051
三人は、皇帝の執務宮へ向かった。
廊下を進む間、侍従や侍女たちの視線が幾度も向けられる。
噂の中心にいる皇后ーー。
帝国騎士団団長ーー。
そして、異国の高官ーー。
どこへ行っても、人目を引く組み合わせだった。
執務室前に到着すると、カインが一礼する。
「皇后陛下……今、陛下は――」
「いいから、通して」
ルシェルは短く告げた。
カインは一瞬だけ言葉を飲み込み、扉を開かせた。
「陛下。皇后陛下と、テオドール団長、そして璃州国より藍 永燈様がお見えです」
執務机に向かっていたノアが顔を上げる。
「久しぶりだな、テオドール」
先に声をかけたのは、彼だった。
テオドールが一礼する。
「帝国の太陽にご挨拶を。任務より帰還し、報告のために参りました。陛下へのご挨拶が遅れましたこと、非礼をお許しください」
「長い間、ご苦労だった」
淡々とした返答。
続いて藍が一歩進み出る。
「帝国の太陽にご挨拶申し上げます。公務ではありませんが、貿易の件で皇后陛下に用があり、参りました。便りもなく、急な訪問をどうぞお許しください」
「ああ、構わない」
その声音は穏やかだが、どこか距離があった。
その瞬間、ルシェルの胸に小さな違和感が走る。
(……目を合わせない)
ノアは、彼女を見ない。
以前なら、部屋に入った瞬間に視線が合っていたのに。
「……陛下」
思わず、呼んでしまう。
ノアはようやく顔を上げた。
「皇后は、何か用か?」
その一言に、空気が凍った。
テオドールの眉間に、深い皺が刻まれ、藍の表情からも、笑みが消える。
ルシェルは、言葉を失った。
(……何、今のーー。『用か?』と言ったの?)
用か、とは何だろう。
こんな言い方、前はしなかった。まるで記憶を無くしていた頃に戻ったかのようだった。
「……いえ。ただ……しばらくお顔を見ていませんでしたので、お忙しそうだと……」
ノアはあっさり答えた。
「イザベルが倒れたんだ。当然だろう」
そして再び書類へ視線を落とす。
会話は終わった、と言わんばかりに。
(……終わり?)
ルシェルの足が動かない。
以前なら、どれほど忙しくても、こんな態度はとられたことはない。
「……陛下」
もう一度呼ぶ。
ノアがわずかに顔を上げる。
「まだ何かあるのか?」
冷たいわけではない。
ただ――事務的だった。
ルシェルの胸の奥で、言葉にならない怒りが湧いてきた。
「ユリアナの件について、少しお話を――」
「その件なら、宮廷警備隊に任せている」
ノアは遮るように言った。
「毒物の可能性がある以上、徹底的に調べる必要があるからな」
その言葉に、テオドールの視線が鋭くなる。
ルシェルは慎重に言葉を選ぶ。
「ええ……ですが、ユリアナは――」
「皇后」
ノアが再び遮った。
そして、ようやくまっすぐ視線を向ける。
「私情を挟むな」
空気が凍る。
カインが小さく息を呑む音がした。
「彼女はお前が採用した侍女だろう。庇いたい気持ちは分かる。だが今は、真偽を明らかにすることが最優先だ」
はっきりと線を引く言い方だった。
(……違う)
ノアは、こんな言い方をする人ではなかった。
記憶を失っていた時でさえ、もっと――。
「わかりました。では……私はこれで失礼します」
小さく告げ、ルシェルは出て行こうとする。
これ以上ここにいれば、顔に出てしまう。
傷ついたことも、戸惑いもーー。
その時だった。
「陛下」
低く、抑えた声が響く。
テオドールだった。
その声に、ノアが顔を上げる。
「なんだ?」
「ご報告があります」
声音は冷静だった。
だが、美しい彼の紫の瞳には、明確な怒りが宿っていた。
「後で書面で提出してくれ」
「いえ。今、申し上げます」
有無を言わせない声。
数秒、空気が張り詰める。
ノアはため息をついた。
「……簡潔に頼む」
「はい」
テオドールは一歩進み出る。
「四年前、陛下の命により遂行していた任務は、果たしました。しかしーー」
言葉を切る。
ノアが眉を寄せる。
「何だ?何か問題があったのか?」
テオドールは真正面から言った。
「いいえ、任務に問題はありません。そうではなく、帝都内の状態が、著しく不安定です」
「皇后陛下に対する悪意ある噂が放置されている現状は、帝国の威信を損ないます」
藍も静かに口を開く。
「恐れながらーー外交の観点から見ても、皇后陛下の立場の不安定さは、周辺国に不要な誤解を与えます」
ノアは二人の言葉を、しばらく無言で受け止めていた。
机の上に置かれた書類に視線を落としたまま、指先でゆっくりと紙の端を揃える。
やがて、小さく息を吐いた。
「……ああ、理解している」
短い返答だった。
「いいえ、陛下は全然理解されていません!私は、皇后陛下への疑いを前提にした捜査は見直すべきだ、と申し上げているのです」
ノアは、ほんのわずかに眉を寄せた。
「疑いをかけているのではない。状況的にそうせざるをえなかっただけだ」
「それを放置することが問題なのです」
テオドールの声が、わずかに低くなる。
「……証明できるのか?」
問いかけられた瞬間、ルシェルの心臓が強く脈打った。
「え……?」
「皇后が無関係だと、証明できるのかと聞いている」
声に感情はない。
ただ現実だけを突きつける声音だった。
「……それは……」
自分にはできない。
証拠も、証人もない。
ただ、ユリアナが無実だと信じているだけだ。
「証明できないのだろう?だから、調べているんだ」
それだけだった。
「陛下」
テオドールの低く、怒りを抑えた声。
「……皇后陛下は、あなたの妻です」
カインが息を呑む音がした。
ノアの視線が、ゆっくりとテオドールへ向けられる。
「だからなんだ?」
静かな問い返し。
その一言が、刃のように落ちた。
「妻だからこそ、特別扱いはできない。俺は、皇帝としての判断を優先するだけだ」
「……失礼します」
これ以上ここにいれば、何か言ってしまう。
何か、取り返しのつかないことをーー。
ルシェルは足早に扉へ向かった。
後ろで、なおも緊張した空気が続いているのが分かる。
だが振り返ることはできなかった。




