19.何者なるや?
足立はネクタイを剣のように硬化させ、炎を纏わせた。
冬の冷えた屋敷の中庭に、そこだけ不自然な熱が生まれる。刃の縁を這う光は赤というより、もっと白く、もっと危うい気配を漂わせている。透は反射で大槌を構え、監視役は半歩前へ出て、腕に装着した礼装を起動させた。白く硬質な障壁が展開され、皐月はすでに銀の星を掲げている。地面と空気中の水分へ遠隔でルーンを刻みつけているのだろう、足立とこちらの間へ、半透明の氷の壁が幾枚も立ち上がった。
だが、足立の一閃は、それらが「ある」ことを見たうえで、その先を斬るような軌道を取った。
熱と光を帯びた刃が横へ薙がれる。監視役の障壁が先に衝撃を受け、次の瞬間にはそれごと吹き飛ばされた。白い膜は破片のように砕け、監視役の身体が石畳を転がる。その余波が氷壁のいくつかを裂き、遅れて高い破砕音が庭へ散った。
透は舌打ち混じりに踏み込む。
「逃がすか!」
足立は明らかに消耗していた。左脇腹を押さえていた手はもう離れているが、その下で呪いが脈打っているのが服の揺れ越しにも見える。顔色は悪く、呼吸も浅い。けれど、その分だけ攻撃はためらいを失っていた。いつもの飄々とした隙がない。焦りを隠す気がない代わりに、殺意だけが正面からむき出しになっている。
透は真正面から間合いを詰めた。いまここで足を止めれば、屋敷の中を暴れている幻獣も、足立も、どちらも手に負えなくなる。そう分かっていたからこそ、余計なことを考えないようにして、大槌の柄を握る手へ力を込めた。
足立は、そんな透を見ても笑った。
「いま僕に構ってる場合かな?」
その声音と同時に、屋敷のあちこちで新たな悲鳴が上がった。横目に見れば、別の区画で飼育されていたらしい幻獣が、檻や囲いを破って暴れ始めている。毛並みの一部が黒ずみ、目の色が変わり、呪いがいままさに身体の形をねじ曲げている最中だった。
透の意識が一瞬だけそちらへ引かれる。
「透くん、気を散らされるんじゃない!」
皐月の声が鋭く飛んだ。透は歯を食いしばり、そのまま足立だけを見る。いま躊躇えば、また取り返しのつかないことになる。辺居で顔を晒したときの、あの冷たい感覚が、骨の奥にまだ残っていた。
透は大きく踏み込み、右から薙ぎ払うように大槌を振った。足立はそれを真正面から受けることはせず、大きく後退して間合いをずらす。延々火劇が横薙ぎに振るわれる。透は受け止めるつもりで槌を立てた。だが、その刃は、大槌の頭部へぶつかるより一瞬早く、軌道をねじって透の右腕へ滑り込んできた。
次の瞬間、何が起きたのか、透には分からなかった。
衝撃はあった。熱もあった。だが、痛みが来るより先に視界の端で何かが落ちた。
それが自分の右腕だと理解したのは、ほんの一拍遅れてからだった。
肘より上から、あまりに鮮やかに切り落とされていた。血が噴いた。石畳へ落ちた自分の腕が、信じがたいほど他人のものみたいに転がっている。
「――っ、あ」
声にならない息が漏れる。
その次に、激痛が来た。
脳天まで一気に突き抜けるような痛みで、透はその場へ膝をついた。視界が白く点滅する。胃がひっくり返りそうになる。右肩の先が“無い”のに、まだ腕の形だけがそこにある気がする。
「透くん!」
皐月の声が遠く聞こえる。
透は反射で、切断面へ意識を集中した。再生しろ、と身体へ命じる。骨を、肉を、皮膚を、いつもみたいに盛り上がらせろと、ほとんど本能でそう念じる。だが――何も起きない。
切断面は赤黒く焼け、熱を持ちながら、そこだけ世界から切り離されたみたいに沈黙していた。いつもなら勝手に蠢き始めるはずの肉も骨も、ぴくりとも動かない。
透の背筋が凍った。
元に戻らない。
その事実が、痛みよりも先に恐怖として喉へせり上がる。
足立は肩で息をしながら、それでも口元だけは歪めた。脂汗に濡れた額の下で、目だけが妙に冴えている。
「〝延々火劇〟、凄いでしょ。どんな物も焼き切って、さらに元には戻らないようにしてるんだ」
その軽い言い方が、透にはぞっとするほど遠く感じられた。右腕が戻らない。自分の身体は、不死身みたいに戻るのだと、どこかで思い込んでいた。その当たり前が、いま目の前であっさり否定されている。
呼吸が乱れる。痛い。怖い。熱い。寒い。何もかもが一度に押し寄せて、透は思わず地面へ手をついた。左手だけで身体を支える感覚が、ひどく不安定だった。
皐月は即座に動いていた。銀の星が振られ、氷槍が幾本も足立の退路へ走る。石畳から、壁際から、庭園の池の縁からも、氷が鋭く立ち上がり、彼の逃げ道を封じようとする。
だが足立は、咄嗟に延々火劇を振り抜いた。爆ぜた炎が氷へぶつかり、蒸気と破片が一気に広がる。その反動を利用するみたいにして、足立の身体が後方へ飛ぶ。屋敷の外壁沿いへ、庭へ、さらに塀際へと距離を取っていく。
「待て……!」
透は立ち上がろうとした。片腕で大槌を拾い、追わなければと思う。けれど、右側の重さが消えた身体は、思っていた以上に自分のものではなかった。立ち上がった瞬間に重心が崩れ、足がもつれる。視界が揺れ、よろめいたところを皐月が左腕で引き支えた。
「無茶をするな」
その声は低く、いつもよりずっと感情が近かった。
皐月は片手で透を支えたまま、もう片方で外套の裾を裂き、切断面の上側をきつく縛った。止血だ。結び目が食い込み、透は喉の奥から情けない声を漏らす。脂汗が頬を伝い、息を吸うたびに胸が痙攣するみたいに震えた。
「っ、ぐ……ぁ……」
痛みで涙が滲む。片腕を失うなんてことが、現実に自分へ起こるとは思っていなかった。しかも戻らない。戻らないまま、足立は逃げていく。その事実が、透の頭をめちゃくちゃにした。
そのとき、書庫の管理をしていた森人が駆けつけてきた。庭の惨状と、塀際へ離脱していく足立の背を見た瞬間、その顔がはっきりと歪んだ。驚きというより、自分の守ってきた仕組みの外側から、何かが土足で踏み込んできたことへの動揺に近い。
皐月は透を支えたまま、その森人へ鋭く問いかける。
「確認したい。今の男は、書庫に入っていたのかい?」
森人は息を荒げながらも、即答した。
「あり得ません。管理者の私が許可していない者は入れない筈です」
「だが、彼は実際に本を漁っていたようだ」
皐月が言い返すと、森人は苦い顔をした。その顔は、自分の言葉が理屈の上で正しくても、現実に破られた事実までは否定できない者のものだった。
「それなら……すでに入室許可を得ていた誰か、ということになります」
そこで、ほんのわずかに視線を伏せる。
「あるいは、私の血縁者か」
透はその言葉を理解するより先に、屋敷の別の場所から上がった咆哮に身を強張らせた。推理をしている暇はない。庭の奥で二体目が完全に魔獣化し、檻を突き破ろうとしている。別の棟でも、使用人の悲鳴が断続的に響いていた。
父親と兄が、そこでようやく護衛たちへ対応を命じた。侍女たちは散って、使用人を避難させていく。統制は取れているはずなのに、それでも混乱が収まりきらない。それだけ、呪いの広がりが速いのだと透にも分かった。
その只中で、皐月の父は、一瞬だけこちらへ視線を寄越した。
「たとえ今日この場で何をしようと、お前との関係が戻ることはない。手続きは進める」
皐月は透を支えたまま、片目だけで父を見た。
「好きにしたまえ」
短い返答だった。だがその声は、いつもの軽さをわずかに失っていた。
透はそのやり取りを聞きながら、足元へ視線を落とした。
石畳の上に、自分の右腕がまだ転がっている。血で濡れ、手袋も袖もそのままで、ついさっきまで自分の身体の一部だったものが、そこにある。身体から切り離された所為か、ただの腕に黄金のように愛おしく、大切なものに思えて、手を伸ばす。
そうすると、皐月は透の意を汲んで、一緒に右腕を拾い、それを透の胸に押し当てた。
「あり、がとう」と感謝が口を衝いて出る。皐月は何も言わなかった。
足立の姿は、もうどこにも見えなかった。




