洞が広がっていた。
天井から垂れる赤い鉱脈が淡い光を放ち、中央には高さ5メートルほどの石柱が立っている。その表面へ刻まれた数字は遠目でも読み取れた。
『50』
第50標。
地表へ置かれた石柱とは違い、深層岩盤へ直接固定され、周囲から伸びる赤い鉱物の筋が根のように集まっている。
しかし、エイルの視線を最初に引いたのは石標ではなかった。
その周囲へ身体を巻き付けるようにして、巨大な獣が眠っている。
背丈は伏せた状態でも3メートル近くあり、起き上がればさらに大きい。全身は黒褐色の短い毛に覆われているものの、肩、背中、前腕には岩板のような灰色の甲殻が重なり、頭部には赤い結晶が冠のように何本も伸びていた。
腕は4本。
上側の2本は人間の胴体より太く、拳の外側に鉱物質の装甲を持っている。下側の2本は少し細いが、それでもエイルの脚より太く、石標へ食い込むように抱え込まれていた。
後脚は2本だけで、身体を支えるだけでなく、岩壁を跳び回るために発達している。
目は閉じていた。
代わりに頭部の赤い冠が、第50標から流れる魔力へ一定の周期で明滅している。
エイルが空洞へ入った瞬間、その光が止まった。
巨大な獣が頭を上げる。
閉じていた瞼が開いたものの、その奥に眼球はなく、赤い膜だけが薄く張られていた。
視覚ではなく、冠と深層脈を通して周囲を把握している。
獣はすぐに襲い掛からず、4本の腕を石標へ残したまま、エイルへ頭部を向けた。
「そこを使ってるのか」
第50標から流れる魔力を吸収しているのか、反響を利用して周囲を探っているのかまでは分からない。
ただし、先へ進むためには石標を調べる必要がある。
エイルは距離を保ったまま、床に埋め込まれた赤い鉱物へ僅かな魔力を流した。
その瞬間。
獣の頭部にある結晶冠が強く輝いた。
円形空洞全体から魔力が引き寄せられ、床へ走る赤い線が一斉に光る。
エイルの《危機感知》が強く反応した。
獣は石標へ巻き付けていた下腕を離し、床を叩く。
衝撃そのものは大きくない。
しかし赤い鉱物を通して増幅された振動が、空洞のあらゆる方向からエイルへ返ってきた。
右。
左。
背後。
頭上。
《振動感知》へ同時に幾つもの接近反応が入り、本物の獣がどこから来るのか判別しづらくなる。
次の瞬間、正面にいたはずの巨体が消えた。
エイルは目に見えた残像を追わず、《警戒圏》が最も強く危険を拾った左上へ長剣を抜いた。
岩壁を蹴った獣が、頭上から4本の拳を振り下ろしてくる。
最初の上腕を剣で受ければ、残る3本が身体へ届く。
エイルは正面から止めず、刀身を最初の拳の側面へ当て、《衝界》で力を斜め下へ流した。
拳が床へ逸れる。
その腕の上へ左足を置き、踏み込んだ反力で身体を上げると、2本目の拳を肩の下へ通した。
3本目が脇腹へ来る。
完全には避け切れない。
エイルは《高密度強化》を右腕から肩、背中へ繋ぎ、前腕で拳の内側を押した。
重い衝撃が入る。
身体が数メートル横へ飛ばされたが、拳そのものは軌道を外れ、肋骨への直撃を免れた。
着地する前に4本目が追ってくる。
獣は一度の跳躍で攻撃を終わらせず、前腕を地面へ突き立て、巨体を引き寄せるようにして間合いを詰めていた。
エイルは空中で右足から短い衝撃を放ち、落下地点を横へずらした。
拳が空を切り、床へ深くめり込む。
エイルは岩片が跳ね上がる中へ着地すると、すぐ反撃へ移った。
近い。
《遠衝斬》を飛ばすより、直接斬る方が速い距離だった。
長剣を獣の前腕へ滑らせる。
刃は毛と薄い皮膚を切ったものの、その下にある筋肉へ数センチ入ったところで止まった。
硬い。
甲殻だけではない。
赤い鉱物を食べ続けた影響なのか、筋肉の繊維まで鉱物質の粒子を含み、斬撃の力を広く散らしている。
獣が傷ついた腕を引き、別の2本でエイルの左右を挟んだ。
後ろへ退けば、そのまま石標から離される。
エイルは前へ出た。
左右から閉じる腕の間へ身体を滑り込ませ、獣の胸元へ肩を当てる。
上腕の1本が背後から回り込み、エイルの胴を掴もうとする。
長剣を振る空間はない。
エイルは柄を握ったまま肘を畳み、獣の胸部へ剣の鍔を押し当てると、《身体強化》を脚から腰へ通した。
押す。
体格も重量も相手が圧倒的に上だった。
それでも獣は4本の腕を攻撃へ使っており、後脚だけで立っている。
エイルは胸を持ち上げるのではなく、相手の右脚へ自分の足を掛け、重心が残る方向を横へずらした。
巨体が僅かに傾く。
その瞬間、長剣の柄から短い《衝界》を胸部へ入れ、甲殻と筋肉の間へ振動を広げた。
獣の上体が反射的に反る。
腕の隙間が開いた。
エイルはそこから抜け、振り返りざまに後脚の膝裏へ刃を入れた。
今度は甲殻が薄い。
刀身が半ばまで沈み、黒い血が床へ散る。
しかし獣は倒れず、傷ついた脚を強引に踏み込み、4本の腕で地面を叩いた。
赤い鉱物を通した衝撃が、先ほどより強く空洞へ広がる。
◇
《振動感知》の中で、獣が6体に増えた。
実際に分裂したわけではない。
床と壁へ流した反響を、結晶冠が本物の動きに似せて返している。
視覚では獣の姿を追えるものの、相手は岩壁や天井まで使って高速で移動するため、一度視界から外れれば、次の位置を振動から読むしかない。
その振動が偽物に埋め尽くされている。
獣が左へ跳んだ。
エイルは姿を見て追う。
その途中で結晶冠が光り、周囲から別の反響が重なった。
視界の左にいる巨体と、《危機感知》が示す背後の危険が一致しない。
罠だ。
エイルは振り返らず、その場で身体を低くした。
左へ跳んだ獣は本体ではなく、赤い鉱物へ残された魔力の像だった。
本物の拳が背後から頭上を通過する。
風圧だけで暗灰色の髪が大きく揺れた。
エイルは低い姿勢のまま回転し、獣の足首へ長剣を当てたが、相手もすぐに脚を上げ、刃を甲殻へ滑らせた。
続けて下腕が伸び、エイルの左腕を掴む。
太い指が長衣ごと前腕を締めた。
骨が軋む。
獣はそのままエイルを持ち上げ、壁へ叩きつけようと腕を振った。
エイルは掴まれた腕を引き抜こうとせず、反対の右手で長剣を握り直した。
左腕は固定されている。
ならば獣の腕そのものを足場にできる。
身体が振られる方向へ合わせて右足を相手の前腕へ掛け、《高密度強化》を脚と腰へ通す。
振り回す力へ逆らわず、最も速度が乗る直前に腕を蹴った。
エイルの身体だけが上方へ抜ける。
左腕はまだ掴まれていたものの、肩の位置が獣の手首より上へ移ったことで、締め付けの方向が変わる。
エイルは腰を捻り、掴まれた左腕を軸にして獣の腕へ身体を巻き付けた。
そのまま右脚を肘へ掛ける。
獣が腕を振り下ろそうとするより先に、脚と腰へ力を繋いで関節を逆方向へ押した。
巨体の肘が軋む。
獣が初めて、空洞を震わせる低い咆哮を上げた。
それでも腕は折れない。
反対側の上腕がエイルを叩き落とそうと迫る。
エイルは関節を極めたままでは避けられないと判断し、左腕を掴んでいた指の隙間へ長剣の柄頭を叩き込んだ。
指が緩む。
身体を外へ投げ出し、空中歩法で横へ逃れる。
直後、獣の拳が自分自身の前腕へ当たり、甲殻が大きく砕けた。
エイルは着地しながら、砕けた腕へ《遠衝斬》を放った。
距離は15メートル。
細く圧縮した衝撃の刃が甲殻の割れ目へ入り、先ほど極めかけた肘関節を深く切り開く。
上腕の1本が力を失い、床へ垂れた。
「まず1本」
しかし、獣の結晶冠はさらに強く光っていた。
痛みと怒りに反応し、第50標から吸い上げる魔力を増やしている。
床の赤い線が眩しいほど輝き、偽の反響が6つから12へ増えた。
《振動感知》だけでは、もはや何も判別できない。
エイルは感知を切らなかった。
使えないから捨てるのではなく、偽物と本物の違いを探る。
結晶冠が作る反響は、獣の動きを正確に再現している。
足が床へ触れる強さ。
腕が空気を押す周期。
甲殻同士が擦れる音。
どれも本物とほとんど同じだった。
ただし、偽物は床や壁へ流れた魔力から作られている。
本体の身体には、血液と筋肉、呼吸による微細な揺れがある。
地面へ伝わる衝撃だけでなく、生物の内側を流れるものを見る。
エイルは《振動感知》の範囲を広げるのをやめ、反対に空洞全体へ散っていた意識を自分の周囲30メートルへ絞った。
《魔力感知》も重ねる。
偽の反響には結晶冠と同じ均一な魔力しかない。
本体には、傷ついた脚や腕へ集まる魔力の偏りがある。
12の反応のうち。
1つだけ。
呼吸のたび胸部が僅かに沈む。
エイルはその位置へ振り向いた。
獣が天井から落下してくる。
今度は迷わない。
◇
4本のうち動く3本の腕が、同時にエイルへ向けられた。
上腕の拳が正面。
下腕の2本が左右から脚と腰を狙う。
後方へ下がれば、落下する巨体の勢いをそのまま受ける。
エイルは前へ踏み込んだ。
正面の拳が頭上へ来る直前、右足へ《高密度強化》を重ね、低い姿勢から獣の懐へ滑り込む。
下腕の1本が肩へ当たった。
完全には避けない。
衝撃を左肩から背中へ流し、その力まで前進へ変える。
もう1本が腰を掴もうとしたところへ、長剣の腹を当て、《衝界》で腕の軌道を外側へ押した。
獣の胸部が目の前へ来る。
エイルは剣を振らず、左手で相手の毛を掴んだ。
そのまま前脚の付け根へ右足を掛け、巨体を登るように身体を持ち上げる。
獣が上体を反らし、エイルを振り落とそうとする。
エイルは胸部へ留まらず、肩の甲殻へ足を移し、さらに頭部へ跳んだ。
結晶冠が至近距離で赤く輝く。
そこから放たれた振動が、頭蓋と内臓を同時に揺らした。
視界が白く霞む。
口の中へ血の味が広がった。
それでもエイルは落ちなかった。
左手で結晶冠の根元を掴み、右足を獣の肩へ食い込ませる。
冠が周囲の赤い鉱物と繋がっているなら、これを断てば偽の反響も止まる。
長剣を振り下ろす空間はない。
エイルは刀身を結晶の隙間へ差し込み、柄を両手で握った。
獣が4本の腕を頭上へ集める。
自分の冠ごと叩き潰すつもりだった。
先ほど傷つけた腕さえ、完全には動かなくても拳を持ち上げている。
左右と正面から、岩塊に等しい拳が迫る。
エイルは剣を抜かなかった。
代わりに、結晶冠へ入れた刀身を支点に身体を跳ね上げる。
足元に地面はない。
それでも獣の肩へ放った衝撃が強い反力を返した。
1歩目。
身体が拳の上へ抜ける。
獣はすぐに顔を持ち上げ、上空のエイルを追った。
エイルは2歩目を空気へ放ち、さらに高度を上げながら長剣を冠から引き抜く。
拳同士が獣の頭上で激突した。
甲殻が砕け、赤い結晶にも亀裂が入る。
エイルは落下しながら、亀裂へ向かって《遠衝斬》を放った。
斬撃は直線ではない。
最初から冠の根元を狙えば、獣は腕で防ぐ。
だから最も大きな結晶の横を通し、放出後に《衝界》の経路を僅かに曲げた。
透明な刃が獣の防御を外れ、拳同士の衝突で開いた亀裂へ横から入る。
結晶冠の半分が切断された。
空洞を満たしていた偽の反響が、一斉に消える。
獣が大きく体勢を崩した。
それでも倒れない。
残る結晶を光らせ、石標へ向かって後退する。
第50標へ再び身体を巻き付け、魔力を吸い直すつもりだった。
エイルは空中で3歩目を使い、落下方向を石標側へ変えた。
獣より先に着地する。
長衣の裾が赤い光の中で大きく広がり、暗灰色の髪には結晶の破片が光を反射していた。
エイルは第50標を背にして長剣を構えた。
傷ついた獣が低く身体を沈める。
残る3本の腕を地面へ置き、後脚へ全体重を集めている。
最後は跳躍ではない。
巨体そのものをぶつけ、エイルごと石標を押し潰すつもりだった。
床が割れる。
獣が突進する。
重量も速度も、これまでの拳とは比べものにならない。
避ければ第50標が砕かれる。
正面から受ければ、今のエイルでも無傷では済まない。
それでも。
退く理由はなかった。
◇
エイルは長剣を右手だけで持ち、左手を前へ出した。
獣の頭部に残る結晶冠ではなく、最も太い上腕の手首を狙う。
接触の直前、《身体強化》を全身へ通し、その内側へ《高密度強化》を脚、腰、背中、左肩の順で重ねた。
巨大な拳が左手へぶつかる。
腕だけで受け止めるのではない。
足裏から背中までを1本の支柱として繋ぎ、入ってきた力を全身へ分ける。
床が陥没する。
靴底が岩を削り、エイルの身体が1メートル近く後方へ押された。
それでも倒れない。
第50標へ背中が触れるより前に、踏み止まった。
獣の残る腕が左右から迫る。
エイルは左手で掴んだ手首を離さず、ふくらはぎへ圧縮魔力を作った。
太腿。
腰。
背中。
肩。
解放する順番は、三裂谷で本流を断った時と同じだった。
ただし今度は剣へ通さない。
左腕へ集める。
自分より何倍も重い巨体の突進を、押し返すために使う。
圧縮が順番に解ける。
エイルの左腕が沈み込みかけていた獣の拳を、少しずつ持ち上げ始めた。
巨体の前脚が床から浮く。
獣が咆哮し、残る腕をエイルへ振り下ろそうとする。
その前に、エイルは左足を獣の前へ踏み込ませ、掴んだ腕を自分の肩へ引いた。
押し返すのではない。
突進の力を残したまま、進む方向だけを変える。
腰を回す。
背中へ繋がった出力を一気に横へ流す。
4メートルを超える獣の身体が、前脚を中心に持ち上がった。
赤い鉱物の光の中で、17歳の少年が巨大な獣を半回転させる。
甲殻に覆われた背中が床へ叩きつけられ、円形空洞全体が揺れた。
獣の腕が大きく開く。
胸部と喉が露出する。
エイルは掴んでいた手首を離し、右手の長剣を両手へ持ち替えた。
獣が起き上がるより速く、その胸へ踏み込む。
通常の斬撃では鉱物を含む筋肉へ止められる。
だから最初から、外側を斬り抜くことだけを考えない。
剣先を胸部の甲殻が重なる隙間へ差し込み、圧縮魔力の残りを脚から腰、肩へ繋げる。
刀身が深く入る。
獣の下腕がエイルの背中へ伸びる。
それでも剣を抜かない。
《衝界》を切っ先から内部へ広げ、結晶冠から胸部へ続く魔力経路と、4本の腕を動かしている太い筋束だけへ力を通した。
獣の身体が跳ねる。
伸びていた腕が途中で落ちる。
エイルは最後に剣を横へ引き、心臓へ繋がる部分を断った。
巨体が一度だけ大きく震えたあと、床へ沈む。
赤い結晶冠の光が消えた。
空洞に残ったのは、深層脈が本来持っている静かな反響だけだった。
◇
エイルは長剣を抜き、獣から数歩離れた。
左腕には突進を受け止めた重い痺れが残り、肩と背中にも圧縮出力を通した熱がある。口元へ上がっていた血を袖で拭うと、《自己治癒》が内側へ残る振動の損傷を少しずつ修復し始めた。
大きな怪我はない。
しかし、簡単な相手でもなかった。
結晶冠によって《振動感知》を乱され、4本の腕と壁を使った攻撃へ対応しながら、第50標まで守る必要があった。正面から力だけを比べても、獣の方が重量と腕力では上だっただろう。
それでも最後には、突進そのものを利用し、巨体を地面へ投げた。
新しく得た《遠衝斬》も、空中歩法も、圧縮した《高密度強化》も、どれか1つだけで勝ったわけではない。
感知を乱された時は《魔力感知》と呼吸の振動を重ね、近距離では剣だけに頼らず身体をぶつけ、遠くへ離れた結晶には曲げた《遠衝斬》を届かせ、最後は全身の力を左腕へ繋いだ。
すべてが同じ戦いの中で繋がっていた。
【上位個体の討伐を確認しました】
【複数の感知妨害下における実体識別を達成しました】
【空中での連続反力移動が独立技術として定着しました】
【新規技能《空衝歩》を獲得しました】
【《剣術 Lv.82 → Lv.83》】
【《身体強化 Lv.50 → Lv.51》】
【《高密度強化 Lv.46 → Lv.47》】
【《衝界 Lv.45 → Lv.47》】
【《魔力感知 Lv.36 → Lv.38》】
【《危機感知 Lv.31 → Lv.32》】
空中歩法が、ようやく独立した技能として認められた。
足裏から衝撃を放つだけではなく、空気、岩壁、落下物、魔物の身体といった反力を返すものへ圧力を当て、空中で進路を作る技術。
飛行ではない。
長時間浮かぶこともできない。
それでも、地上の足場へ縛られず、数歩の間に攻撃、回避、方向転換を繋げられる。
今後さらに伸ばせば、飛行する相手へ待ち構えるだけではなく、自分から空中へ追い、剣の間合いを押し付けることもできるだろう。
エイルは表示が消えたあと、左腕を何度か動かした。
痺れはまだあるものの、握力も関節も問題ない。
巨大な突進を受け止めた時、圧縮魔力を最後まで一箇所へ留めず、脚から肩へ順番に通せたことで、以前のように筋肉を傷めず大出力を扱えている。
未定着だった切り札も、《空衝歩》と同じように、独立した技術へ近づいていた。
◇
倒した獣の身体を調べると、結晶冠は第50標と同じ赤い鉱物を取り込みながら成長しており、内部には振動と魔力を増幅する幾重もの薄い層があった。
仮に《脈冠獣》と記録する。
4本の腕と鉱物質の筋肉を持ち、深層脈の反響を利用して獲物や侵入者を感知する。さらに周囲へ偽の振動を流し、相手の感知を乱す性質がある。
第50標を守っていたわけではなく、長期間ここへ留まり、石標から流れる魔力を餌と感覚器の両方へ使っていただけなのだろう。
エイルは結晶冠の一部と、前腕の甲殻を採取した。
冠は《振動感知》や《魔力感知》を補助する素材として使える可能性があり、甲殻も鉱物を含む割に弾力が残っているため、防具や剣の部品として価値があるかもしれない。
必要な量だけを切り出したあと、エイルは第50標へ近づいた。
石柱の表面には獣の爪傷が多く残っているものの、数字と記録は読める。
『第50標 深層標路中央基点』
『西方第51標、下層河岸に接続』
『地表板位に依存せず、深層脈第3流へ従え』
石柱の下部には、3本の赤い線が刻まれていた。
エイルが第49標から辿ってきたのは、そのうち最も上側の流れらしい。第51標へ向かうには、ここから分かれる3本目の深層脈を西南西へ追う必要がある。
ただし、記録はそれだけではなかった。
反対側へ回ると、石柱の根元に小さな扉があり、その内部へ防水処理された金属板が収められている。
表面には、第50標より西側の簡単な地形と、過去の測量者が残した注意事項が刻まれていた。
『第51標まで推定6日』
『深層脈第3流は途中で地表へ露出する』
『露出地点より西方、魔力濃度急増』
『大型個体の活動域につき、単独測量を禁ず』
エイルは最後の一文を読んだあと、倒した《脈冠獣》へ目を向けた。
この獣でさえ、第50標の周囲へ留まっていた個体に過ぎない。
さらに西では魔力濃度が上がり、過去の測量者が単独行動を禁止するほどの大型個体が生息している。
危険の内容が曖昧なまま、ただ進めと書かれているわけではない。
少なくとも、ここから先では今まで以上の戦闘が起きる可能性が高かった。
エイルは金属板の内容を地図へ写し、第51標の推定方向へ線を引いた。
人を待つつもりはない。
70年以上前の規則が現在の地形や魔物へそのまま当てはまる保証もなく、自分の実力で進めないと判断した時には、その場で戻ればいい。
ただし。
今の戦闘で《空衝歩》は技能として定着し、《遠衝斬》も実戦の中で曲げて使えるようになった。圧縮した《高密度強化》についても、巨大な獣を正面から受け止め、投げるだけの出力へ近づいている。
ここで足を止める理由は、どこにもなかった。
エイルは第50標の位置と《脈冠獣》の危険範囲を地図へ記し、空洞の西側へ続く石扉を調べた。
扉の向こうからは、水の流れる音が返ってくる。
第51標へ続く下層河岸。
そして、そのさらに先には、単独測量を禁じられた大型個体の活動域がある。
エイルは長剣へ残った黒い血を拭い、鞘へ戻した。
誰もいない深層で、17歳の冒険者は第50標を背にし、さらに強くなるための道へ1人で踏み込んでいった。




