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004

ノアの記憶喪失から3ヶ月が経ち、ノアはイザベルを側室として正式に迎えることにした。




イザベルは平民で、家族もいないそうだ。




ルシェルの元には連日、貴族令嬢たちが集まっていた。




「皇后陛下、どうかお気を確かに……」


「私どもはいつでも皇后陛下の味方ですわ!」


「平民が側室になど…ありえませんわ!」


「きっと陛下の記憶が戻れば元通りになりますわ」




そうやって令嬢たちは声を揃えてルシェルを励ますのだった。


ルシェルにとってそれはありがたくもあり、恥ずかしくもあった。




「皆さんありがとう、私は大丈夫よ。これまで通り皇后としての勤めを果たすだけだわ」




ルシェルは、気丈に振る舞っていたが、内心とても不安だった。




(これから一体どうなるのだろう……)




初めこそ、「平民を側室に迎えることなどあり得ない!」と反対していた側近や一部の貴族たちも、皇后が世継ぎを産むことは期待できないと感じたのか、次第に受け入れていったようだった。




何より、皇帝であるノアの意思は堅かった。






***




華やかな光に包まれた宮殿では、側室となったイザベルを祝う宴が開かれ、貴族たちは彼女をもてはやしている。




連日ルシェルの元に通っていた令嬢たちも、皇帝のイザベラに対する寵愛を目の当たりにし、様子を窺っているようだった。


貴族とはそういうものだ。より有利な方に付く。




宴の主役であるイザベルは、可憐な笑顔を浮かべ、まるで純真無垢な少女のようだった。




ルシェルはその場にいたが、心ここにあらずだった。




(わかりきっていたことだけれど、いざとなると辛いものね)




黄金の杯を手にしながらも、彼女の視線は虚空を彷徨っている。


彼女が皇后であることは変わらないはずなのに、その立場は日に日に危うくなっているのを感じていた。




「皇后陛下、お楽しみいただいていますか?」




柔らかな声が響く。顔を上げると、そこにはイザベルがいた。


彼女の瞳には純粋な光が宿っているように見えたが、その奥には別の感情が隠されていることをルシェルは見逃さなかった。




「ええ、とても」




ルシェルは微笑んだ。しかし、それは決して本心ではない。




「よかったです。陛下も今夜の宴をとても楽しんでおられるご様子ですし……」




イザベルは少し頬を赤く染めて言った。




その言葉にルシェルの胸の奥が鈍く痛む。ノアが彼女に優しく微笑んでいる光景が脳裏をよぎる。私にそうしていたように、彼女にもあの優しい眼差しで見つめながら愛を囁いているのだろうか。




「……そうね」




ルシェルはそれ以上何も言えず、ただ杯の中の酒をゆっくりと口に運んだ。




ーー宴が終わり、夜の宮殿に静寂が戻る頃、ルシェルはノアと向かい合っていた。




「陛下、私の気持ちはどうでもいいのですか?」




静かながらも張り詰めた声で彼女は問いかけた。




「皇后、これは国のための決断でもある。それにもう決まったことだ。そなたはこの国の皇后だろう?国のことを一番に考えるべきだと思うが」




ノアの声は冷静だった。だが、その言葉は彼女の心をさらに締め付ける。




あの温かく、優しかったノアはもういない。


”ルシェル”と陽だまりのような笑顔で私を呼ぶあの頃の彼はもうどこにもいない。




「あなたも私が子供を産めない役立たずだと思っているのね……。私だって、この国の皇后として勤めを果たそうと努力してきたわ。それに…たとえあなたの記憶がなくても、私たちは紛れもなくこれまで共に歩んできた夫婦なのです。それなのに、たった3ヶ月で素性もわからない側室を迎えるなんて…」




「……」




ノアは言葉を詰まらせた。


その沈黙が、ルシェルにとって何よりも辛かった。




「……もういいです。お時間をとらせてしまい申し訳ありませんでした、陛下。失礼いたします」




そう言うとルシェルはその場を後にした。




ノアが追いかけてくることはなかった。




***




宴の夜からしばらく経った頃、ある報せが宮殿を駆け巡った。




「イザベル様がご懐妊されたそうよ!」


「これで皇室は安泰ね!」


「やはり皇后様は妊娠できないお体だったのね…」




侍女たちが騒いでいる。




喜びの声が響く中、ルシェルはただ静かに目を伏せるしかなかった。




ーー翌週、父であるアストレア公爵から手紙が届いた。結婚して4年が経つが、父から手紙が来たのは初めてのことだった。


封の印章は間違いなくアストレア公爵家のもので、手紙には、冷たく鋭い筆跡が並ぶ。




(懐かしい、お父様の字だわ)




「おまえが皇后である限り、感情に心を支配させるな。皇帝の記憶が戻らぬならば、立場を盾に威を示せ。婚姻とは名誉だ。思慕ではない。おまえはこの国で一番権威のある女性であることを、忘れるな」




一読し、ルシェルはゆっくりと紙を折った。手は震えていなかった。


けれど、心の奥にかすかな痛みが滲んだ。




父は娘を”ヴェルディア帝国の皇后”としてしか見ていないのだ。






***




ーー夜の庭園にひそやかな風が流れる。




この庭園はかつて、ルシェルとノアが幼い日の約束を交わした大切な思い出の場所だ。


今やルシェルだけの思い出となってしまったが…。




月明かりの下、庭園を散策しているとひときわ目を引く銀色の蝶が舞っていた。


ルシェルがそっと手を差し出すと、それはためらうことなく指先にとまり、微細な羽ばたきを繰り返す。まるで彼女の苦しみを知り、慰めようとするかのように。




(不思議な蝶ね。綺麗だわ.......)




「陛下は、またイザベル様のもとにお泊まりのようです」




ルシェルが蝶に見惚れていると、侍女エミリアが静かに声をかける。




「そう……いいのよ、ありがとう」




ルシェルは静かに微笑んだ。


エミリアは胸を痛めながらも、主君の心を察し、それ以上の言葉を飲み込む。




イザベルの懐妊が知れ渡ってから数日が経ったが、ルシェルの日常はさほど変わらなかった。


噂話をする者たちが居ても、彼女に直接何かを言ってくる人などいなかった。




幼い頃から皇后になるべく育ってきた彼女は、子供がいないこと以外は紛れもなく完璧な皇后だったからだ。




一方、イザベルは懐妊してからも変わらず、ノアに対して純真無垢な少女のように振る舞っていた。




「陛下、今夜も一緒に寝てもいいですか?」




ノアの指が彼女の頬に触れる。




「イザベル、お前は本当に愛らしいな」




「陛下こそ、いつも素敵です。私は陛下の側室になることができて幸せです」




「そうか、それは良かった。これからは私の側室として、好きなことをするといい。誰もお前を馬鹿にしたりしないように」




「ありがとうございます、陛下。陛下と一緒にいられれば、私は充分幸せです」



「そうか。お前は本当に素直だな」




ノアがイザベルを愛おしむように、そっと口付けした。




イザベルは確かにノアを愛していた。


しかし、それと同時に皇后の座を手に入れたいという野心もまた捨てられなかった。




***




ーーある日の昼下がり




「皇后陛下、本当に申し訳ありません」




イザベルがルシェルに対して、出会い頭に突然謝罪をしてきた。




「…何のことかしら?」




「私のせいで…私がいるから陛下は、私のもとにばかりおいでになります……皇后陛下のお気持ちを思うと、私もとても心苦しいのです……」


 


ルシェルは顔に出さないように、怒りを抑え、必死に平静を装った。




「それはあなたが気にすることではないわ。それに、側室にしたのは陛下であって、あなたのせいではないもの。でも、あなたはあくまで側室だってことを忘れてはいけないわ」




「まあ、そんなこと……。私はただ、皇后陛下はお子が成せない体だと聞いたので…代わりにお役目を果たさなくてはと……」




イザベルは悪びれる様子もなく、逆に少し困ったような顔をする。




「ちょっとあなた……皇后陛下に対してなんて態度なの!!平民の分際で!!」




エミリアが堪えきれずに、イザベルを攻め立てた。




「いいのよ、エミリア」




ルシェルがエミリアを宥めていると、ノアがやってきてイザベルの肩をそっと優しく抱き寄せた。




「何事だ?」




「陛下…私はただ、皇后陛下にご挨拶をしただけなのですが、この侍女が私を”平民のくせに”と罵ったのです」




「なんだと?本当か、皇后」




(やっぱり彼女の肩を持つのね)




「確かに私の侍女が失言したことは認めますが、先に皇后である私に対して、無礼な物言いをしたのは彼女です。何を言ったのかも聞かずに彼女の肩を持つのはおやめください」




「…たとえイザベルが無礼な物言いをしたとしても、皇后は目上のものとして寛大になるべきであろう。それに、その侍女はイザベルよりも偉いのか?その侍女は罰せねばならん。側室に対して無礼な発言をしたのだからな」




ノアはルシェルの話を聞くつもりなどないようだった。




(呆れたわ……)




イザベルは涙を浮かべながらノアに抱きついた。




「おやめください、陛下。私は皇后陛下と仲良くしたいだけなのです。これでは嫌われてしまいます....」




「イザベル…」




(この茶番劇をいつまで見なくてはいけないのかしら)




「では他にお話はないようですので、私たちはこれで失礼いたします」




「待て、まだ話は終わっていない!」




ノアが引き止める声がしたが、ルシェルは構わずエミリアの手を引き、足早にその場を去った。




「皇后陛下、申し訳ありません…つい腹が立ってしまい…」




エミリアが申し訳なさそうにしている。




「いいのよ。ありがとう、私のために。でもこれからはあのような発言は控えてちょうだいね。万が一、あなたが罰を受けることになんてなったら嫌だもの」




「皇后陛下……」




ルシェルはエミリアに苦しそうに微笑んだ。




エミリアもそんなルシェルを見て、苦しくなった。

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