第136話 深層脈の先
第49標へ埋め込まれた赤い鉱物から返る反響は、エイルが西へ歩き始めてからも途切れず、地表の岩盤がゆっくり移動するたび、僅かずつ方向を変えていた。
最初は次の石標そのものが動いているのかと思ったが、数時間にわたって反響を確かめるうちに、変化しているのは目的地の位置だけではないことが分かってきた。
第49標が横倒しになっている《草原板B》も、深層脈の上を北西へ滑り続けている。感知の基準となる石標そのものが移動している以上、そこから見た第50標の方角も変わって当然だった。
エイルは歩きながら一定の間隔で足を止め、赤い鉱物を持つ小さな欠片へ魔力を流した。
第49標そのものを持ち運ぶことはできないため、表面から剥がれかけていた鉱物片を1つだけ採取し、元の石柱には欠片を取った位置と日付を刻んである。欠片から送れる魔力は弱いものの、深層脈へ直接《魔力感知》を重ねれば、西から返る微かな反響を拾うことはできた。
重要なのは、1度の反響だけで進路を決めないことだった。
最初の反応を記録し、100歩進んでもう一度測る。さらに地表の岩盤がどちらへ動いているかを《振動感知》で確かめ、2つの結果から、目的地そのものの方向を推測する。
地面の移動を差し引けば、第50標らしい反響はほぼ西北西へ固定されている。
距離までは分からない。
赤い鉱物を通る魔力は深層脈の途中で何度も分かれ、別の岩盤や鉱物層へ反射しているため、近くから弱く返っているのか、遠くから強い反応が届いているのかを区別しづらかった。
それでも、歩く方向を見失うことはない。
地表に道が残らないなら、地面の下を流れるものを道にすればよかった。
◇
第49標を離れてから3日間、エイルは人間の痕跡を1つも見つけなかった。
古い焚き火や切り倒された木、魔物へ刃を入れた跡すらなく、目に入るのは下層大地へ適応した植物と動物ばかりだった。
最初の夜は背の低い岩山の窪みで過ごし、2日目は巨大な樹木の根元にできた空洞を借りた。3日目には、西から流れてくる霧が岩壁へぶつかり、細かな水滴となって集まる場所を見つけたため、そこを新しい水場として地図へ加えた。
食料についても、レメルから持ってきた保存食だけを減らし続けるつもりはなかった。
下層草原を移動する6本脚の獣が食べていた銀色の葉は、人間が口にするには硬く、試しに少量を煮ても強い渋味が残った。ところが、その植物の根元にできる丸い地下茎は、周囲の小型獣が掘り出して食べている。
エイルは動物が残した欠片を拾い、匂いと魔力反応を調べたうえで、薄く切ったものを十分に煮た。
白い果肉には僅かな甘味があり、芋ほど柔らかくはないものの、保存食へ混ぜる分には悪くなかった。
最初の日は一口分だけに留め、翌朝まで身体へ異常がないことを確かめてから、食べられる植物として記録する。
さらに小さな沢では、岩の隙間へ扁平な魚が隠れていた。
身体の幅は人間の手ほどで、鱗の代わりに透明な膜が全身を覆っている。水中の魔力を膜へ集め、その反発で岩へ張り付いているらしく、素手で掴もうとすれば手の間から滑り落ちた。
エイルは沢の上流と下流へ石を置き、逃げ道を狭めてから1匹だけ捕まえた。
内臓や膜に毒はなく、火を通せば白身の淡泊な味がしたため、3日目の夕食は保存肉ではなく、魚と地下茎を煮たものになった。
豪華な食事ではない。
味付けも塩と乾燥香草だけだった。
それでも自分で見つけた土地のものを食べながら、誰も描いていない地図へ水場と植物の印を書き加える時間は、街の宿で用意された料理を食べる時とは違う満足があった。
1人旅では、誰かが食料を分けてくれることも、道を間違えた時に指摘してくれることもない。
その代わり、朝にどちらへ進むかも、途中で何時間立ち止まるかも、すべて自分だけで決められる。
17歳になってから最初の数週間を、エイルは誰とも言葉を交わさず過ごしていたが、孤独に押し潰されるような感覚はなかった。
時折、街で交わした会話や、一緒に戦った者たちの顔を思い出すことはある。それでも今は、誰かと再会するために急ぐより、この広い下層大地を自分の足で確かめていく時間の方が大切だった。
◇
4日目の朝、深層脈から返る反響が強くなった。
単純に第50標へ近づいたのかと思ったが、周囲へ《魔力感知》を広げると、足元の岩盤そのものに赤い鉱物が増えている。
草原の土へ隠れているため目では見えないものの、地下1メートルから3メートルほどの場所へ、細い鉱物層が網のように広がっていた。
第49標から送った魔力がこの鉱物へ入り込み、反響を強めているらしい。
エイルは鉱物層の向きを地図へ記しながら進んだ。
地表の景色も少しずつ変わっている。
背の低い草原が減り、黒い幹を持つ木々が増えてきた。木の高さは10メートルほどしかないが、枝は上へ伸びず、横へ何本も広がって隣の木と絡み合っている。
葉は濃い緑ではなく、光の当たり方によって青や紫へ見える。頭上の高原岩盤が陽光を遮る時間でも、葉脈へ蓄えた魔力が淡く光るため、林の中は完全な暗闇にならなかった。
木の根は地面へ深く潜らず、表面を這うように広がっている。
岩盤が動いた時に折れないよう、地面そのものへ強く固定することを避けているのかもしれない。
エイルは黒い林へ入る前に、木々の間へ《警戒圏》を広げた。
小型の生物反応が多い。
枝の上を走るもの。
幹の空洞へ潜むもの。
地表近くをゆっくり移動する反応もある。
ただし、すぐに襲い掛かってくるほど強い危険は感じなかった。
林の中では視界が狭まり、深層脈の反響も木の根や赤い鉱物へ何度も散らされる。エイルは進む速度を落とし、地面だけではなく、黒い木々がどちらへ傾き、根がどの岩盤へ乗っているかまで地図へ加えていった。
しばらく進むと、林の内部へ細長い空白があることに気づいた。
木が生えていない。
草も少ない。
幅は30メートルほどで、北から南へ続いている。
最初は川が枯れた跡かと思ったが、地面へ水が流れた痕跡はなく、土の下には薄い岩盤が広がっていた。
周囲の木々は、その帯状の場所を避けるように根を曲げている。
「何か通るのか」
大型魔物の獣道にしては広すぎる。
地形が定期的に割れる場所なら、深い亀裂や崩落跡が残るはずだった。
エイルは帯の外側へ立ったまま、《振動感知》を地面へ通した。
表面から2メートルほど下に空洞がある。
細長い穴ではない。
幅広い空間が、帯と同じ方向へ続いている。
しかも空洞の内部を、何かがゆっくり移動していた。
反応は大きい。
全長を一度に捉えられないほど長く、土と岩を押し分けながら北側から近づいている。
《危機感知》が強く反応した。
エイルは帯状の空白から離れようとしたが、その瞬間、背後の地面からも別の振動が返った。
先回りされている。
地下を進む相手は、エイルが地面へ送った感知の振動を拾い、その位置へ向かって進路を変えたらしい。
正面の土が盛り上がる。
木の根が引き千切られ、黒い幹が1本横へ倒れた。
地面から現れたのは、巨大な魚のように扁平な頭部だった。
横幅は4メートル近くあり、前面には目ではなく、縦に並んだ6つの感覚孔が開いている。口は頭部の下側へ付き、周囲の土ごと飲み込めるほど大きい。
頭部から後ろへ続く身体は、灰色の岩板に似た甲殻で覆われ、左右から土を掻くための太い肢が何本も伸びていた。
全長は地上へ出ている部分だけでも8メートルを超えている。
さらに後方は、まだ地面の中へ残っていた。
魔物は完全に姿を現さず、頭部だけを持ち上げると、感覚孔を一斉に開いた。
周囲の空気と地面から魔力が集まる。
エイルは長剣を抜き、正面から来る攻撃へ備えた。
しかし放たれたのは、口や頭部からのものではなかった。
足元の岩盤が強く振動し、地表へ無数の亀裂が走る。
魔物が地下から薄い岩層を叩き、エイルの立つ範囲ごと崩そうとしている。
◇
地面が沈み始めた瞬間、エイルは安全な方向へ走るのではなく、最も大きな亀裂が開く位置を《近域感知》で拾った。
崩落は均等に起きていない。
魔物が地下で身体を動かし、岩盤の支えとなっている場所を順番に折っている。
最初に崩れるのは左側。
次に正面。
後方は少し遅い。
エイルは後ろへ踏み込み、足元が落ちる直前に地面を蹴った。
跳躍と同時に長剣を振り、頭上へ倒れてきた黒い木へ《遠衝斬》を放つ。
幹を完全に切り倒すのではなく、枝の一部だけを断ち、空中へ使える足場を残す。
エイルの右足が横倒しになった幹へ触れる。
しかし木の根元も崩落へ巻き込まれており、体重を掛ければ地面と一緒に沈む。
止まる必要はなかった。
触れた反力だけを次へ繋ぎ、魔物の頭上へ向かって跳ぶ。
地下の身体が動き、黒い甲殻の隙間から石の破片が噴き出した。
拳から人間の頭ほどある岩が、弾丸のように空中へ飛んでくる。
エイルはすべてを剣で切らず、幅を広げた《遠衝斬》を斜め下へ放った。
衝撃の波が岩へ当たり、正面から来るものだけを左右へ散らす。
その隙間を抜けながら、左足から空中へ短い衝撃を放ち、身体の軌道を魔物の側面へ変えた。
魔物は感覚孔をエイルへ向けようと頭部を回す。
視覚ではなく振動を頼りにしているため、空中へ出れば位置を失うかと思ったが、相手はエイルが空気を蹴った時に生じる圧力まで拾っていた。
巨大な頭部が正確に追ってくる。
口が開く。
内部には牙ではなく、土や岩を砕くための硬い板が何重にも並んでいた。
エイルはそのまま口へ入る直前に、右足から魔物の頭部へ向かって衝撃を放った。
甲殻へ当たった圧力が強い反力となって返る。
身体を上へ押し上げ、噛み合わされた口の上を越えた。
エイルは魔物の背へ着地しようとしたが、甲殻の表面は土と粘液に覆われ、靴底が滑る。
足場として使えるのは一瞬だけだった。
左足で甲殻を踏み、長剣を隙間へ突き込もうとする。
しかし魔物は身体を地中へ沈め、エイルごと土の下へ引きずり込もうとした。
「潜らせると面倒だな」
エイルは刃を深く刺すより先に引き抜き、魔物の進行方向へ視線を向けた。
身体の前半が沈み始めている。
後方の長い胴体はまだ地上へ出ておらず、どこまで続いているか分からない。
甲殻を1枚ずつ斬っていては、その前に土の中へ逃げられる。
狙うべきなのは身体ではなく、地面へ潜るために使っている肢だった。
左右の太い肢が土を掻き、身体の下へ運んでいる。
エイルは滑り落ちながら長剣を横へ振り、《遠衝斬》を最も近い肢の付け根へ放った。
距離は10メートルもない。
射程より威力へ寄せ、外殻を厚くした斬撃が、甲殻と柔らかな関節の境目へ入る。
1本目の肢が半ばから断たれた。
魔物の身体が大きく傾く。
反対側の肢がエイルへ振り上げられ、巨大な爪が横から迫った。
エイルは空中歩法で逃げず、長剣を爪の内側へ合わせた。
衝突の瞬間、《高密度強化》を腕だけではなく、脚、腰、背中へ繋ぐ。
爪を正面から止めるのではなく、身体全体で下から押し上げる。
魔物の肢が予定していた軌道より上へ外れ、爪の先が黒い木の幹を削った。
エイルはそのまま肢の下へ入り、左肩を関節へ当てた。
相手の身体は自分より遥かに重い。
それでも切断されかけた片側へ力を集めれば、関節だけを動かすことはできる。
腰を落とし、《身体強化》を通した脚で地面を踏む。
押し上げる。
傷ついた肢が逆方向へ折れ、魔物の巨体が地表へ傾いた。
感覚孔から低い振動が放たれ、エイルの骨と内臓へ細かな震えが入る。
三裂谷の深部で受けたものほど強くはないが、至近距離で浴び続ければ身体の動きが鈍る。
エイルは相手の振動を身体だけで受けず、肩から肢へ触れている接点を使い、《衝界》で魔物自身の甲殻へ返した。
低い震えが岩板状の外皮を走る。
甲殻同士の接続が僅かに浮く。
その隙間へ、エイルは長剣を突き込んだ。
刀身が深く入る。
ただし、外皮の下には分厚い筋肉があり、通常の刺突だけでは中枢まで届かない。
エイルは剣を抜かず、両手で柄を握った。
脚へ《高密度強化》を重ね、ふくらはぎへ少量の圧縮魔力を作る。
太腿。
腰。
背中。
肩。
腕。
三裂谷で本流を断った時ほど大きな出力ではなく、すでに開いた経路へ身体の力を正確に通す。
順番に解放された力が長剣へ集まり、刀身がさらに奥へ進んだ。
最後に《衝界》を切っ先から広げる。
無差別に内部を破裂させるのではなく、感覚孔から続く振動器官と、左右の肢へ命令を送っている太い神経のような組織だけを断つ。
魔物の身体が大きく跳ねた。
残る肢が地面を掻いたものの、動きは揃わず、前へ潜る力を失っている。
エイルは長剣を抜き、頭部の側面へ回った。
最後まで力任せに斬り続ける必要はなかった。
地表へ露出した感覚孔の中心へ剣先を入れ、短い《衝界》を内部へ通す。
低い振動が止まる。
巨大な頭部が土の上へ沈み、後方の長い身体も、それ以上地中へ進まなくなった。
◇
戦闘が終わったあと、エイルはすぐに魔物の解体へ入らず、崩れた地面と周囲の岩盤を調べた。
魔物が通っていた地下空洞は自然にできたものではない。
長い身体で土を押し分けながら進み、何度も同じ場所を通ることで帯状の空白を作っていた。
地表へ木が生えていなかったのも、根を伸ばせば下から魔物に引き千切られるためだろう。
この林では、地面の下まで含めて1本の獣道になっていた。
魔物の全長は、土から引き出せた部分だけで14メートル近くある。頭部は扁平で大きいものの、後方へ行くほど細くなり、最後には幅広い尾へ繋がっていた。
肢は左右に6本ずつ。
土を掻く前側の4本は太く、後方のものは身体を押し出すために短くなっている。
外皮は鉱物を取り込んだ甲殻であり、深層脈に含まれる赤い鉱物も僅かに混ざっていた。
おそらく地中を進む間に岩や鉱物を食べ、甲殻へ利用している。
肉の一部は食べられる可能性があるものの、長期間鉱物を取り込んだ魔物であり、内臓や血液の性質も分からない。エイルは食料にせず、感覚孔の周囲にある薄い板と、最も硬い甲殻片だけを採取した。
板へ指を当てると、周囲の振動が僅かに強く伝わる。
《振動感知》の補助素材として使えるかもしれない。
残りは地図へ姿と生態を書き、仮に《潜板獣》と記録しておく。
名前が正式に存在するかどうかは、いつか人のいる土地へ出た時に調べればいい。
エイルが採取を終えた頃、深層脈の反響が先ほどより強くなっていることに気づいた。
戦闘中に魔物が岩盤を砕いたことで、地下にあった赤い鉱物層の一部が露出している。
その鉱物は自然に広がっているだけではなく、一定方向へ細長く並んでいた。
人工的な配置。
エイルは崩れた土を払い、鉱物の列を追った。
黒い林の中を西へ進み、途中で一度北側へ曲がり、やがて太い木の根元へ集まっている。
根を傷つけないよう周囲の土だけを掘ると、下から平らな石板が現れた。
石標ではない。
長さ2メートルほどの板へ赤い鉱物が何本も埋め込まれ、表面には古い文字が刻まれている。
『第49標移動時、深層標路へ接続』
『第50標は地表に置かず』
その下には、下向きの矢印があった。
エイルは石板の周囲へ《振動感知》を広げた。
地面の下へ人工的な空洞がある。
先ほどの《潜板獣》が作った獣道より深く、硬い岩盤の内側へ円筒状の穴が掘られている。
入口は黒い木の根と土に覆われているものの、その中心には石の蓋が残っていた。
第50標は、移動する地表へ固定されていない。
深層脈へ直接繋がる、安定した岩盤の中へ設置されている。
過去の測量者たちは、第49標が地面と共にどこへ流されても、赤い鉱物の反響を辿れば、次の基準へ到達できるようにしていた。
エイルは木の根を切らず、隙間から土を掻き出し、石蓋の縁を露出させた。
蓋は長い年月で固着している。
力任せに持ち上げれば周囲の根まで傷つけるため、接触面へ《衝界》を細く通し、詰まっている砂と小石だけを順番に外していく。
最後の固定が外れると、石蓋は僅かに浮いた。
エイルは両手を縁へ掛け、《身体強化》を通して横へずらした。
冷たい空気が地下から流れ出す。
魔導灯を向けると、円筒状の縦穴へ螺旋階段が続き、その壁には赤い鉱物が一定間隔で埋め込まれていた。
階段の中央。
数十メートル下。
これまでより明確な反響が返る。
第50標。
エイルは縦穴の位置と、黒い林、《潜板獣》の獣道を地図へ書き込んだ。
地表では、次の目印を探すまでに4日かかった。
しかし過去の測量者たちは、この定まらない大地を力で固定しようとはせず、動く地表より深い場所へ、自分たちの道を残していた。
エイルは魔導灯を腰へ固定し、石蓋が完全に閉じないよう小さな岩を挟んだ。
誰もいない林の地下へ続く階段へ、1人で足を下ろす。
地表の道は定まらなくても、深層脈の先には、さらに西へ進むための目印が確かに残っていた。




