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私たちの離婚幸福論  作者: 桔梗


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055 募る不審感

海面には月の残り光が揺れている。


「陛下」


その呼び方に、ゼノンの足が一瞬だけ止まる。


「……その呼ばれ方は、まだ慣れないな」


「慣れていただきます」


淡々とした声音。

しかし、その目には確かな敬意が宿っている。

ゼノンは苦々しく微笑み、海を見つめた。


――アンダルシア王国、新国王ゼノン・アンダルシア。

その事実は、まだ国中に知らされてはいない。

だが詔書はすでに発せられ、夜明けとともに国民は、新国王が誕生したことを知るだろう。


「王になった途端に国外へ向かうとは、歴代でも例がないだろうな」


帆が風を孕み、船体が水面を切る。

その白い航跡は、まるで“運命に刻む一本の線”のように、南から北へと伸びていく。


遠く丘の上、王城が朝焼けに染まり始めている。


父は今、玉座に座っているだろうか。

それとも窓辺に立ち、こちらを見ているだろうかーー。


最短で四日。

その間に、ヴェルディア帝国の彼女の周りでは何が起きるかーー。

ゼノンは銀の蝶を再び放ち、蝶は風に溶け、北へ向かって軽やかに飛び立った。


***


イザベルの寝室は、静まり返っていた。


先ほどまでの錯乱が嘘のように、彼女は寝台に身を横たえている。

頬は蒼白、睫毛は震え、薄く開いた唇から浅い呼吸が漏れていた。


ノアはその傍らに立ち、宮廷医へ視線を送る。


「どうだ?」


「はい、陛下。精神的混乱による一時的な発作かと……。お腹の御子に影響はございません。

ただ、強い不安が引き金になっているようです。先日の件もありますし……このようなことが続けば、御子にも負担がかかるでしょう。無事ご出産されるためにも、どうかお気をつけくださいますよう……」


ノアの表情がわずかに強張る。


「……そうか、わかった。下がってくれ」


宮廷医と侍女たちが一礼し、静かに退出する。

室内には、ノアとイザベルだけが残された。


やがて、イザベルの瞼がゆっくりと持ち上がった。


「……陛下」


「気分はどうだ?」


「……はい……大丈夫です……」


ノアの手が、無意識のうちに彼女の手を優しく包む。

その仕草はとても自然で、迷いがない。


イザベルは、わずかに視線を揺らした。


「……ご迷惑をおかけして……申し訳ありません、陛下」


「お前が無事ならいい。気にするな」


イザベルは、少しだけ間を置いて話し始めた。


「……怖かったんです……」


「何が怖いのだ?」


イザベルは目を伏せる。

その瞬間、部屋の隅の影が、かすかに揺れた。


『いいわ。上手よ、イザベル。このまま皇帝を揺さぶりなさい』


イザベルの指先が、わずかにシーツを握る。


(……私は……皇后になりたい)


その欲望を、これまではっきりと口にしたことはなかった。

だが魅了が成功して、皇帝の気持ちが自分だけに向いた今、言葉にならない願いが胸に浮かんだ。


『そうよ。皇后になりなさい』


モルガンの声は甘く、断定的だった。


『あなたは今、皇帝に最も愛されている。いいえ、正確にはーー最も大事な存在として認識されているわ。そして、あなたのお腹の中には皇帝の子がいる。皇后になる名分は十分よ』


イザベルは、震える声で言った。


「陛下……」


ノアが顔を寄せる。


「ああ、なんだ」


「私はこの子の母親として……陛下と二人でこの子を育てていきたいです……」


ノアの視線が、わずかに揺れた。


「どういう意味だ?」


イザベルは、目を潤ませたまま言う。


「側室ではなく……」


その先を、飲み込む。


言い切らない。

言わせる余地を残す。


ノアは、しばらく彼女を見つめた。

イザベルが何を言おうとしているのか、ノアは理解したようだった。


「……言いたいことはわかった。……だが、今はその話をする時ではない」


イザベルの胸の奥で、モルガンが囁く。


『いいわ。これで十分よ』


***


同刻、皇帝の執務室前で、ルシェル、テオドール、藍の三名はノアを待っていた。


そこへ、イザベルの寝室から戻ったノアがやってきた。

その表情は、どこか険しいものだった。


「皇后」


(名前で呼ばないのね……)


それだけで、距離が明確になる。


「皇后は当面、イザベルとの接触を控えるように」


「……それは、イザベルの体調がすぐれないのは、私が原因だとおっしゃりたいのですか?」


ノアは視線を逸らさない。


「イザベルからお前の名が出たのは事実だ。放っておくわけにはいかない」


テオドールが一歩前に出る。


「陛下、それはあまりにも皇后陛下に対して礼を欠いています」


「礼だと?そんなことは今はどうでも良い。イザベルと腹の子の健康と安全が第一だ」


藍が静かに口を開く。


「では、取り調べ中の侍女はどうなるのでしょうか?」


ノアの目が、わずかに冷える。


「早急に取り調べを進め、結果次第で処分を決める」


「処分、とは?」


「側室を害したのだから、死罪も含まれる」


淡々と放たれたノアの一言に、空気が完全に凍る。

ルシェルは、信じられないといった様子で、まっすぐにノアを見る。


(薄々気づいてはいたけれど、これは流石におかしい。ノアは明らかに様子が変だわ……。だけど、これは記憶を無くしていた時とはまた違う……何かしら……?)


ルシェルはノアの異変に確信を持った。

だが、その異変がノアの心変わりによるものか、もしくは何らかの事情があってのことなのか、

ルシェルには到底わからなかった。


「……陛下……本気で仰っているのですか?」


「ああ。帝国の秩序を乱す者に、情は挟まぬ」


ノアは続ける。


「そして――」


一瞬の間。


「皇后としてのそなたの責任問題についても、議論することとする」


再び空気が凍りついたかと思うと、テオドールが一気に熱を発した。


「……責任問題だと?ふざけるな!!」


テオドールは耐えきれずに、ノアに反論する。


「陛下……。私は、あなたなら妹を大切にしくださると信じていたからこそ託したのです!四年前、陛下は私にこうおっしゃいました。『ルシェルは私が必ず幸せにする。命をかけて守る』と。それなのに、なぜ!」


テオドールがこれほどまでに感情を露わにした姿を見たのは、

妹であるルシェルでさえ初めてのことだった。


「……過去の話だ。季節が巡り、時間が流れるように、人の気持ちも移ろいゆくものだろう」


その瞬間。


「――法は移ろいません」


藍が一歩、前へ出た。

声は穏やかだが、とても冷たい。


「陛下。証拠不十分のまま死罪に処せば――それは“恐怖による統治”と記録されます。今回の件は、すでに我が国にも伝わっている上に、皇后陛下のご実家であるアストレア公爵家と我々は、貿易の件で強い信頼関係を結んでいます。もし、この件が不当な結果で終わればどうなるかーー陛下もよくお分かりかと」


藍はノアを強く睨みつける。


「私は、妹に……いえ、皇后陛下に何かあれば、今の職を辞することになるでしょう。空白になった私の席につけるほどの実力者が、この帝国内にいるのでしょうか?」


テオドールも藍に続いてノアを睨みつけた。


「……もういいのです、ありがとうございます。お兄様、藍様……」


「だが……!!」


「……いいのです。陛下のお考えはよくわかりました」


ルシェルの声は、驚くほど冷静だった。

怒りも、涙もない。

それがかえって、空気を重くした。


テオドールがなおも何か言おうとするのを、ルシェルはわずかに手で制した。


「皇后としての責任を問うと仰るのなら、どうぞ正式な場でお問ください。私は、逃げも隠れもいたしません」


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