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052


ーー扉が閉まった。

重く、冷たい音だった。

まるで、何かが断ち切られたかのように。


ルシェルは足を止めなかった。

止まれば、きっと振り返ってしまう。

振り返れば、きっと――何かを期待してしまう。

だが、後ろから呼び止める声は、最後まで聞こえなかった。


ただ、自分の足音だけが廊下に響くーー。

やがて執務宮を抜け、人通りの少ない回廊へ出たところで、背後から足音が追いついた。


「……待て、ルシェル」


テオドールが追いかけてきたのだ。

ルシェルは、ゆっくり立ち止まる。


振り返ると、兄の表情はいつも以上に険しかった。

怒っているわけではない。

だが、戸惑いと怒りが隠しきれていないようだった。


「……あれは、なんだ」


短い問いだが、その一言にすべてが含まれていた。


「……私にも、分からないわ」


声が、自分でも驚くほど弱々しかった。


「最後にノアにあったのは、誕生日の宴だから三日前……だけど、それまでは本当に私を思ってくれていたわ。記憶を取り戻してからの陛下は、誰よりも私のことを考えてくれていたと思うわ。私は、痛いほどに感じていたもの……」


言葉にすると、現実味を帯びる。


思い返せば、あの宴の日ーー彼が自分に会いに来なかったのもおかしかった。

以前の彼なら、イザベルの様子を確認した後にでも必ずきてくれるはずだ。

だって、あんな別れ方をしたんだからーー。


「……俺の知っている皇帝は、あんな男じゃなかった」


幼い頃から見てきた。

共に剣を取り、国を支える覚悟を共有してきた。

妹を皇后に迎えると決めた日の、あの真っ直ぐな顔もーー。


「……怒っているだけならーーまだ分かる」


テオドールは続ける。


「だが、あれは違う」


怒りではない。

軽蔑でもない。


「……あれは……お前に関心がないというような態度だった」


その言葉に、ルシェルの胸が痛む。

テオドールが低く呟く。


「……帝都で、一体何が起きているんだ……」


四年ーー。

俺は、帝都を離れていた。その間に、一体何が変わったのか。


「……調べる必要があるな」


団長としての声だった。

そして兄として、妹を見る。


「……何度も言うようだが……お前は一人で抱え込むな」


ルシェルは、わずかに笑った。


「……ありがとう、お兄様」


藍も続ける。


「私も協力します。友人として」


少しだけ、空気が和らぐ。

その時だった。


静まり返っていた回廊の奥から、慌ただしい足音が響いてきた。

焦燥に駆られ、乱れた足取りだった。

三人が同時にそちらを見る。


やがて、顔色を変えた侍従が姿を現した。


「皇后陛下……!」


息を切らしながら駆け寄り、深く頭を下げる。

ルシェルの胸に、嫌な予感が走る。


「どうしたの?」


侍従は一瞬言い淀み、だが意を決したように告げた。


「イザベル様が……再び、容体を崩されました」


空気が張り詰める。


「……どういうこと?」


テオドールが鋭く問い返す。


「はい……先ほど突然錯乱状態になり……その……」


侍従の声が震えた。


「“皇后陛下に殺される”と……叫ばれまして……」


その場の空気が凍りついた。

ルシェルの指先から、血の気が引く。


「……そんな……」


イザベルは、まだ回復したばかりのはずだ。

精神的に不安定である可能性は理解している。

だが――

このタイミングで、その言葉はあまりにも悪い。


侍従は続ける。


「陛下が、すぐに皇后陛下をお呼びになるようにと……」


ルシェルは息を呑む。

今のノアの状態で、その言葉を聞かされれば――

どんな目で自分を見るのか、想像がついてしまう。


一瞬、足がすくむ。

だが次の瞬間、テオドールが一歩前へ出た。


「……俺も同行する」


有無を言わせぬ声だった。


「しかし――」


侍従が戸惑う。


「宮廷警備隊が取りまとめている案件だからと言って、帝国騎士団が介入しては行けないという理由もないだろう?」


反論を許さない口調だった。

そして、ルシェルを見る。


「行くぞ、心配ない。お前には、俺がついている」


兄の瞳には、先ほどよりはっきりと警戒の色が浮かんでいた。

偶然ではない。

何かがおかしい。

その確信が、彼の中で形を取り始めていた。


藍も静かに口を開く。


「私も同行して構いませんか?」


「……藍様も……ですか?」


ルシェルが驚く。

藍は、穏やかな顔のまま続けた。


「もし皇后陛下への疑いが外交の場へ波及すれば、貿易にも影響します」


外交官としての理屈。

だが、その目ははっきりと友人を案じていた。


「……わかったわ」


ルシェルは小さく頷いた。

だが、その胸の奥では別の不安が膨らんでいた。


(……どうして、こんなことに)


三日前までは、以前のように戻れると思っていたのに。

それが、今はーー。


その時、ふと白い影が横切った。

誰も気づかないほど一瞬のことだった。

だが――

テオドールだけが、わずかに足を止めた。


(……蝶?)


しかも、銀色に光って見えた。

だが、次の瞬間には影は消えていた。


気のせいか、と首を振る。

今はそれどころではない。

だが彼はまだ知らない。


同じ時、遠く南の地でこの様子を見守っている男がいた。

そして、彼は手紙を書き始める。

――そこには、こう記されていた。


《もし皇帝の身に異変が生じたならば、それは“魅了”を疑え》と。

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