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005

いつもと変わらぬ静かな夜だった。


月の光が庭園を照らし、花たちは喜んでいるように見える。

ルシェルはそっと息をついた。

風が花の香りを運び、月光を浴びた噴水がきらきらと輝いている。


ノアが記憶をなくす前は、いつもノアと散策をしていた大切な庭園。

ノアがルシェルのために作ってくれた庭園だった。


(ノアは、私の瞳と同じ色のライラックを植えてくれて……確か恥ずかしそうに花言葉がどうとかって言っていたっけ………)


この場所には美しい思い出が多すぎる。

今が不幸であるとは思わない。

皇后という名誉ある立場と、変わらずそばにいてくれる優しい侍女、そして何より今は記憶をなくしてしまったが、それでも愛する人のそばにいられるということーーどれもありがたいことだ。


ただ何よりも辛いのは、幸福に満ちた過去の日々が、もう2度と戻らないかもしれないと気づいてしまったこと。

その辛さを紛らわすためにも、ルシェルはいつもここへ足を運んだ。

奇跡が起こることを祈ってーー。


(思い出はこんなにも美しく鮮明なのに、人はどうして思い出だけでは生きていけないのかしら....)


そのとき、視界の端でふわりと蝶が舞う。


「……また、あなたね」


優しく微笑みながら、ルシェルはそっと手を伸ばした。銀色の蝶が彼女の指先にそっと舞い降りる。

儚げな羽をゆっくりと動かしながら、まるで彼女の手の温もりを確かめるかのように。


ーー不思議だった。


この蝶は、ルシェルが孤独を感じるとき、涙をこらえるとき、ふと見上げればそこにいた。

まるで、ルシェルを見守っているかのように。


「あなたは、私のことを励ましてくれているの?」


ふと零れた言葉に、蝶は小さく羽を震わせた。まるで「そうだよ」と囁くように。


「私ったら………蝶に話しかけるなんて………でもありがとう。あなたのおかげでなんだかすごく気持ちが落ち着いたわ」


ルシェルは自分が可笑しくなって、くすっと笑う。

そして、胸の奥がほんの少し温かくなる。

どんなに孤独でも、どこかに確かに自分を見てくれている存在がいる――そんな気がして嬉しかった。

それに何故だかこの蝶といると、心が穏やかになっていく感覚が確かにあった。


蝶はやがて、彼女の指からふわりと離れ、夜空へと舞い上がる。

銀色の光を引くその姿を、ルシェルはじっと見つめた。


「おやすみなさい、綺麗な子……」


ルシェルがそう呟くと、蝶は一度だけふわりと彼女の周りを旋回し、夜の闇の中に消えていった。

ルシェルは少しばかりの恋しさを胸に、庭園を離れた。


銀色の蝶が庭園に現れるようになってから、ルシェルは毎夜のように庭園に向かった。

その度に銀色の蝶は、まるで彼女を舞っていたかのように高く舞って、そしてそっと彼女の指にとまり羽をゆっくりと動かしルシェルの心を穏やかにした。

不思議なことに、イザベルが現れてからずっと不眠だったルシェルだが、あの銀色の蝶に会った日はぐっすり眠れるようになった。


***


皇帝の執務室。


「皇后、近々アンダルシア王国から王子が来訪することになっている。イザベルが側室になってから初の外交の場だ。抜かりないように頼む」


(まるで王子がイザベルのために来訪するかのような言い方ね)


「かしこまりました、陛下」


まるで澄んだ水面に石を落とされたように、ルシェルの心が波立った。

けれどそれを顔には出さず、皇后としての気品を崩すことはなかった。


ルシェルはその足で、手早く侍女たちと側近たちを集めた。

広間の円卓の上に広げられたのは、王宮の接待礼法の古文書、アンダルシア王国の文化資料、そして贈答品の候補リスト。


「アンダルシアは精霊士の国。形式ではなく、心を込めたもてなしが重要になります。特に、アンダルシアの王族は花や香りへの感受性が高いと聞いています」


「庭園のライラックの花束などいかがでしょうか、皇后陛下。陛下が大切にされているお花ですし、我が国の歓迎の象徴となるかと」


「……それは素敵ね。けれど陛下はなんとおっしゃるかしら…イザベルのことを気に掛けてらっしゃるようだし、イザベルの初めての外交の場でもありますから、彼女の名前にちなんでピンクの薔薇の花束にしましょう」


ルシェルは静かに微笑んだ。


「……かしこまりました、皇后陛下」


ルシェルは目を通しながら、ふと視線を遠くに落とす。

急にあの銀色の蝶の面影が、頭の隅にふわりと浮かぶ。


「……それから、王子の滞在中は庭園を開放してちょうだい。あと、庭師を呼んで庭園を整えておいてちょうだい。月夜の庭園は格別だから……」


「お任せください、皇后陛下」


そして最後に、ルシェルは小箱を取り出した。

中には、手ずから花の刺繍を施したハンカチと、ライラックの花の香りを封じ込めた小瓶。


「これは、歓迎の印として、私から直接王子にお渡したいと思います。あまり仰々しくならないよう、控えの間での私的な贈呈にとどめましょう」


「さすが皇后陛下、それはとても素敵なお考えですね!」

「ええ、大変良い案です!」


側近たちは、その繊細な配慮に皆口を揃えてルシェルを称えた。

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