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私たちの離婚幸福論  作者: 桔梗


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53/85

053 混乱

侍従は息を切らしながら駆け寄り、深く頭を下げる。

ルシェルの胸に、嫌な予感が走る。


「何かあったの?」


「イザベル様が……再び、容体を崩されました」


空気が張り詰める。


「……どういうこと?」


テオドールが鋭く問い返す。


「はい……先ほど、突然錯乱状態になられて……その……」


侍従の声が震えた。


「“皇后陛下に殺される”と……叫ばれまして……今は、皇帝陛下が付き添っておられます……」


その場の空気が凍りついた。

ルシェルの指先から、血の気が引く。


「……そんな……」


イザベルは、まだ回復したばかりのはずだ。

精神的に不安定である可能性は理解している。

だが――

このタイミングでそんなことを言うのには、果たしてどんな意図があるのだろうか。


侍従は続ける。


「陛下が、すぐに皇后陛下をお呼びになるようにと……」


ルシェルは息を呑む。

今のノアの状態で、その言葉を聞かされれば――

どんな目で自分を見るのか、想像がついてしまう。


一瞬、足がすくむ。

だが次の瞬間、テオドールが一歩前へ出た。


「俺も同行する」


有無を言わせぬ声だった。


「しかし――」


侍従が戸惑う。


「宮廷警備隊が取りまとめている案件だからと言って、帝国騎士団が介入しては行けないという理由もないだろう?」


反論を許さない口調だった。

そして、ルシェルを見る。


「行くぞ、心配するな。お前には俺がついている」


兄の瞳には、先ほどよりはっきりと警戒の色が浮かんでいた。

偶然ではない。

何かがおかしい。

その確信が、彼の中で形を取り始めていた。


藍も静かに口を開く。


「私も、同行して構いませんか?」


「藍様も……ですか?」


ルシェルが驚く。

藍は、穏やかな顔のまま続けた。


「ええ。もし皇后陛下への疑いが外交の場へ波及すれば、貿易にも影響しますし、何より皇后陛下が心配なので……」


外交官としての理屈。

だが、その目ははっきりと友人を案じていた。


「……わかったわ。では、二人とも一緒に来てください」


ルシェルは小さく頷いた。

だが、その胸の奥では別の不安が膨らんでいた。


(……どうして、こんなことに)


三日前までは、自分さえノアを許すことができれば、以前のように戻れると思っていたのに。

それが、今はーー。


ルシェルが考え込んでいると、侍従が言いづらそうに話し始めた。


「それから……陛下より、その侍女を今すぐ移送するよう命が下りました」


「……移送?」


テオドールの眉が動く。

藍の視線が一瞬、鋭くなる。


侍従が続けた。


「宮廷警備隊が、取調べの最終段階に入るとのことです。……罪状は“側室の毒殺未遂”です」


ルシェルの胸が沈む。


(まだ、何も分かっていないのに……)


「待って――」


「皇后陛下」


侍従の声がわずかに固い。


「恐れながら……皇后陛下が関与している可能性も含めて、陛下が直接ご判断なさると……」


ユリアナが肩を震わせた。


「皇后陛下……私、何も……!」


ルシェルはすぐに彼女の手を握り直す。


「わかってるわ。大丈夫よ。私が――」


「ルシェル」


テオドールが、ほんのわずかに前へ出る。


「ここで逆らえば、余計にお前への疑いが強くなる。今は堪えるんだ」


「……わかりました……」


上層へ向かう階段は、冷気がまとわりつく。

ユリアナは両脇を兵に固められ、まるで既に罪人のようだった。


ルシェルは彼女の背中だけを見つめる。

その小さな背が、あまりに心細い。


「……早すぎる」


藍がぼそりと呟いた。


「通常、毒物案件は証拠の精査に時間を要するはずなのに……」


「理由は一つだ」


テオドールの声が低く落ちる。


「皇后への疑いを“既成事実”にしたいのだろう」


ルシェルは唇を噛んだ。


(イザベル……)


彼女が錯乱したのはきっと偶然ではない。

錯乱を“演じた”のだとすれば――目的は、ユリアナを一刻も早く処刑に追い込むためだろう。


***


地下牢を出て、皇帝のもとへ向かうべく、三人が回廊を歩いていた時だった。

ふと、小さな影が三人の頭上を横切った。


誰も気づかないほど一瞬のことだった。

だが――

テオドールだけが、わずかに足を止めた。


(……蝶?)


しかも、その蝶は銀色に光って見えた。

だが、次の瞬間には消えていた。


「お兄様、どうかしましたか?」


ルシェルが立ち止まり、テオドールの顔を心配そうに見ている。


「いや、なんでもない」


テオドールは、「気のせいか」と首を振る。

今はそれどころではない。

だが彼はまだ知らない。


同じ時、遠く南の地でこの様子を見守っている男がいた。

そして、彼は手紙を書き始める。

――そこには、こう記されていた。


《もし皇帝の身に異変が生じたならば、それは“魅了”を疑え》と。

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